「しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」(第2回)ハバクク2章4節

Pastor Ino

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今回は、ハバクク書から2回目のメッセージです。前回同様に、2章4節の「見よ。心のまっすぐでない者は心を高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」との御言葉を取り上げてみます。まず、ここでの、正しい人とは、その行いが完全な人ではありません。ローマ書1章17節から、信仰によって罪を赦され、義と認められた人のことです。キリストの十字架での贖いを、信仰を持って受け入れた者、その人たちこそ新約聖書が教える正しい人です。キリスト者は、キリストへの信仰を持つことのゆえに、神に義とされ、神と共に生きる人生を歩むのです。正しい人は、自らの信仰によって、日々のクリスチャン生活を通して、キリストに似せられていくという救いを受けながら、最終的な救いの完成を目指して生きるのです。反対に、心のまっすぐでない者とは、神への信仰を持たない人であり、当時の南ユダ国の為政者や、バビロンの指導者たちをまず指しています。彼らは真の神への信仰を失い、状況に左右されて生きる人たちです。前回触れましたが、ハバクク書2章には、ハバククの祈りへの神の応答が書かれています。それが幻として描かれています。今日はその幻に触れながら、正しい人はその信仰によって生きるとの御言葉を味わっていきたいと思います。

ハバククに与えられた幻は、直接的にはバビロンに対する神の裁きを伝えるものですが、同時に神に背を向けて生きている世界の指導者たちへのメッセージでもあると思います。バビロンは自分の力を誇り、富を増やして行きますが、堕落し、神の裁きを受けるのです。心のまっすぐでない者は心を高ぶるとありますので、神を信じないで、一時的な状況の変化に自らの歩みが左右され、高慢になって行く、そのような指導者の姿が目に浮かんできます。今の世界を見る時に、独裁的になり、多くの人たちの権利や自由を奪い、自分の名誉に固執している、そのようなリーダーが多く起こっています。今日のメッセージでは、そのようなリーダーの姿を映し出し、神の裁きがいつか彼らに望む、そのメッセージとしてもとらえて行こうと考えています。そして、この幻は、「ああ」と言う言葉が一つの特色となっています。この「ああ」、と言う言葉ですが、あざけりの意味を含んだ表現になります。神様があきれてしまっているのです。本当に寂しいことです。それでは2章5節からの流れを見てみましょう。

5節には、「実にぶどう酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足りることを知らない。彼はすべての国々を自分のもとに集め、すべての国々の民を自分のもとにかき集める。」とあります。彼らは戦いに勝利し、多くの物を集めたのです。しかし、この聖句は、当時のバビロンの指導者たちを、ぶどう酒に欺かれているような歩みをしていると表現しています。彼らは、高ぶり、定まりがなく、のどを広げ、満足することなく、すべての国々を自分のもとに集め、力と富に固執しているのです。神の視点は、なんと彼らは愚かなのか、その視点に立った表現となっています。それは、「ああ」との言葉から始まります。6節の後半には、「ああ。自分のものでないものを増し加える者。いつまでだろうか。質物でおのれを肥やす者。」とあります。質物とありますが、本来は自分の物ではない物です。肥やすとはユニークな表現です。腐敗のにおいがします。彼らに向かって、神は言われます。7節で、「あなたをかむ者が突然起き上がり、あなたを揺り動かす者が目ざめないだろうか。あなたは彼らに奪い取られる。」と。そして8節の前半に、「あなたが多くの国々を略奪したので、ほかのすべての国々の民が、あなたを略奪する。」とあるのです。自らがしたように、自分もされ、自分の人生に神の裁きが降り掛かります。

9節も、2回目の「ああ」から文章が始まります。「自分の家のために不正な利得をむさぼり、わざわいの手からのがれるために、自分の巣を高いところに据える者。」とあります。バビロンの指導者は、不正な利得をむさぼり、災いの手から逃れるために、自分の家を安全だと思われる高い所に立てたのです。しかし、彼の作り上げた不正の家の石垣から、その石が自分たちの愚かさを叫び、また自分の家の梁はその叫びに応答するのです。バビロンの宮殿は、恥ずべき建物であり、彼らの魂の罪の姿を現す物であると言うのです。

3番目の「ああ」が、12節から始まります。「ああ。血で町を建て、不正で都を築き上げる者。」と。カルデヤ人たちは、多くの捕囚の民を奴隷のように使い、自分たちの町を建てたようです。流血の戦利品で町が建てられて行ったのです。しかし、そのような町づくりに反して、14節には、「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる。」とあります。不思議な預言の言葉ですが、バビロンが滅ぼされ、神の時が来て、救い主が地上に来られるとの預言です。主の栄光が地を満たし、メシアの王国が出現するのです。参照箇所、イザヤ11章9節。

4番目の「ああ」が、15節から始まります。「ああ。自分の友に飲ませ、毒を混ぜて酔わせ、その裸を見ようとする者。」とあります。彼らは自分の同盟国の友をも酒を飲ませて支配しようとするのです。それも性的な暴力の表現を取っています。16節の前半には、「あなたは栄光よりも恥で満ち足りている。」とあります。自分の恥がいつか明らかにされるのです。また17節には、「レバノンへの暴虐があなたをおおい、」とありますから、レバノン杉で有名な豊かな地域を暴力で踏みにじる様子が描かれています。今も世界の国々では、暴力で女性の自由が奪われたり、性的な暴力を受ける、そのような報道がなされています。神は、いつかそのような暴君の恥を明らかにされるのです。

5番目の「ああ」は、19節に書かれています。「ああ。木に向かって目をさませと言い、黙っている石に向かって起きろと言う者よ。それは像だ。それは金や銀をかぶせたもの。その中には何の息もない。」とあります。それはカルデヤ人たちが、偶像に向かって拝んでいる姿を描いています。18節には、「彫刻師の刻んだ彫像や鋳像、偽りを教える者が、何の役に立とう。物言わぬ偽りの神々を造って、これを造った者が、それにたよったところで、何の役に立とう。」とあります。偶像に希望を寄せる、その愚かな人生を歩む姿が描かれています。何の役に立とうとありますので、神の厳しい裁きにその偶像は何の助けにもならないのです。

このようにハバククは自分の祈りを通して、バビロンが神のあざけりの対象であること、一時的にエルサレムを裁くために神が用いたに過ぎないこと、そのような神の大きなご計画を教えられることとなります。そしてこの幻の最後に、20節で、「しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ。」とあるのです。確かにエルサレムは滅ぼされます。しかし同様に、バビロンも滅ぼされるのです。神から離れ、自分の栄華を求める民は、いつか同じように神の裁きにあうのです。私たちは真の神、その前に静まって、状況を吟味して、信仰を持って神の導きを求める、そのような生き方をするようにと教えられます。参照箇所、詩編76:8、9、12。

先週の日曜日に、東京教区の賛美と祈り、また交わりの時を私たちの教会で持ちました。そこで私たちは賛美の歌詞に心を注ぎながら、私たちに神が何と語ってくださるかを聞く時を持ちました。私には、「これは私のストーリーです(This is my story.)」とのメロディーが心に残りました。私の人生を終えるときに、これは、私のストーリーです、と言える神様との出会いが与えられたことを本当に感謝いたしました。皆さんにとっても、これが私のストーリーですと感謝の思いを持って人生を振り返る、そのような時がいつか来ると思います。私たちの置かれた状況は日々変わります。しかし、いつか正しい裁きをなされる神に私たちは出会うのです。そして、私たちを私たちの信仰のゆえに天に引き上げてくださる、そのような神にお会いするのです。私たちの人生を神は確かに導いてくださっておられます。そのような信仰を持って生きていきたいと思っています。

もう一度読んでみます。2章4節で、「見よ。心のまっすぐでないものは心を高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」と語りかけています。皆さんはこの社会でどのような信仰を持って生きておられますか。困難の中にも確かに神の助けがあるのです。

信仰について教えている、ヘブル書11章21節には、「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。」と書かれています。このヤコブは、その時、「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(創世記48:15)と祝福の言葉を始めています。「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」本当に素晴らしい信仰の告白であると私は思います。そして、私たちも同じ信仰の告白をしたいと思います。明日はわからなくて、ずっと私の羊飼いであられた神、その神が確かにおられるのです。そのような告白をする者でありたいと願っています。

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