「羊飼いと三つの晩餐」 (マルコ6章30~44節)

↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】

はじめに
私の結婚式は9年前だったんですが、その時の食事会がとても思い出深く、心に残っています。結婚式の披露宴(晩餐会)に大勢の親戚や友人が一堂に会したことは、とても嬉しかったです。披露宴には100人とか150人集まってくれました。このくらいの人数はマレーシアの結婚式では普通です。レストランが食事を準備している間にも、私たちは誰を呼ぶかとか、どこに座ってもらうかなどを決める作業をまだやっていたのを思い出します。

さて、イエスが5千人の群衆に食べ物を与えた話を、皆さんきっと聞いたことがあると思います。5千人を取りまとめるのも大変でしょうが、それだけの人数の食事を用意するなんて想像もできませんね。でもそれが起こったと、今日の聖書箇所、マルコ6章には書かれています。
この5千人の人に食べ物を与えたという話は、私たちの持っているものや能力を神は何倍にも増やすことができるというメッセージでよく聞かれます。あるいは、弟子たちがイエスの御力をもっと信じてゆだねることができるように、イエスが弟子たちにチャレンジしたというテーマでも話されます。
でも、今日のメッセージでは、私は違うアプローチでお話ししたいと思います。私が強調したい点は、ご自身の民を大切にするイエスが、イスラエルの羊飼いであると明らかにしたという点です。そしてイエスが5千人に食べ物を与えたことは、聖書の3つの晩餐を暗示している点、更に何故、3つの晩餐がクリスチャンとして喜ばしいのかをお話します。聖書を読む前に、まずお祈りしましょう。
(マルコの福音書6章30節~44節を読む)

羊飼い
宣教で忙しい時間を過ごした後で、イエスと弟子たちは少し休みたいと思いましたが、多くの群衆が押しかけてくるので、なかなか休むことができませんでした。マルコの福音書には男性が5千人いたと書かれています。ですから女性や子どもを合わせると、群衆の数は5千人よりもっと多かったということです。
39節と40節で、人々は組、グループに分かれて座っていたと書かれています。グループという言葉のもとのギリシャ語は、symposiaという言葉が使われています。symposiaという言葉には、にぎやかな晩餐会でゆったりとテーブルを囲んで食事をしながら食事し、お酒など飲み物を飲んで、おしゃべりするゲストの人たちというイメージがあります。マルコの福音書にはこのsymposiaというギリシャ語が使われているので、イエスが人里離れたところで、晩餐会を開いたというイメージが浮かんでくるんですね。

イエスの心は、休息を邪魔する群衆に怒るのではなく、彼らを助けようと動きました。何故なら彼らがまるで「羊飼いのいない羊」のように見えたからです。(34節)
旧約聖書で「羊飼いのいない羊」という表現は、イスラエルに神を敬う指導者がいなかったことを表しています。例えば、第一列王記22章やゼカリヤ書10章、イザヤ40章、エレミヤ31章、エゼキエル34章などでこの表現が見られます。この多くが預言で、その中で神は人間のリーダーによる搾取を許さずに、散り散りになった羊を集め、イスラエルの民を導くと約束しておられます。(イザヤ40:11、エレミヤ31:10、エゼキエル34:5-15参照)

イエスが羊飼いであるという考えを更に強調するために、マルコは39節で、イエスは人々を「青草」、緑の草の上に座らせたと細かに描写しています。イエスが羊飼いであるという考えと、イエスが人々を「青草」の上に座らせたと描写することで、マルコは詩編23篇のイメージを持たせたかったのだと思います。詩編23篇には「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、…」とあります。(詩編23:1-2)
よい羊飼いはその羊たちにとって、よい場所へ導きます。羊たちが休息を取れる場所に。食べることができて、飲むこともできて、養われる場所へと導きます。
聖書の他の箇所では、イエスはご自分をイスラエルの「よい羊飼い」と言っています。(ヨハネ10章) つまり、イエスはご自分を神と同等に置き、イエスのなす奇蹟によって、ご自分の御言葉の真実を証ししました。人里離れた場所で, イエスはお腹をすかしている群集に食べ物を与えました。それはまるで、昔、神がイスラエルの民に荒野(あらの)で食べ物を与えた旧約聖書にある奇蹟のようです。5千人に食べ物を与えるという奇蹟は、イエスが神の力を持っていること、そしてあらゆる人々の必要に応えてくださるお方であることを表しています。いろいろな点でこのことは私たちを励まし、導いてくれますが、ここで三点、挙げたいと思います。

第一点。それは、もし私たちが持っているものや能力がわずかであっても、イエスに捧げるなら、神はそれを何倍にも増やすことができるということです。これは真実です。けれども、もし私たちが教会に気前よく献金するなら成功を得て、お金持ちになれますよというなら、それは真実ではありません。今日の聖書箇所を引用して、こういうことを教える説教者が中にはいるんですよ。ディダケー(十二使徒の教訓)と呼ばれる初期のキリスト教の文書には、人々に教えることでお金を取る偽(にせ)預言者に気をつけなさいと、次のように書かれていました。「もし説教者がお金を求めるなら、彼は偽預言者です…、その者の言うことを聞いてはなりません。…しかし、もしその説教者が困っている人に与えなさいと言うのなら、誰にもその説教者を裁かせてはなりません。」

第二に、神は私たちの霊的な健康と物理的身体的な必要の両方を心配してくださっているということです。私たちの体は神による貴い創造物であり、私たちが自分の体を大切にしなかったり、虐(しいた)げたりすることを神は望んでおられません。同様に私たちは、いろいろなやり方で周りの人々を思いやっていかなければなりません。
福音を伝える必要なんてない、ただ貧しい人に対する経済的な支援や社会活動をすれば十分と言うクリスチャンもいます。しかしイエス様が模範を示してくださったように、私たちは福音を伝え、そしてよりよい世界にするために実際的な活動をしていく、その両方を担っていくべきだと思います。私たちは人々の必要に対して、全体を見渡すような視点を持つことが大事ではないでしょうか。

第三に今日の箇所が教えてくれていることは、イエス様の驚くべき愛です。イエスは、ご自分が疲れている時も憐みの心を持っておられました。つまり、イエスは私たちに対して非常に忍耐強くおられるということです。私たちは神は何となく非難めいた存在と考えてしまうことがありますが、神は本当に私たちを温かく受け入れてくださるお方です。願わくは、私たちもイエス様のような憐みの心を持ちたいものです。憐みの心や思いやりを持っているからといって、いつも誰かの頼みに「はい、いいですよ」と言わなくてはいけない、ということではないと思います。「できません」と答えても、思いやりの心を示すことはできます。どのような態度を示すかが大切だと思います。イエス様のように人を愛することは決して簡単ではありません。ですから私たちは聖霊の助けが必要なのです。

3つの晩餐
宣教で忙しい時間を過ごした後で、イエスと弟子たちは少し休みたいと思いましたが、多くの群衆が押しかけてくるので、なかなか休むことができませんでした。マルコの福音書には男性が5千人いたと書かれています。ですから女性や子どもを合わせると、群衆の数は5千人よりもっと多かったということです。
39節と40節で、人々は組、グループに分かれて座っていたと書かれています。グループという言葉のもとのギリシャ語は、symposiaという言葉が使われています。symposiaという言葉には、にぎやかな晩餐会でゆったりとテーブルを囲んで食事をしながら食事し、お酒など飲み物を飲んで、おしゃべりするゲストの人たちというイメージがあります。マルコの福音書にはこのsymposiaというギリシャ語が使われているので、イエスが人里離れたところで、晩餐会を開いたというイメージが浮かんでくるんですね。

イエスの心は、休息を邪魔する群衆に怒るのではなく、彼らを助けようと動きました。何故なら彼らがまるで「羊飼いのいない羊」のように見えたからです。(34節)
旧約聖書で「羊飼いのいない羊」という表現は、イスラエルに神を敬う指導者がいなかったことを表しています。例えば、第一列王記22章やゼカリヤ書10章、イザヤ40章、エレミヤ31章、エゼキエル34章などでこの表現が見られます。この多くが預言で、その中で神は人間のリーダーによる搾取を許さずに、散り散りになった羊を集め、イスラエルの民を導くと約束しておられます。(イザヤ40:11、エレミヤ31:10、エゼキエル34:5-15参照)

イエスが羊飼いであるという考えを更に強調するために、マルコは39節で、イエスは人々を「青草」、緑の草の上に座らせたと細かに描写しています。イエスが羊飼いであるという考えと、イエスが人々を「青草」の上に座らせたと描写することで、マルコは詩編23篇のイメージを持たせたかったのだと思います。詩編23篇には「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、…」とあります。(詩編23:1-2)
よい羊飼いはその羊たちにとって、よい場所へ導きます。羊たちが休息を取れる場所に。食べることができて、飲むこともできて、養われる場所へと導きます。
聖書の他の箇所では、イエスはご自分をイスラエルの「よい羊飼い」と言っています。(ヨハネ10章) つまり、イエスはご自分を神と同等に置き、イエスのなす奇蹟によって、ご自分の御言葉の真実を証ししました。人里離れた場所で, イエスはお腹をすかしている群集に食べ物を与えました。それはまるで、昔、神がイスラエルの民に荒野(あらの)で食べ物を与えた旧約聖書にある奇蹟のようです。5千人に食べ物を与えるという奇蹟は、イエスが神の力を持っていること、そしてあらゆる人々の必要に応えてくださるお方であることを表しています。いろいろな点でこのことは私たちを励まし、導いてくれますが、ここで三点、挙げたいと思います。

第一点。それは、もし私たちが持っているものや能力がわずかであっても、イエスに捧げるなら、神はそれを何倍にも増やすことができるということです。これは真実です。けれども、もし私たちが教会に気前よく献金するなら成功を得て、お金持ちになれますよというなら、それは真実ではありません。今日の聖書箇所を引用して、こういうことを教える説教者が中にはいるんですよ。ディダケー(十二使徒の教訓)と呼ばれる初期のキリスト教の文書には、人々に教えることでお金を取る偽(にせ)預言者に気をつけなさいと、次のように書かれていました。「もし説教者がお金を求めるなら、彼は偽預言者です…、その者の言うことを聞いてはなりません。…しかし、もしその説教者が困っている人に与えなさいと言うのなら、誰にもその説教者を裁かせてはなりません。」

第二に、神は私たちの霊的な健康と物理的身体的な必要の両方を心配してくださっているということです。私たちの体は神による貴い創造物であり、私たちが自分の体を大切にしなかったり、虐(しいた)げたりすることを神は望んでおられません。同様に私たちは、いろいろなやり方で周りの人々を思いやっていかなければなりません。
福音を伝える必要なんてない、ただ貧しい人に対する経済的な支援や社会活動をすれば十分と言うクリスチャンもいます。しかしイエス様が模範を示してくださったように、私たちは福音を伝え、そしてよりよい世界にするために実際的な活動をしていく、その両方を担っていくべきだと思います。私たちは人々の必要に対して、全体を見渡すような視点を持つことが大事ではないでしょうか。

第三に今日の箇所が教えてくれていることは、イエス様の驚くべき愛です。イエスは、ご自分が疲れている時も憐みの心を持っておられました。つまり、イエスは私たちに対して非常に忍耐強くおられるということです。私たちは神は何となく非難めいた存在と考えてしまうことがありますが、神は本当に私たちを温かく受け入れてくださるお方です。願わくは、私たちもイエス様のような憐みの心を持ちたいものです。憐みの心や思いやりを持っているからといって、いつも誰かの頼みに「はい、いいですよ」と言わなくてはいけない、ということではないと思います。「できません」と答えても、思いやりの心を示すことはできます。どのような態度を示すかが大切だと思います。イエス様のように人を愛することは決して簡単ではありません。ですから私たちは聖霊の助けが必要なのです。

結び
最後のまとめですが、5千人の空腹を満たす奇蹟は、明らかにイエスが神であり、イスラエルの羊飼いであることを示した出来事でもあったと思います。イエスは私たちの必要、そして私たちの空腹を満たしてくださるお方です。私たちの必要や空腹は物理的なものであっても精神的なものであっても、霊的なものであってもイエスは満たしてくださいます。そして、私たちはイエス様が与えてくださる素晴らしい未来を待ち望み、いつか喜び祝うのです。
今日は晩餐についてたくさん話してきました。聖書は、霊的な真実の象徴として食べ物にたとえることが非常に多いです。食べ物は生きる糧(かて)、霊的な交わり、お祝い、温かいもてなしを象徴します。
最後に食べ物に関係することでお知らせがあります。今、私はあるフードバンク団体に食べ物を寄付する活動を取り仕切っています。教会のキッチンのところに段ボール箱を置いておきますので、そこに生もの以外の食料を入れていただければ感謝です。それをフードバンク団体に寄付します。キリストの愛を言葉だけでなく行動をもって示しましょう。

最後に祈りましょう。
神様 祝福されしあなたの一人子は、パンと魚を取り、裂き、弟子たちに与え、大勢の人たちに配らせました。この日、主は愛と憐(あわれ)みの心で、飢えた人々に食べ物を与え、絶望した人々に希望を与えました。聖餐式の聖なる食物(しょくもつ)により養われた私たちが、主と同じ愛と憐みの心で満たされますように。父なる神、主イエス、聖霊に栄光と誉れがとこしえにありますように。主イエス様の御名によってお祈りします。

(上のバーから聞けない方は青いボタンから)
iPhone

 

タイトルとURLをコピーしました