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20章1節には、「第7年の第5の月の10日に、イスラエルの長老たちの幾人かが、主に尋ねるために来て、私の前にすわった。」と書かれています。第7年とは、エホヤキン王がバビロン捕囚となってから7年目のことであり、エルサレムが滅ぼされる年の4年前の時期に当たります。イスラエルの長老たちは、危機に瀕しているエルサレムの状況を心配してエゼキエルのところに集まってきたのです。前回触れましたが、エルサレムのゼデキヤ王がバビロン王との契約を破棄し、バビロンに反逆しようと企てていたのです。17章15節に、「そんなことをして彼は成功するだろうか。助かるだろうか。契約を破って罰を免れるだろうか。」と書かれていました。
結論を申しますと、聞かれない祈りがある、それならば神に聞かれる祈りもあるのです。新約の第一ヨハネ5章14節には、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」と書かれています。神の御心にかなう願い、これこそ聞かれる祈りです。
神のご計画、それは神から離れ堕落してしまったイスラエルの民を、神は正しく裁くことです。しかしそれで終わりではなく、もう一度神は、彼らに回復の道を備え、また、新しい歩みを備え、恵みの中にある人生に導くことです。エゼキエルは、なぜエルサレムが滅ぼされなければならないのか、そのことを民に伝えることとなります。
20章4節には、「あなたは彼らをさばこうとするのか。人の子よ。あなたはさばこうとするのか。彼らの先祖たちの、忌み嫌うべきわざを彼らに知らせよ。」とあります。神はエゼキエルに、長老たちの頑なな心を裁くのではなく、彼らになぜエルサレムが滅ぼされなければならないのか、そのことを知らせるよう命じています。神がエルサレムを裁かれる、その理由は民の神への反逆、従うことのない心、また偶像に心を奪われてしまっているその姿に原因があるのです。20章では、そのことを明らかに伝えています。それは出エジプトの時からです。それならば、なぜ民は神によって許され、生かされてきたのでしょうか。その理由として9節に、「しかし、わたしはわたしの名のために、彼らが住んでいる諸国の民の目の前で、わたしの名を汚そうとはしなかった。」とあります。このユニークな表現、私の名を汚そうとはしないとは、神の御名を崇めることの反対の言葉です。神の名を汚すとは、神には力がないとの思いを諸国の民に伝えてしまうことです。
私たちは今、主の祈りの最初に、御名があがめられますようにと祈ります。神の御名があがめられるように。私の思い、私の行動、私の存在を通して、神の御名があがめられますように。これこそ私たちの祈りであり、生かされている意味であると思います。すべてのことを神の栄光のためにする、そう願って生きる、それこそ救われた信仰者の心の有り様です。皆さんも今置かれた状況の中で、神の御名があがめられますようにとの思いを持って生きておられると思います。そう願う時に、何が大切であり、何をすべきなのか当然私たちは判断をして生きることになります。それでは、ここで神様が言われた神の名を汚すとは、神は絶対的な力、権威をお持ちの方であることを人々が認めなくなることです。そのように神への失望を諸国の民に伝えることであります。神の名をあがめる、それはイスラエルの民が選ばれた理由の一つでもあります。彼らは、聖なる国民、祭司の王国としてこの地上で生きるように、その目的を持って召されたのです。神がその目的を持って召した民を、彼らの過ちの大小で滅ぼすことはなさらないのです。神の名には力があります。神は絶対的な権威や力を持っておられます。神はご自身の名が汚されることのないように、イスラエルの民を愛し続け、受け入れ続けておられると言うのです。新約の恵みの中に生きる私たちに対しても、その原則は変わらないと私は信じています。イエスの名には力があります。伝道者のパウロは、キリストの御名を異邦人に伝えるようにとの命を受けました(使徒9:15)。神の力をお持ちになるイエスは、私たちを選んでくださり、その十字架の恵みによって私たちを救ってくださったのです。神の救いのご計画は変わることはありません。神の名が汚されることがないように、私たちの人生を守っておられるのです。
イスラエルの民が裁かれる理由の一つとして、モーセの十戒に従って歩まなかったことが指摘されています。そしてその中でも安息日を守らなかったことが重要視されています。20節には、「また、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ。」と書かれています。私たちは今もう一度、安息日の大切さを覚えていく必要があります。私たち信仰者は、神によって愛され、生かされているのです。その恵みを覚えて、神に感謝を捧げるのです。そのように感謝を捧げる生き方は、現代に生きる私たち信仰者の大切な生き方であると思います。私たちは週に1度、教会に集い、神の御言葉に触れ、神の恵みを覚え、神に感謝を捧げるのです。感謝の思いをもって、心も体もリフレッシュして行くのです。そのように安息日を大切にする生き方を目指していこうではありませんか。
続いて32節には、「あなたがたが、私たちは木や石を拝んでいる異邦の民、国々の諸族のようになろうと言って心に思い浮かべていることは決して実現しない。」と書かれています。彼らは信仰から離れ、木や石を拝んでいる異邦の民、国々の諸族のようになろうと言っていたのです。一時的には、神を知らない人たちはこの地上で物質的な幸せを味わうこともあるでしょう。お金こそ私の生きる目的ですと言って、ぜいたくな暮らしを目指す未信者の方も多くおられるからです。残念ながら、当時のイスラエルの民は、自分たちの生きる目的を失い、異邦人のようになろうと思っていたと言うのです。このような心を持つ者たちの祈りを果たして神は聞かれるのでしょうか。
これらのことをエゼキエルは長老たちに伝えることとなります。本当に残念な内容です。しかし33節から38節には、裁きの後にもう一度回復の道を神は備えておられる、そのことを明らかにしています。それも一人一人が自分の信仰を吟味していく姿勢を求めています。そこには神である主が必ずあなた方を治める(33)。あなた方を連れ出し、あなた方を集める(34)。あなた方をさばく(35)。むちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び(37)、そして、わたしにそむく反逆者をえり分ける(38)、とあります。新たに神様との祝福の中に生きる者は、もう一度神様との関係を見直して、回復する必要があるのです。そこに神の選びがあるのです。むちの下を通らせとは、神の正しい審判を受けることです。そして、その後再び神の者とされてゆく、それが新たな契約を結ぶとの表現が意味することです。
このようにエゼキエルは民の長老に語りかけます。神の裁きは必ずくるのです。しかし、神との関係を新たに結ぶ者が起こされていくのです。このことを今私たちは信仰の目を持って読むことができます。私たちは一人一人がキリストを信じて、新たな関係の中に歩む必要があるのです。新約の視点からこれらのみ言葉を理解していきたいです。
40節と41節には、回復されたイスラエルの民の礼拝の姿が表現されています。そこには、「最上のささげ物を求めるとか、また、あなたがたをなだめのかおりとして喜んで受け入れる。」とあります。新約の時代に生きる私たちにとって、最上のささげ物とはキリストご自身のことであることが分かります。キリストの十字架での贖いの業を通して、私たちも自らを神に捧げる者となり、真実な祈りを捧げる者となるのです。
今日の結論ですが、聞かれない祈りもありますが、聞かれる祈りも確かにあるのです。祈りが聞かれていないと感じる時、自らの歩みを吟味する良い機会です。その時こそ、自らの歩みを振りかえって、神様との関係を見直す時だからです。神との新たな関係を見いだし、神のみこころにかなう願いをする者となって行こうではありませんか。
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