「悔い改めて、生きよ。」エゼキエル書18章32節

Pastor Ino

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今回は、エゼキエル書から2回目のメッセージです。今日の聖書箇所として、エゼキエル書18章の31節と32節を選びました。そこには、「あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。神である主の御告げ。だから悔い改めて、生きよ。」と書かれています。この箇所から「悔い改めて、生きよ。」とのテーマでメッセージを語ります。

前回、エゼキエル書の背景について簡単に述べました。イスラエルの民は、バビロンに連れていかれた民と、エルサレムに残された民に分かれました。エゼキエルはバビロンに捕囚とされた民の1人であり、バビロンでエルサレムが滅ぼされるという神からのメッセージを語ることになります。 17章も、エルサレムが滅ぼされるとのメッセージです。17章11節から14節には、そのプロセスが描かれています。その内容は以下のようです。バビロンの王がエルサレムに来て、エルサレムのエホヤキン王と首長たちを捕え、バビロンに連れて行きました。そしてバビロンの王は、自分に忠実に仕えてくれると信じた王族の1人、ゼデキヤ王を選んで、彼と契約を結び、忠誠を誓わせたのです。もちろんバビロン王の思いは、自分に反逆しないように、その王国を低くして、立ち上がれないようにすることです。そして自分との契約を守らせて、自分に仕えさせるためであったのです。ところが、ゼデキヤ王はバビロンの王に反逆し、使者をエジプトに送り、馬と多くの軍勢を得ようとします。エゼキエルは問いかけます。そんなことをして彼は成功するだろうか。助かるだろうか。契約を破って罰を免れるだろうかと(15節)。この契約はバビロンの王とエルサレムの王とのものです。確かに二度とバビロンに反逆しないようにとの契約は、一方的なものであったのかもしれません。優秀な人材はバビロンに連れて行かれて、残された民の力は限定的で縮小したものとなっていたのです。エルサレムのゼデキヤ王は、自分の能力や周りの環境を顧みず、エジプトにより頼み、バビロンとの契約を破ってバビロンに反逆をしようと企てるのです。

皆さん、確かにこの契約は人と人との契約で、簡単に破ることができるとゼデキヤ王は思ったのでしょう。ところが神の視点は違います。神は全てを支配され、イスラエルの民が悔い改めて真実の歩みをするようにと、バビロンの支配下に彼らを置かれたのです。罪を犯したイスラエルの民を神はバビロンを用いて裁き、70年後に解放の時を与えようとされたのです。自分の願うように生きることができない、それは確かにつらいことです。私たちも時には思いがけないリーダーのもとに置かれ、つらい時期を経験することもあります。しかしクリスチャンは、上に立つ者をただ批判したり、反抗する生き方をするのではなく、上に立つ者のために祈ることを求められています。自分が結んだ約束に常に忠実に歩むことを神は喜ばれるのです。

悔い改めて生きる。このことをエゼキエルは国として、また個人の問題として取り上げています。国としては、バビロンとの契約に基づき、バビロンの支配下で生きること、これが神の御心であったわけです。しかしながら当時の王は自分の力により頼み、民の幸福のために政策を選ぶという原則を見失い、エジプトに支援を求め、そしてその結果、バビロンによって滅ぼされると言う悲しい選択を選んでしまったのです。

しかしエゼキエルは17章22節から24節で、たとえ国は一度滅ぼされるとしても、イスラエルの回復のメッセージを語りかけます。神自ら、柔らかい若枝を取り、イスラエルの高い山に植えてくださると約束されるのです。その祝福を23節では、「それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。」と預言されています。新たにされたイスラエルの繁栄や祝福が、実に麗しく預言されています。そしてそのメッセージは、「主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。」と24節で表現さています。神に不可能なことはないのです。

私たちは今、平和な日本の国に生きています。日本は悲しい戦争を経験しましたが、今世界のリーダーの一員として世界の平和や繁栄をもたらすことのできる立場に置かれています。平和憲法という高い理念を持つ憲法を持っています。上に立つ者がそのような日本の高い理念に絶えず目を注ぎ、その理念を実行できるよう信仰者は祈るのです。新約聖書のローマ書13章1節と2節で、パウロは、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」と書かれています。クリスチャンはこの御言葉を真摯に受け止めて、上に立つリーダーのために、彼らが正しい政治を行うことができるように、そして日本国の憲法の理念に従って生きることが出来るようにと祈っていきたいと思います。

悔い改めて生きる。このメッセージは個人に向かっても語られています。自分たちは悪くない、自分たちの先祖が罪を犯して、自分たちはその罰を受けている。当然そのような思いを捕囚とされた民は持っていたようです。18章の中で、エゼキエルはそのような民に向かって、親と子は違った人格である。そしてだれでも神に立ち返る必要がある。一人一人が悔い改めて生きるのだとのメッセージを力強く語りかけています。

18章2節には、「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返して言っているが、いったいどうしたことか。」と問いかけています。酸いぶどうとは熟しきっていないぶどうのことであり、子でもの歯が浮くとは、父の行為が子に結果を及ぼすと言う、連帯責任を教えている諺です。彼らは自分たちがこのような苦しみに遭っているのは、自分たちの父のせいだと言っているのです。このような民に向かって、エゼキエルは、たとえ悪者でも立ち返って生きるなら生きるとのメッセージを何度も語りかけています。14-17節で、「しかし、彼が子を生み、その子が父の行ったすべての罪を見て反省し、そのようなことを行わず、丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、だれをもしいたげず、・・・、わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる。」とあります。エゼキエルはもう一度、各自がモーセの十戒に従って、唯一の神を愛し、隣人を愛していく人生を選ぶことを勧めています。そのような者は必ず生きるとの神の約束を語っています。命は神からのものです。すべての命を与えてくださった神の前に、自分の人生を感謝し、罪から離れ、神の教えに従って生きようとするのならば、その者は必ず生きるのです。

25節には、「あなたがたは、『主の態度は公平ではない。』と言っている。さぁ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないか。」とあります。神の願いは、自分が苦しむのは神のせいだと言って責任転換する生き方ではありません。むしろ悔い改め、すべてのそむきの罪を捨て、不義に引き込まれることがないようにする(30節)。そのような悔い改めの人生を生きることです。そのような者に神は、新しい心と新しい霊を与えくださるのです。31節で、「あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。・・」とあります。

神の願いは、一人一人が神の前に罪を認め、悔い改めて生きることです。イエスの働きもそのためのものであったと言えると思います。イエスは私たちのために十字架につき、罪の赦しを与えてくださったのです。第二ペテロ3章9節の後半には、「主は、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあります。キリストは私たちのために尊い命を捧げてくださったのです。その犠牲のゆえに私たちの罪が赦されるのです。そのことを信じる信仰を私たちは持っています。国家としても間違いを犯したならば、その間違いを正して、もう一度立ち上がることができます。日本の国はそのようにして今平和な国家を築いているのです。また私たちクリスチャンも、キリストを信じて罪から解放されて生きています。もう一度聖霊の働きに心を開きながら、私に新しい心と新しい霊をお与えてください。そのように願いながら、日々新たにされて生きる者でありたいと願っています。悔い改めて生きる者に、神は、惜しみなく新しい心と新しい霊を与えてくださるお方だからです。

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