「もう黙っていてはならない。」エゼキエル書24章27節

Pastor Ino

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本日は、エゼキエル書24章を取り上げます。24章は、エルサレムがバビロンによって包囲される、その悲しい出来事を伝える箇所になります。1節には、「第九年の第十の月の十日に、私に次のような主のことばがあった。」とあります。エゼキエルがバビロンに連れて来られてからちょうど第9年目に、エルサレムがバビロンによって包囲されると言う厳しい現実が起こります。それから、約3年間、エルサレムに住む民は自由を奪われ、苦しみ、滅びへと進んで行くのです。この滅亡に向けた3年間、それは本当に長い年月です。それも愛する都が滅ぼされる、その絶望の時期をしっかりとエゼキエルは民と共に耐え忍んで行くのです。エゼキエルは、自分の苦しみを通して、バビロンに住むユダヤの民に滅亡の時が来ることを伝えて行くのです。

しかし、苦しみは永遠に続くものではありません。3年間と言いましたが、それは歴史を知っている私たちの理解です。エゼキエルにとってはそれ以上に長く感じられた年月であったと思います。しかし27節には、「もう黙っていてはならない。あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」と書かれています。黙っていてはならない。その理由は、エルサレムの滅亡のニュースを耳にする時に、それ以降は回復のメッセージを語ることになるからです。事実、回復のメッセージはエゼキエル書33章からスタートします。それまで、苦しみを胸に留めながら、神の裁きの時、その現実をその身に受けて、ひたすら待つのです。

待つ間、彼は、エルサレムの周辺の国にも神の裁きの時が来る、そのメッセージを25章から32章にかけて語ります。その内容は次回触れてみます。今世界は大きな困難の中にあります。いくつかの国々で、独裁的な指導者が多くの民を苦しめています。しかし、そのような世界の中に生きる私たちは、エゼキエルと心を1つにして、希望の日が来る、その約束を心に刻んで、困難な時期を静かに待つことができます。それでは24章の内容を見てみましょう。

3節には、「あなたは、反逆の家に1つのたとえを語って言え。神である主はこう仰せられる。なべを火にかけ、これを据え、水をこれに注ぎ入れよ。これに肉の切れ、ももと肩の良い肉の切れをみないっしょに入れ、えり抜きの骨でこれを満たせ。」とあります。なべと言う表現はエルサレムの城壁を指す表現です。このたとえを皆さん覚えておられるのではと思います。11章の3節には、「家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ。と言っている。」と書かれています。エルサレムに残っている民は、私たちの城壁は鍋のように強く、壊される事は無い。その中にとどまっている私たちこそ最も良い肉、つまり最も良い民だとの思いを持っていたのです。そして家を建てるにはまだ間があるとは、神の審判はエルサレムには及ばない。だからゆっくりと家を建てて、生活を楽しもうとの思いが隠されています。24章では、この鍋は火にかけられ、その中に水が入れられ、良い肉の切れ、えり抜きの骨が入れられ、また5節には、えり抜きの羊を取れとありますから、エルサレムの指導的立場にある者たちがその中に集められ、鍋が沸騰される、そんな厳しい状況が起こることが描かれています。神の厳しい裁きの時が訪れるのです。

そして6節には、「流血の町、さびついているなべ。そのさびは落とせない。」とあります。さびとは彼らの犯してきた罪悪のことであり、そのさびは落とせないとあるのです。7節には、「彼女の血はまだ、そこにある。」と書かれています。エルサレムの神の神殿で、幼児を犠牲とするような最も神が嫌う礼拝がなされたことが言及され、子供たちの流した血はそこにあると書かれています。そのような間違いを犯したエルサレムの指導者たちやその民の罪が裁かれるのです。何度も預言者が送られ、民も指導者も悔い改めて神を信じて歩むようにと語られていたのにもかかわらず、12節には、「その骨折りはむだだった。そのひどいさびはそれから落ちず、そのさびは、なお、火の中にあった。」とあります。どんなに預言者が語っても聞く耳を持たないエルサレムの民、彼らの罪悪はどのようにしても取り除かれなかったと表現されています。13節には、「あなたのみだらな汚れを見て、わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。それでわたしがあなたに対するわたしの憤りを静めるまで、あなたは決してきよめられない。」と書かれています。厳しい裁きがエルサレムに臨もうとしています。

14節には、「主であるわたしは言った。それは必ず起こる。わたしはそれを行って、なおざりにせず、惜しまず、思い直しもしない。あなたの行いや、わざにしたがって、あなたをさばく。」と書かれています。神は正しいお方です。ここには、あなたの行いやわざに従ってあなたを裁くとあります。裁きの理由が明らかにされています。私たちも世界のリーダーたちために祈り、彼らが自分の欲のために政治をするのではなく、民の幸福のために、また平和のために政治がなされることを共に祈ろうではありませんか。エゼキエルは、神の裁きが必ず世界の為政者一人一人に望むことを伝えているのです。

16節から18節には、個人的な悲しい出来事が起こります。16節には、「人の子よ。見よ。わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。声を立てずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。・・」とあります。悲しい出来事がエゼキエルに臨みます。しかし神は、嘆くな、泣くな、涙を流すな、・・と語りかけるのです。それはエゼキエルがしっかりと悲しみをその身に背負っていく、今はその時期であるからです。エルサレムが滅ぼされると言う事は、民が愛した神の都が滅ぼされることであり、人々は耐えることができないほどの大きな悲しみを体験するのです。個人的な体験として、18節に、「その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。」とあるのです。本当に驚きます。神が選んだ預言者エゼキエル、彼は神の都エルサレムが滅ぼされる、その悲しみを自分の妻の死を通して知ることとなります。19節から24節には、本来苦しみ涙を流す時である、自分の肉親の死を悲しむべき時にその姿勢を見せない、エゼキエルの姿に驚いた民が尋ね求めて来ることが表現されています。あなたのしている事は私たちにとってどんな意味があるのか説明してくれませんかと民は尋ねます。エゼキエルは答えます。21節で、「神である主がこう仰せられるとイスラエルの家に言え。見よ。わたしは、あなたがたの力の誇りであり、あなたがたが愛し、心に慕っているわたしの聖所を、汚す。あなたがたが見捨てた息子や娘たちは剣で倒される。」とあります。エルサレムが滅ぼされる、その悲しみを民は味わうのです。それが、あまりにも大きな悲しみで、公に悲しむことさえできない。そのような時が来るとエゼキエルは民に語りかけます。その悲しみを心に留めて生きなさいと、ここでエゼキエルは民に語ることになります。22節で、「あなたがたはわたしがするようにすることになる。あなた方は自分の口ひげをおおわず、人々からのパンを食べなくなる。」とあります。人々が本来なら亡くなった家族にいろいろな物を持ち寄って、慰めようとするのですが、この民は人々からの支援のパンを食べなくなると表現されています。

私はこの箇所を読みながらエゼキエルと一緒に涙を流します。もし、自分の愛する肉親、妻や子供たちが死んでしまったら、私はどんな悲しみを味わうのだろうか。そんなことを考えると愛する妻を失ったエゼキエルに心から同情するのです。涙を流したり、自分の悲しみを表すことのできない葛藤、そんなことをはたして私はできるのだろうかと思わされるのです。しかし24節には、「エゼキエルはあなたがたのためのしるしとなり、彼がしたとおりを、あなたがたもするようになる。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。」と書かれています。

神こそが正しいお方、全てをご存知のお方、正しい裁きをなされるお方、そう私は信じています。この24章は、神の裁きが必ず来ることを伝えている箇所です。それは、たとえ神の民であっても、その民がモーセの教えから離れ、偶像に心を奪われ、堕落をしてしまった時に、神の裁きは逃れることができない。それが今日の教えです。エゼキエルは自分の妻の死を通して、約3年間、心にその苦しみは抱えながら、神の回復の時を待つことになるのです。

苦しみの時は永遠には続きません。エルサレムが滅んだそのニュースが来た時に、エゼキエルにもう黙っていてはならない、神の新たなご計画を語りなさい。そう24章27節には書かれているのです。さあ皆さん。世界の現実を見ながらしっかりと為政者のために祈って行こうではありませんか。そして間違ったリーダーには必ず神の裁きが臨む、その信仰を持って上に立つ者たちが義なる神を恐れ、自分の間違いを正して行くことができるように祈って行こうではありませんか。

最後に、新約の視点からエゼキエルの苦しみを考えてほしいと私は思います。自分が愛する者たち、家族や友人を失う事は本当に辛いことです。しかしイエスの復活によって、天国の約束を私たちは持っています。私たちも復活の命が与えられて行く、その信仰を持って、試練を耐えて行こうではありませんか。
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