↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
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さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。
そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。 「何のために、こんな無駄なことをするのか。
この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。
貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えする備えをしてくれたのです。
まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
① きょうの聖書個所の、その少し前、26章2節の所を見ますと・・、
主イエス・キリストは、弟子たちにこのように語っておられます。
「二日後の過ぎ越しの祭りの始まる日、わたしは十字架につけられるために当局に引き渡されます。」
十字架における身代わりの予告です。
・では、この十字架の予告を聞いた弟子たちの、その受け止め方はどのようなものだったのでしょうか・・
・そうです。彼らはその予告を聞いても、何か、わかったような、わからないような、何かぼんやりとした
そんな受け止め方しかできなかったのでした。
・無理もありません。神さまの余りに深い、余りに大きな、その愛の御業をまっすぐに受け止めるという事はなかなかできないことだからです。
・しかし、この主イエス・キリストの十字架の刑が目前に迫っているということを文字通り実感していた
人物が一人いたということを、きょうの聖書個所は伝えています。
それは一人の女性でした。 彼女はなぜ、そのことを実感していたのでしょうか・・
この個所の前後を含めて、その文脈を注意深く読んでゆきますと・・
・おそらく彼女は、この予告のときだけでなく、主イエスの口から語られる御言葉の一つ一つを、日頃から
しっかりと聞き留めていた・・ また、彼女は、主イエスの振る舞いの中に、その「とき」というものを
感じ取っていたのではないか・・彼女には、「とき」を感じ取る豊かな感性があったではないか・・
そう感じさせられます。
・何でもない、平凡な、日常で、主イエス・キリストの御言葉に聞く耳をもって受けとめていくことの
大切さと・・豊かな感性をもって主イエスとの交わりをもっている・・この二つのことがいかに大切な
ことであるのか・・私は、この女性から教えられるのです。
➁それはそれとしまして・・
では早速、きょうの聖書箇所に記されている、その出来事を振り返ってみたいと思います。
・主イエスと弟子たちが、シモンという人の家にいたときです。
突然一人の女性が入って来たかと思うと、何と、彼女は、イエスの頭に香油を注ぎ出したのでした。
・それを見ていた、弟子たちは、驚くと同時に、一斉に彼女を非難しはじめました。
「何の為に、こんな無駄なことをするのか!」
「このような高価な香油なら、たくさんの貧しい人たちに施しが出来るのに!」
・もし皆さんが、同じこの場にいたとしたら・・どんなことを思われたでしょうか・・
・考えてみると、確かに、弟子たちの言っている事に間違いはありません。 彼らの主張は実に正論でした。
しかし、人が正しいことを主張している、そして、その正しさが多くの人に受けている・・
こういうときの正論は・・私たちは注意しなければならないと思うのです。
このような場面での強い意見、これは、実に危うい意見でもあるからです・・
・このような弟子たちの言い分に対して、主イエスは、彼女は、なぜこのような行為を始めたのか・・
その理由について、12節で、このように解説しておられます。
・「この人はわたしを埋葬する、その備えをしてくれたのです。」
・当時のユダヤの人たちは・・愛する者が亡くなりますと・・そのなきがらに香油を掛けてあげるのでした・・・それは、愛する者にしてあげることのできる、最後のことでした。
・この時、イエス・キリストの十字架による処刑のそのときが迫っていました。
つまり・・主イエス・キリストご自身の死の時が目前に迫っていたのです。
・当時のユダヤの社会は、ひどい男尊女卑の社会でしたから、この女性はこのように思いつめたのでしょう。
「このあと、イエスさまは十字架にかかられるに違いない。そうなったときには、もう、わたしのような
女は、きっとその遺体に近づくことさえ許されないでしょう・・。ならば、今こそしてあげなければ!」
そこで、彼女は、全財産をはたき、高価な香油を買い、そして、イエスさまの頭におしげもなく
その香油を注いでゆくのでした。
・愛する者を亡くした、そういう経験のある方は、この彼女の思いがよくお分かりだと思います。
愛するものを失った人は、誰も、こう思います。「ああ、生前にもっと、ああしてあげればよかった・・
あのことも、このこともしてあげたらよかった・・」
・しかし彼女は、私たちの一歩先をいっていました。 彼女は、正に、そういう事態になる前に、大胆にも
先手を打ったのでした。 そうです。この女性は大変聡明な人であったのです。
・しかし、男どもは全然分かっていませんでした。 そして、只、誰でも言い出しそうな、立派な正論を
述べるだけだったのです。
③「何ともったいないことをするのか・・この香油を買う金があったなら、たくさんの貧しい人に
施しができたのに・・」 鋭い方は。もうお気づきでしょう・・これは必要以上に立派なご意見でした。
・なぜこのような言葉が、彼らの口から出てきたのか・・・
それには、いくつかの理由があったと思います。
・まず彼らは、「自分たちの中にある、思い、考え、それはいつも正しい」そう思っていたからでした。
人は、自分の思いが正しい、そう思うと・・、そして、その正しい意見と、同じ意見の人が大勢いる、
そう思うと・・声が大きくなるものです。
・これは、罪に支配されている人間の愚かしい姿の一つではないでしょうか・・。
・確かに、純粋な香油は、当時大変高価で・・マルコの福音書によれば、それは300デナリ以上と
書かれてありますから・・今の日本円にしますと、300万円から600万円くらいの額であったわけです。 ですから、彼らの言い分は、一見もっともらしい言い分なのです。
・彼らがこの女性を非難した、その第二番目の理由・・それは、彼女が女であったからでした。
これが、祭司か、あるいは、町の有力者であったら、非難の声はまったく出なかったのでしょう。
・そうです。人は・・弱い立場の者に対しては、声が大きくなりやすいのです。
これもまた、罪に汚れている、人の愚かさの寂しい現実です。
・確かに当時の女性たちは何の高等教育も受けることができませんでした。ですから、男どもより、
知識という点では劣っていたかもしれません。 しかし・・どちらが本当の意味で賢い者なのか・・、
これは歴然としていたのです。
・男どもが、この女性を非難していった、第三番目の理由・・それは、実は、彼らは大事なことが何も
見えていなかった・・この時の弟子たちは、心の目がまったくの盲目であったからでありました。
・旧約聖書の知恵の書と言われているところでは・・この心の目が失われている者たちのことを、
「知恵のない者」と呼んでいます。 また詩篇にもよく「愚か者」という言い方が出てきます。
これは同じことを指しています。
・私たちも注意したいところです。
④一方、香油を持ってここにやってきた、この女性は、正しさを論じる人ではなく・・正しさよりも、愛することを大切にしている人であったのです。
・また、彼女は、主イエスの地上での生涯の終わりが近づいていることがよくわかっていたのでした。
・彼女は、イエス・キリストのメッセージをしっかりと聞き、そして、理解していたのでした。
一方、弟子たちの男どもは・・何回もこのことを聞いていたはずなのですが・・結局は、よくわから
なかったようです。
・また、この女性は、実に純真な心の持ち主でした。
・愛する方のために、自分は何をすることができるのだろうか・・彼女はこの一点に心が集中していました。 ですから、目の前の損得勘定などは、どこかに飛んで行ってしまい・・自分の持っているものの、
すべてをおしげもなく使うことが出来たのでした。
・この純真さ、ひたむきさは、すばらしいといいましょうか・・驚きです。そして、頭が下がります。
大事な時に、一つ心になれる。これは、神さまにとって、最も喜ばしい、人の姿だと思います。
⑤ここまでは・・。この女性と、ほかの弟子たちとのやり取り・・そして、それをご覧になっていた、
主イエスの御言葉についてみてきたのですけれども・・
・私が、ここで最も注目するのは・・このイエスさまの御言葉の最後の所です。
○:13節です。「まことにあなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、
この人がしたことも、この人の記念として、語られます。」ここです。
・ここには、一つ気になる言葉が使われています。それは・・「記念」と言う言葉です。
・皆さんのお国では、この「記念」という言葉をどういうときに使われるのでしょうか・・
・日本語の辞書を調べてみますと・・記念とは・・「後日の思い出として残しておくこと」と書かれてあり
ました。
・つまり・・少なくとも、日本では「何か楽しい思い出・・うれしい思い出・・そのことを後日思い出す
ために残しておくこと」・・一般には、それが「記念」ということばの意味なわけです。
ですから・・結婚記念・・とは言いますが・・・お葬式記念とは・・言いわないのです。
・それぞれのお国には、文化の違いがありますから・・単純には言えませんが・・
しかし・・やはり、皆さんのお国でも、人が亡くなったときには、「記念」という言葉を
使うことに、少なくとも一般社会では、・・ある、ためらいがあるのではないでしょうか・・・。
・・
・ではなぜ、ここで、主イエスは、何のためらいもなく、 いや、むしろ、はっきりと・・
「わたしが十字架で死んでいったことを伝える所なら、この女性のことも語られて、この人の、
記念となるでしょう!!」という言い方をされたのでしょうか?
・この「伝える所なら」の、「伝える所」という、その代表的なところ・・それは、言うまでもなく、現代では教会です。この教会こそ、この主イエス・キリストの身代わりにより、それを信じ受け止める者に、まことのいのちが与えられるという、よき知らせを宣べ伝えています。
・勿論、いろいろなところで福音が宣べ伝えられていますが・・しかしその代表的なところは・・やはり
教会です。
・ですから・・教会では、何のためらいもなく、教会の家族が亡くなって、主のもとに行かれた、その日を
召天記念日と言い、しばしば、教会では召天記念礼拝という言葉が喜びをもって使われているわけです。
・最後に、主イエス・キリストの13節の御言葉を愛する皆さんの心に、刻んでいただきたいので・・
ここを現代の言葉に変えてメッセージを終わりたいと思います。
⑥「皆さん、心して聞いてください。
これから、わたしが十字架に掛かり、その命をささげることによって、あなた方の罪が赦されてゆく・・
そして、あなた方がまことのいのちを賜ることにいなってゆく・・その記念の日が近づいています。
また、そのことを察知した、この女性のしたことは、この後、ずっとずっと、あなた方の交わりの場に
おいて、記念として語り継がれることでしょう。」
・アーメン
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