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マタイの福音書22章34節~40節
パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。
そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』
という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
➀先月の礼拝では、サドカイ人たちが、変な作り話を用意して、主イエスの所にやって来た、その出来事を記した聖書個所を、皆さんとご一緒に読んでゆきました。
・当時、このサドカイ派に、対抗意識をもっていたパリサイ派といわれていた人たちは、このことを聞きつけまして・・自分たちもイエスに挑戦しよう、と思ったのでした。
・「サドカイ派の連中は、あのナザレのイエスに、まったく歯が立たなかった。ここで、自分たちがイエスに論破できたら、周りの者たちは、やっぱり、パリサイ派の方がサドカイ派の者たちより上だと思うに違いない・・」彼らは、そんなことを考えていたかも知れません。
・この時パリサイ派の者たちが用意した質問は・・如何にも世俗的な匂を漂わせていたサドカイ派とは対照的に、如何にも、信仰に満ちているかのような質問を用意してきたのでした。
・彼らは、言葉は丁寧でしたが・・実の所、少々上から目線で・・このように主イエスに問いかけたのでした。 →「先生、律法の中で、どの戒めが一番重要ですか」
・彼らの、この質問は、確かにその動機は不純でしたが・・質問の内容は、正に、的を得ていました。
「聖書は何を言っているのか、20文字以内で答えなさい」と聞いているような、そんな、信仰のど真ん中に触れる質問だったのです。
・そこにいた人たちは、主イエスが何と答えるのか・・誰もが注目したと思います。
➁これに対して、主はどのように答えてゆかれたのか、見てゆきたいのですが・・しかし、その前に、ここで使われている言葉、「愛」という言葉のその意味について、少し説明しなければならないと思います。
・聖書を開きますと・・「愛」という言葉が頻繁に出てまいります。
・皆さんは・・、この「愛」という言葉を読みます時、あるいは、その動詞の「愛する」という言葉を 読みます時、それを、どのような意味としてとらえておられるでしょうか・・
・これは・・人によって、随分と違っているのかもしれません・・。
・先ず、世間で使われている、愛という言葉について考えてみますと・・
日本で最も信頼されている「広辞苑」という辞書にはこのように書かれてあります。
→ 愛するとは、①心がひきつけられ、慕(した)うこと。 いつくしみ、かわいがること。
➁特に異性間で、相手を慕う、恋すること。
・このことからも分かりますように、一般に、愛という言葉の意味は、情的なこと・・ようするに。
人の気持ちを表しているわけです。
・では、聖書が、神の愛について語っていますとき、その場合の愛とはどういう意味なのでしょうか・・
・聖書を読んでまいりますと・・誰もが気が付きます。
どうやら聖書の愛と・・一般社会で使われている、愛と言う言葉の意味は、同じではない・・
・そうです。聖書が、神の愛について語っております所から強く感じますことは、先ず、神さまの愛はけして情的なことではなくて、神さまの、ある強い意思を表しているということです。
③今からざっと500年程前、1549年。イエズス会のザビエルという宣教師が日本にやってきて、日本人に、この、「神の愛」を伝えようとしたことはよく知られています。
・では、当時の宣教師たちは、その「神の愛」を、日本語で、どのように表現したのかといいますと・・当時、愛という言葉は一般に使われていなかったこともあり・・、また、今申しましたように、聖書で語られている愛は、そもそも、情的なことを主にさしているわけではありません。
・そこで、当時の宣教師たちは、この「神の愛」を・・、「デウスの愛」とは訳しませんでした。
愛という言葉を使ったのではなく、「デウスのご大切」と訳したのでした。 「デウスのご大切」です。
・つまり、現代聖書で「愛する」と訳されている言葉を・・「大切にする」という言葉に置き換えた訳です。 私は、この言葉選びは、本当に、的(まと)を得ていたと思います。
・「神さまは、その強いご意志で、私たち一人一人を大切にされている。そのために、その御一人子は、十字架に掛かり、私たちの身代わりとなられた。この「ご大切」により、私たちは、まことのいのちを賜ることになったのです。」当時の宣教師たちは、人々に、このように語っていったわけです。
・聖書に出てくる愛とは、正に神さまが、強い強いご意志をもって、私たち一人ひとりを、大切にされている・・、そういう意味である、ということ、このことを意識しながら、聖書を読み進めてゆかなければならない、と私はそう思うのです。
・々前置きが長くなりましたが・・このことを念頭に置きながら、主イエス・キリストのこのときの答えについて、きょうはゆっくり考えてゆきたいと思います。
・主イエスは、先ずこう語られました。 「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』。これが重要な第一の戒めです。
・主イエスが、聖書の戒めで一番重要なこととしてあげたのは、あなたの神である主を愛することでした。 そして、その愛し方は、「心を尽くし、いのちを尽くし、知力を尽くして、神を愛する。」という内容でした。
④次に、主イエスが、二つ目に挙げたのは、「あなたの、隣人を愛すること」ということでした。
・ここで注目すべきことがあります。
それは、イエスさまが・・「あなた自身のように」という言葉を、ここに付け加えていることです。
旧約聖書のレビ記の箇所を知っておられる方は、「いや、加えてなどいない。レビ記の御言葉をそのまま引用しておられるだけです。」そうおっしゃるかもしれません。 確かにその通りです。
・しかし、ある方は、このように考えるかも7しれません・・。
「主イエス・キリストは・・、自分を愛することは後ろに回し、隣人を愛することを優先すべき、その生涯を通して、そのことを教えてきたのではないだろうか・・」
・「ならばここは、旧約聖書の言葉を、そのままには語らないで、むしろ「自分を愛さないで、隣人を愛しなさい!」と言い換えた方が、この方がイエスさまらしいのではないだろうか・・」
・ところがです。 主イエス・キリストは、ここで、はっきりと、「あなた自身のように・・」とレビ記の御言葉をそのままに語られたのでした。
・自分のことは抜きにして、自分のことは後回しにして、愛ということを考える・・このほうが、ちょっとかっこいい感じがいたしします。
・しかし、よくよく考えてみますと・・自分自身を愛することを抜きにして、隣人を愛することを考えるというのは、無理があるのではないでしょうか・・
・自分を大切にする、そういうことを抜きにする、というのは一見立派な考え方のように思えるのですが・・自分自身を否定し、自分自身を受け入れることができない者が、隣人を受け入れ、隣人を大切にしてゆくことを考えて行こうとするのは、おかしなことです。
・つまり、主イエス・キリストはここで、「自分自身を愛する」これは人間としての基本であること。
その基本に立って、その自分を愛するのと同じ様に、隣人を愛しなさい。そう語られたのでした・・。
ですから、少々しつこいようですが・・この「自分を愛するように」という部分は、私たちが、けして見落としてはならないことなのです。
⑤次に注目すべきことは・・39節の後半にある、「それと同じように」という言葉です。
・主イエス・キリストは・・「それとおなじように・・」と語られて・・第一の戒めと第二の戒めを結び付けておられるのです。
・つまり、私たちの主、イエス・キリストは、神を、命がけで愛することと、自分自身を愛するように隣人を愛することは、同じ大切さの中にある・・それは一つのことである。
そう語っておられるわけです。
・ところで・・、私たちは、「神を愛するというのはどういうことなのだろうか・・」そう考える時・・何か、漠然としていて、具体的には、何も浮かんでこない、そういう弱さがあります。
・しかし主イエス・キリストは、神を愛するとは、具体的には・・それは・・自分自身を愛するように、隣人を愛することなのです。 このようにおっしゃっておられるのです。
⑥もう一つ、注目しなければならないのは、やはり、40節のところだと思います。
「この二つの戒めに、律法と預言者の全体がかかっているのです。」ここです。
・律法と預言者とは、つまり、当時の意味から考えますと・・聖書全体ということです。
・私たちの主、イエス・キリストは、ここで、神を愛し、自分を愛するように、隣人を愛すること、これは、聖書のメッセージ全体にかかっている。このようにおっしゃっておられるわけです。
・聖書全体に掛かっている・・これは、別のいい方をしますと・・私たちの信仰全体に関わっている、私たちの信仰が、このことに掛かっている。と言う意味です。
・もし、このことを抜きにしたとしたら・・聖書のメッセージは全く無意味な言葉となってしまう。いや、それだけではありません。このことを抜きにしたとしたら、私たち一人一人の、その信仰も無いに等しくなってしまう。そういうことを意味しています。
・そうです。主イエス・キリストは、私たちに、この一点を見つめつつ歩む人になりなさい。そう語っておられるわけです。
⑦信仰生活が50年を超えたころから・・私は、聖書の読み方が少し変化してきた、そう感じています。
・それまでの読み方は、どの注解書にも書いてある、その通説を確認するだけ・・そういう読み方がほとんどでした。 しかし、最近は、今まで生きてきた、その経験から、もう一歩深く読めるようになってきたように感じています。
・例えば、きょうの個所でも・・今までは、「イエスさまは一番大事なことを、見事にまとめて、私たちに提示してくださった。」・・そういうことを確認し、そして励まされてきました。
・しかし、最近は、「この個所で、イエスさまは、私たちに、人生の目標・・あるいはもつべき夢・・そのことを語っておられるのではないだろうか・・」そう思うようになったのです。
・そういえば・・、今からちょうど60年前、あのキング牧師は、その演説で・・「私には夢がある。」と言いました。 その夢とは何か・・それは、皆さんの方がお詳しいと思います。
・その演説の、有名な部分を、ちょっと振り返ってみたいと思います。
「私には夢があります。それは、いつの日か、ジョージヤ州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちと、かつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として、同じテーブルにつくという夢です。」
・このキング牧師の夢も、きょうの御言葉、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」というその人の持つべき目標、夢を・・彼なりに具体的に語っているのだと思います。
・この、超大物牧師の演説はここまでにしまして・・
ここで、この小さな、この私の夢について、ちょっとだけお話したいと思います。
・先日、誕生日がありまして、妻や娘や孫たちからお祝いをしてもらいました、その時、
私は心の中で、きょうの御言葉を発展させた、こんな決心をしたのでした。
<日本の三流牧師による誕生日記念の夢です。>
・どういう決心であったのかと言いますと・・。最初だけ、キング牧師の演説に似ています。
「私には夢があります。 いつの日かきっと、世界一やさしい夫、世界一やさしいおじいちゃんになりたいという夢です。神さま、どうぞお導きくださいますように・・」
・残念ながら、キング牧師の夢からすると・・少々迫力に欠ける、誠に小さな、小さな夢です。しかし自分らしい夢だとも思います。
それにしてもこの夢の実現までには、後どれだけの年数がかかるでしょうか・・
50年くらいかかるかもしれません。
・しかし、そんな迫力に欠ける私ですが・・、
これからも、「神さま。どうぞ、自分自身と同じように隣人を愛する、この生き方をしてゆくことができますように、助け導いてください」と祈りつつ、歩んでゆきたい、そう思っているところです。
愛する、IBFの皆さん。
これからも、主イエス・キリストの御心に沿った、同時に、皆さん独自のその夢をもって、一歩一歩前進して行こうではありませんか・・。
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