ルカの福音書23章32節~37 「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

Pastor Kitazawa

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ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。
また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らは、イエスの衣を分けるために、くじを引いた。
民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って行った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。

1 きょうの聖書箇所は、(言うまでもありませんが・・)ここには、主イエス・キリストが、十字架にかけられた、正に、その時の出来事が記されているところです。
・ご存じの方も多いと思いますが・・この十字架の刑は、当時のローマ人が考え出したものでした。しかし、この処刑方法は、余りに受刑者の肉体的苦痛が大きかったので、ローマ当局は、当初、「これは人間には使ってならない」と決めたのでした。
・当時のローマ人にとって人間とは、ローマ人のことを指していました。つまり、この十字架の刑は、あまりに残酷なので、人間であるローマ人には適用してはならない、そう決めたというのです。 それほど、この刑は残酷極まりない処刑方法であったのです。
・しかし、この出来事を伝えている、聖書の4つの福音は、どれを見ても、なぜか、この時の主イエス・キリストの、その肉体的な苦痛について、ほとんど触れていません。
なぜなのでしょうか・・。
・ここは結論を急ぎますが・・
そうです。もし、ここで、ここにおけるイエス・キリストの肉体的苦痛について語っていった場合・・それによって、今度は、主イエス・キリストの、本当の苦しみと悲しみが隠れてしまう。
分かりにくくなってしまう。福音記者たちはそう考えたに違いありません。
・ですから、マタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも、この場面を、主イエス・キリストの、その本当の苦しみ、本当の悲しみ・・そして、十字架上での哀れみ深い愛と、語られている福音に焦点を当て、冷静且つ的確に私たちに語り告げているのです。
・そういうわけで、きょう私たちも、この十字架の記事から、聖書が一番語り伝えたかったことに迫って・・そして、そのことを、各々がしっかり受け止めて、これから生きてゆくその土台にしてゆきたい・・そう思うのです。

➁さて・・マルコの福音書によれば・・イエス・キリストが、十字架につけられたのが、
朝の9時でありました。 そして、息を引き取られたのがその6時間後の午後3時でした。
・また、4つの福音書を全部読んでゆきますと・・この間、主イエス・キリストは、十字架上で
7つの言葉を語られたことが記されています。
・きょう、私たちが開いております、ルカの福音書には、その七つ言葉の、一番最初と、二番目、
それから最後の七番目の御言葉、この3つが記されています。

・しかし、これらの十字架上での御言葉すべてを取り上げるというのは、一回の礼拝ではとても
無理です。それぞれの御言葉には余りに深い内容があるからです。
・そういうわけできょうは、その一番最初の御言葉に焦点を合わせ、そこから神さまが、私たち
一人一人にきょう問いかけている、そのメッセージに耳傾けてゆきたいと思います。
・その最初の御言葉というのは、ルカ34節の所に記されています。
・きょうは、その一節前の33節から読んでみたいと思います・・
「どくろと呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。
また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
・そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をして
いるのかが分かっていないのです。」
・ここで主は、父なる神への「とりなしの祈り」をされたのでした。
・私は、このイエス・キリストの祈りを読み返すたびに、この祈りこそ、この方が、神の御一人、
我らの救い主イエスキリストであるということがここに証されている。そう思うのです。

③主イエス・キリストは・・ここで、「彼らは・・何をしているのか、自分でわからないのです。」
と祈られました。
・では・・この、「彼ら」とは、いったい誰のことを指しているのでしょうか・・
・勿論、それは先ず、この時、ご自分を十字架の刑にしている、ピラト、そしてピラトの決定を陰で引き出した当時の宗教指導者たち、また、その決定を執行している兵士たちのことを指しているということは言うまでもありません。
・また、ルカは、ピラトや当時の宗教指導者以外にも、そこにいた人々の様子を次々と、手短に記して、この人たちも、正に「自分で、何をしているのか、わからない人たち」であった、ということを伝えています。
・26節を読みますと・・一人のクレネ人が出てきます。シモンというこの人は、田舎から出てきて、右も左も分からない、いわゆる、お上りさんでした。
・おそらく、彼は都会に出てきて、もたもたしていたのでしょう、この時、彼は、訳も分からず、いきなり、兵士に十字架を背負わされてしまったのでした。そして、なんと、それを刑場まで、運ぶことになってしまったのでした。 いろいろな事情が分かりませんでした。しかし、彼もまた主イエスを十字架につけた一人でした。
・また、27節を見ると、「嘆き悲しむ女たちの群れ」という表現があります。
これは、おそらく、当時の宗教指導者たちに雇われた、「泣き女たち」であったと思われます。
・彼女たちは、よく考えもせず、いわば、この場で、「泣くアルバイト」をしていたわけですが・・悲しいかな、彼女たちは、この時主イエスに、「自分と自分の子どもたちの為に泣きなさい」と言われてしまうのでした。

・そうです。彼女たちもまた、正に・・何をしているのか、自分でわからないで、この十字架の刑に加わっていた人たちでした。
・また、34節には、主イエスの着ていたものをくじ引きで分けている兵士たちの姿が描かれています。
・さらに、ここに集まって来た民衆や議員たちがあざ笑いながらこう言っていたことをルカは伝えています。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
・そうです。この人たちもまた、十字架の刑に加わった人たちであったのです。
・このように、十字架の記事全体をあらためてみてゆきますと・・今、申しましたように、出てくる人出てくる人、ことごとく、自分で何をしているのか分かっていないまま、十字架の刑に加わっている・・そういう人たちでした。
・しかしです。 十字架に加わっていたのは、はたして、当時、そこにいた彼らだけだったのでしょうか・・
・鋭い方はもうお気づきになられている、と思います。
そうです。聖書はこれらの人々の姿を描いて・・、実は、私たち一人一人に問いかけているのです。「あなたもまた、主イエスキリストを十字架につけていった一人ではないだろうか・・」

④確かに、この出来事は2000年以上も前の出来事です。 十字架の処刑の場に、私たちはいなかった。のです。 「私たちは、この現代で、それなりに一生懸命生きているだけです。私たちが、主イエスを十字架につけた一人なのではないか、と問われているというのは・・少しおかしな話ではないか・・」このように思われるかもしれません・・。
〇これは、もう50年以上前になりますが・・初めて教会の礼拝で、この十字架の個所から語る宣教師のここからのメッセージを聞きました時、当時のこの私も、そう思った一人でした。
・では、2000年前にそこにいなかった私たちは、この十字架の場面に関わった人々とは違って、「自分で何をしているのかしっかりと理解しながら、人として、あるべき道からそれることなどなく、神さまの御心に沿った、立派な歩みをしつづけてきた一人一人なのでありましょうか・・。」
・それとも、私たちもまた、時代は変わっても、実は、聖書に出てくる人たちと何も変わらず、同じように、何をしているのかわからないまま、ただおもむくまま、自己実現に生きてきた一人一人であるのでしょうか・・。
・この問いかけは重いと思います。そしてこの問いかけに、私たちがどう答えてゆくのか・・それによって、私たち一人一人の人生が大きく変わってゆく・・そういう、大事な問いかけだと私は思うのです。
・ですから、私たちは、ここで、誠実に、一人一人が、自らの胸に手を当てながら、もう一度、心してこの主イエスのこのとりなしの祈りを読んでゆかなければならない、私はそう思うのです。

⑤ところで、このように、人々が「イエスを十字架につけろ!」と、盛り上がっている中で・・
なぜ、主イエスは、「父よ。彼らをお赦しください。」、このようなとりなしの祈りをはじめたのでしょうか・・。
・私たちだったら、「父よ。彼らは、あなたが遣わした救い主を、今、葬ろうとしているのです。
ですから、絶対赦さないでください。父よ。今こそ、彼らをさばいてください。」そのように、思わず祈りそうになるところかもしれません。
・しかし、主イエス・キリストの祈りはその反対でした。そうです。主イエス・キリストはそのようなお方だったのです。この方は、最後の最後まで、何をしているのかわからないままに生きている、私たちの側に立っておられる方であったのです。
・考えてみると・・「彼らをけして赦さないでください。」と祈る方が、神さまの義にてらして、神学的に正しいことです。

・しかし、救い主イエス・キリストは、その正しい方を選ばないお方でありました。主は。なんと、その反対に、ご自分を十字架につけている私たちの側に立って、弁護されていったのでした。
・「彼らは、自分で何をしているのかわからないで、このような行為に及んでいるのです。
彼らは、確かに、あなたの御心に反し、やっていることはひどく的外れです。
確かに、これは、彼らの罪のあかしです。しかし、彼らは、自分で何をしているのかわからないのです。ですから、どうぞ、彼らをお赦しいただきますように・・」
・そうです。主イエス・キリストは・・最後の最後まで、私たちの側におられて、私たちを弁護することを止めない、そのようなお方であったのでした。

〇少し聖書記事から離れますが・・みなさんは、三木忠直(みき ただなお)という方をご存じでしょうか・・日本の鉄道ファンの方なら知っておられるかもしれません。
・三木忠直は、1909年生まれ、東京帝国大学工学部(現代の東京大学)で学び、海軍航空技術部というところで才能を発揮し、若くして少佐になっていった人です。理系の超エリートです。
・太平洋戦争が激しくなる中、三木は次々と新しい兵器を作り出してゆきます。
その中でも最も有名なのは、「有人のロケット特攻機、桜花(おうか)」です。
・当時、ナチスドイツも、ロケットを造ったのですが・・彼が造ったロケットは、何と、人が乗り込んでゆく・・、つまり、自国の兵士の命などどうなってもいい、人を人と思わない、そういう、ナチスドイツよりもさらに冷酷な武器を造ったのでした。
・この特攻機に乗ったら最後、その兵士は帰ってくることができませんでした。この一人乗り特攻ロケットに乗ってたくさんの若者が死んで逝ったのでした。
・なんと残酷なことでしょうか・・このような、人を人と思わないような兵器を造り出していった
そういう人間を皆さんはどう思われるでしょうか・・

・敗戦になり、三木は、多くの若者を死に追いやったことの罪責感に襲われてゆきます。
・ある日、彼は、まるで夢遊病者のように街を歩いていました。
その時です。彼はふと見ると、教会の前に、「疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」と書いてある掲示板に目が留まります。
そうです。マタイの福音書11章28節にある、主イエスキリストの招きの御言葉です。
・この出来事がきっかけで、彼は、イエス・キリストが、人の罪のために身代わりに十字架で死んでくださり、このような自分のような者さえも赦してくださる方である、というその偉大な愛、偉大な赦しを知ってゆくのでした。
・彼は、後に回心に導かれ、キリスト者になります。
私の家に近い鎌倉雪の下教会の元メンバーです。
・その後、彼は、新幹線の設計に携わり、あの最初の新幹線、0系のデザインをした人として人々に知られるようになったのでした。
・考えみると・・太平洋戦争の時、ほとんどの人は、戦争に勝つことに一生懸命でした。
全部の人とは言いませんが・・つまり、ほとんどの人が、戦争に加担していったのでした。
・ですから、ほとんどの人は、そういう歩みをしてしまった経験から、己を見つめ直し、そして、その己の罪に気が付いてもよかったのです。聖書が語っている、罪ということに気が付く絶好のチャンスだったのです。
・しかし残念なことに・・多くの人は、「あの時は仕方がなかったのだ」などと言って、己の本質に気が付き、その罪を悔いて、回心してゆく、ということにはならず・・事をうやむやにしてしまい、己の罪を見つけることも、認めることもできずに終わってしまったのでした。
・一方、三木忠直とか、三浦綾子・・そういう方々は、己を偽らない、誠実な方たちもおりました。
これらの方々は、己の罪深さを直視し、その現実に打ちのめされていったのです。
・しかし、そういう方々にも、特別な神さまの哀れみが注がれていったのでした。
・このような方々は自分の本当の姿を隠さずに、いわば、裸で神の御前に出て行ったのでした。
・そして、誰がどう考えても赦されるべきでない、自分のような者をも、主イエス・キリストこの方は、十字架にかかり、その身代わりによって、赦される道をおつくりになられたということを知っていったのでした。

⑥キリスト者といいますのは、きょうの聖書個所のように、十字架の記事を読んできます時に・・
「そうですか、二千年前に、そんな事件があったのですね・・」このように、他人事のように読んでいった人たちではありません・・
・「そうでしたか・・あの十字架は、私の罪を赦してくださるためだったのですね・・。」

このように受け止めていった一人一人であるわけです。
・そして、この十字架による赦しと、その出会いによって、エゴを捨てて、イエス・キリストを我が主とする決心に至り・・この方の、この赦しを全き信頼をもって受け入れていった人たちであるわけです。
・また、キリスト者は・・この愛により赦されただけではなく・・この愛のまなざしを教えられ、このまなざしを受け継ぐものとして、導かれている、そういう一人一人である、とも言えます。
・私たちも、これからの日々、このことを心に刻みながら、その寛容さ、その優しさの、証人(あかしびと)として・・、弱い者ではあっても、日々,その信仰により一日一日、この寛容な心をもって、生きていきたいと思います。

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