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今日はアモス書7章に入ります。7章ではアモスの祈りが書かれています。アモスの祈りは、神がお選になったアブラハムの祈りと似ているところがあります。アブラハムの祈りにも触れながら、今日は学んでみます。そして、一人一人神に喜ばれる祈りをなす者となさせていただきましょう。アモス書7章1、2節で、「神である主は、私にこのように示された。見よ。王が刈り取った後の2番草が生え始めたころ、主はいなごを造っておられた。そのいなごが地の青草を食いつくそうとしたとき、私は言った。」とあります。アモスは幻を見ます。作物の1回目の収穫が終わり、初めの収穫が、王やその配下の者たちに納められます。そして、しばらく経つと同じ根から、2番草が生えるのです。しかし彼が見た幻は、2番草がいなごによって食い荒らされようとするその悲しい姿です。2番草の収穫は、主に一般の住民や貧しい者のためのものです。彼は祈ります。「神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」(アモス書7章2節)と。もし2番草が正常に成長しないならば、どうしてこの民は生き残れましょう。彼らは、弱い存在なのですとの祈りです。この祈りを神はお聞きになります。3節には、「主はこのことについて思い直し、『そのことは起こらない』と主は仰せられた。」とあります。このアモスの祈りを通して、神様は北イスラエルの貧しい民を守られたのです。
2番目の祈りは4節から書かれています。「神である主は、私にこのように示された。見よ。神である主は燃える火を呼んでおられた。火は大淵を焼き尽くし、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。」とあります。神は北イスラエルを滅ぼうとされます。それも燃える火を呼んで、大淵、つまり海の深みまでも焼き尽くし、彼らの割り当て地を焼き尽くそうとされるのです。実に大きなさばきです。アモスは祈ります。5節で、「神、主よ。どうかおやめください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」と。いつか終末の時が来て、この地上は神の裁きの火で焼かれます。これも聖書のメッセージです。しかし救われた私たちは、私たちの親族、友人や私たちの同胞のために、神よ、お救いくださいと祈ることができます。6節で、「主はこのことについて思い直し、『このことも起こらない』と神である主は仰せられた。」とあります。私たちの祈りにも神は同様に答えてくださるのです。
私はこれらの祈りを通してアブラハムの祈りを思い出します。アブラハムの身内のロトは、最も堕落した町ソドムとゴモラの近くに住んでいたのです。主がアブラハムに語りかけます。創世記18章17節には、主はこう考えられた。「私がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。」とあります。主はアブラハムに、ソドムとゴモラが裁かれることを伝えます。アブラハムは主の前に立って願います。創世記18章23、24節には、「アブラハムは近づいて申し上げた。あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼし尽くせるのですか。もしや、その町の中に50人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる50人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか」とあります。主は答えられます。26節で、「もしソドムで、わたしが50人の正しい者を町の中で見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」とあります。
アブラハムは、謙遜になってさらに主に問いかけます。28節で、「もしや50人の正しい者に5人不足しているかもしれません。その5人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるのでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが45人を見つけたら。」とあります。アブラハムはさらに主に願います。もしそこに40人、また、30人見つけるかもしれません。その祈りのたびに彼は神の赦しを得ます。続けて、もしやそこに20人見つかるかもしれません。そして、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに10人見つかるかもしれません。すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その10人のために。」とあるのです。彼の熱心な祈りが創世記18章の中に書かれています。実際には10人も正しい者を見つけることはできませんでしたが、門のところに座っていたロトとその家族を神は救い出してくださったのです。
ところで、アブラハムは神の祝福をいただき、その祝福を他の民族に分かち合うために選ばれました。アブラハムの選びは、創世記の12章にありますが、それは、彼は神の命令に従い、大いなる国民となり、神の祝福をいただき、さらに他の民族もアブラハムを通して祝福されていくためのものでした。同様に、私たち信仰者も、アブラハムの子孫として、祈りを通して、アブラハムの祝福に預かるのです。
第一ヨハネ5章14、15節には、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」とあります。またヤコブ4章3節には、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。私も神のみこころにかなう祈りをしていきたいと思います。私たちの家族が救われるのは神のみこころです。どうか私の家族をあわれんでください。お救いください、そう祈ることができます。
7章7節からは、重りなわの幻をアモスは見ます。重りなわとは、建物が垂直にできているかどうかを計る道具です。建物は垂直に建てられてこそ安定するものです。神様がアモスに見せた幻、それは重りなわが神の民イスラエルの真ん中に垂れ下がっている姿です( 8節)。そこには、「わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。」とあります。それは信仰や生活が歪んでいる民に対して、神の裁きの時が迫っているとのメッセージです。そしてそれは民だけではなく、北イスラエルの王、また、またベテルの祭司アマツヤに向けての裁きのメッセージと続いています。12、13節で、アマツヤはアモスに言った。「先見者よ。ユダの地へ逃げて行け。その地でパンを食べ、その地で預言せよ。ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王宮のある所だから。」とあります。アマツヤは、真の神の言葉に心を閉ざし、アモスを故郷に送り返そうとします。そのような北イスラエルに厳しい裁きが近づいています。
皆さん、神のみ言葉に心を閉ざしてはいけません。神のみ言葉に心を開いて、神の前に正しい決断をしようではありませんか。私たち一人一人、アブラハムの祝福に預かり、その祝福を他者にも分かち合う、そのような者として生きて行こうではありませんか。私たちの祈りは小さなものですが、みんなで心を一つにして祈る時、神は確かに私たちの祈りに答えてくださるのです。特に今、新しく選ばれた日本の政治家のためにも祈って行きましょう。神の回復の働きがこの日本で豊かに始まって行くように。
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