「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」ルカ23:39-43

Pastor Kitazawa

↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
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十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分と俺たちを 救え」と言った。
 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、わたしを思い出してください。」
 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 
➀きょうは、先月に引き続き、十字架の場面を記したルカの福音書23章、その後半の部分から、皆さんと一緒に、神さまからのメッセージを探してゆきたいと思っています。
・前回は、主イエス・キリストの十字架の刑に関わった人々が、ことごとく、「自分が、何をしているのか、わからないままに、結局は、主イエスの十字架の刑に加担していった・・」 
そのことを見てゆきましたが・・
・では、そこに居た全員が、そうであったのか・・といいますと・・  ルカの福音書の23章を注意深く読んでゆきますと・・たった一人だけ、自分のことがとてもよく見えていた、そういう人物が居たことがわかります。
・その人とは・・、それは意外な人物でした。きょうは先ず、その人物に光を当ててゆきたいと思います。

➁このイエス・キリストの十字架の処刑の場面。 実は、イエス・キリストと一緒に二人の刑事犯罪者も一緒に十字架につけられていたのでした。
いったい、誰がこういうことを考えたのでしょうか・・
・これは・・人々に、「イエスもまた、単なる刑事凶悪犯でしかないのだ」、こう思わせるための政治的な宣伝(プロパガンダ)、民衆への情報操作であったのです。 
当時の宗教指導者たちのやりそうなことでした。
・この時、張り付けにされていた一人の囚人は、主イエスに向かってこう言います。
「おまえはキリストではないか、自分と俺たちを救え」
・しかし、反対側に居たもう一人の囚人の様子は、全く違っていました。 彼は、悪態をついている囚人をたしなめた後、主イエスにこう言います。→「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
・そうです。彼は、心から回心していたのです。
・この「回心」といいますのは、心改める「改心」とは違います。 
日本語では「回った心」と書きます。
・この回心とは、心が、己中心から180度回転し・・今度は、神中心の心となり・・今までずっと神さまに反逆してきた、その己の罪を認め・・新らしく、神さまを、我が主として生きていくことを始めた人のことです。
・もう一つ、彼は周りの人たちと、大きく違っていました。 それは、今、自分の隣で十字架に掛かっている、その方が、人類の救い主である、ということがなぜか分かっていたということです。
・ですから彼は、自分の隣におられるその方に、こういう思いを込めて願い出たのでした。
・「イエスさま。あなたは救い主であられます。 ですから、あなたはこの後、御国に戻られることでしょう。 そこで、小さなお願いがあります。それは、あなたが点の御国に戻られたときは、そういえば、あの十字架の刑の時に、回心した一人の男がいたなあ・・と、せめてこの私のことを思い出していただけないでしょうか・・」
・(人間的な価値観から見れば・・)この人の人生は、失敗の人生だったのではないでしょうか・・。
 勿論、彼は、彼なりに、一生懸命生きてきたと思います。しかし、彼は犯罪者となり、捕まって・・
死刑囚となり、最後にはみじめに殺されてゆかなければならなかったのですから・・
・彼はこう思っていたに違いありません。
「ああ、気がつくのが余りに遅すぎた。結局自分の人生は、最悪の終わり方になってしまった。 しかし、せめて・・」このように思った彼は、隣におられた主イエス・キリストに、このように叫んだのでした。→「イエス様。あなたが御国に入られるときには、せめて、私のことを思い出してください。」

③ところがです。この時、主イエス・キリストは、「遅すぎた!」等とは、まったく言われなかったのです。主はこのように語られたのでした。→ 「まことにあなたに言います。
あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます。」
・この「パラダイス」といいますのは、ご存知の方が多いと思いますが・・、これは、元々は、古代ペルシャ語から来た言葉で、「高い壁で囲まれた、庭園のこと」を意味していました。
・このパラダイスと言われていたこの庭園は、その辺にある庭園とは違います。庶民は決して近づけない、そこは別世界でした。高い塀に囲まれていて、庶民は見る事さえ許されない、王家の庭園でした。
・しかし一つだけ、普通の人間がそこに入るチャンスがありました。
それは・・闘いに勝利した勇者が、英雄として王に招かれた場合だけでした。 その勇者は、王と一緒にそこを歩ける。これが最高の栄誉だったのです。
・つまり、この時、主イエス・キリストは、この人にこう語られたわけです。
 「あなたは、敗北者などではありません。あなたは人生の勝利者なのです。勇者です。
あなたは、今、私と一緒にその栄誉にあずかっているのですから・・」

4 しかし若かりし日の私は、このイエスさまの御言葉に納得がいきませんでした。
・「おかしいではないか! 立派な生き方を最後まで貫き、生き抜いた人もおられる・・
 一方で、この人のように、反社会的な犯罪者となって人生を終える人もいる・・
神さまから栄誉ある人と迎えられる人とは、はやり、この人のような人でhなく、もっとまともな人、もっと立派な人たちだけではないだろうか・・」こういう思いがあったからです。

・また当時の私は、こうも思っていました。 「このイエスさまの御言葉はちょっとオーバーなのではないか・・ちょっと褒め過ぎではないだろうか・・」
・「あなたは天の御国にゆけるのです。大丈夫です。」こういう言葉なら、まだわかるけれども・・
 今、十字架で張り付けになっている、いわば敗北者の代表のような人に・・「あなたはきょうわたしとともにパラダスにいます。」というのは、ちょっと無理があるのではないか・・こういう思いです。
・しかし・・その後、私は年を重ね・・45年程牧師してきまして・・いろいろな方の悲しみや、重荷を知ってゆきました。
・生まれながらに身体的なハンディキャップを負っているために、一生懸命生きておられるのですけれども、どうしても、何事にも限界がある・・そのような方・・。
・生まれ育ったご家庭が、ひどく荒れていて・・その中で生まれ育ち・・その心の傷を負ったままいろいろと頑張ってみるのですが・・結局は人間関係に問題が生じてしまい・・仕事が続けられなくなってしまう方・・
・このように、人は、身体的ハンディキャップであるとか・・厳しい生活環境であるとか・・
そういうことに大きく揺らされ、なかなか思ったような人生になってゆかない・・そういうもどかしさや悲しさと闘っている方はとても多い、ということがわかってゆきました。
・ですから・・だれもが成功者と言えるような人生になってゆくのではなくて・・失敗に失敗を重ねてしまい・・そして、ついには大きな失敗を負って、最後を迎えることになってしまう・・そういう方も少なくない、これが私たちの地上での現実でもあります。

⑤ですから・・この十字架で張り付けになっている二人の犯罪人も・・私たち一人一人とは、遠く離れた、別の星の人間というのではなく・・私たちと、本質的には何も変わらない、一人の人間だったのではないでしょうか・・
・しかし・・一人は・・最後の最後まで、自己中心であり・・ もう一人の人は、人生の最後の最後になって、その自己中心である己に気が付き・・回心に至った人であったのです。
つまり、この二人は、私たちを代表している二人であったわけです。
・一人は、救い主を無視し・・もう一人の人は、主イエス・キリストから栄誉に与ったのでした。
・ここで、主イエス・キリストが使われた、最初の言葉は、「アーメン、アーメン」でした。
これは、つまり、「まことにあなたに告げます。」「今こそ、確かなことをあなたに告げます」
そういう意味です。
・主は、そうおっしゃった後に「あなたは、今、わたしと共に、パラダイスにいます。」
 このように語られたのでした。
・そうです。主イエスキリストは、十字架に張り付けになったままの、この人に、こう宣言されたわけです。「いいですか・・わたしは今、誠に誠に確かなことを語ります。 あなたは、今、勝利者として、わたしと共に、選ばれた者たちだけが入れるその世界に、立っているのです。」

⑥それにしても、私は、この十字架上で、「あなたが御国に入られるときには、私のことを思い出して下さい。」と叫んでいった、この人のことを考えますと、・・何か、人ごとのようには思えません。「この人は、今の自分と、とても似ているのではないか・・」そう思うのです。
・私は、今、70歳を超えた者ですが、考えてみますと、こんなに長い時間生きてきたにもかかわらず・・神さまに喜ばれるようなことは、ほとんど、できずにここかでやって来ました。
・だからと言って・・「これからだ!これから頑張ればいいでしょう!」そんな風に思っても・・そう思った直後に、直ぐに疲れもやってきたりします。若い時のような迫力はもうありません。
・勿論まだ、十字架に張り付けになって、文字通り何もできない、そういう状態ではありませんが・・
体調が悪くなって、入院した時などは・・この先、どんどん、いろいろなことが出来なくなっていって・・そして、結局、最後は何もできなくなって・・そして、終わってしまうのかもしれない・・そんなマイナス思考に陥りそうになるときがあるのです。
・つまり・・気が付いたときには、もう十字架に張り付けになっていて、身動きできない、この人に、自分が重なることがあるのです。

⑦「そんな弱気になって、どうするのですか!」そんなお叱りを受けるかもしれませんが・・実は、己の弱さを知りますとき・・人は、大事な事に気が付かされるということもあるのです。
・きょうの聖書箇所の神さまのメッセージもそうです。 ここに語られているメッセージは、私たちが己の弱さを覚えるときにこそ、己の胸に届いてくる・・そういう個所です。
・私は思います。この十字架上の主イエス・キリストの御言葉は・・その弱さを覚えている私たち一人一人に、 その方が、若者であろうが・・子どもであろうが・・、熟年者であろうが・・、中年であろうが・・、私たちの中に生じる、そのマイナス思考を圧倒し、吹き飛ばしてしまう・・そういう力があります。
・もう一度申します。 主イエス・キリストは・・人生を死刑囚で終わってしまう、この回心した男に、こう言われました。
・→「あなたは敗北者ではありません。 あなたは己の罪を認め、回心した神の民です。
わたしと共に天に迎えられる勇者です。 今あなたは、わたしと共にパラダイスにいるのです。」
・私は、この御言葉に激しく感動するのです。
・と同時に・・こんな小さな自分にも・・主は同じ御言葉を掛けてくださる、その喜びが、何か、心の下の方から、湧き上がってくるのです。

お祈りしたいと思います。 ↓
父なる神さま。
神さまは、私たちの想定をはるかに超えて大きく深く・・たとえどのような人生であっても、最後の最後まで、救いのチャンスをお与えになられる、そういう偉大な愛の方であることを、もう一度覚えさせられてありがとうございます。
また、私たちが、たとえどんなに貧しい人生に終わったとしても、あの回心した人が、「あなたは私とともにパラダイスにいます。」と宣言されたように・・私たちにも、同じ栄誉をお与えになられる方であることを覚えて、その愛の偉大さを心から褒め称えます。
願わくば・・きょう礼拝をともにした、愛するお一人お一人が、一人も漏れることなく、この幸いな恵みに与れますように・・
また、哀れみにより、少しだけ先に、その恵みに与った一人一人が・・これからも・・喜びつつ、己の十字架を負って・・そして・・あなたが、共にいてくださる、そのいのちの道を一歩一歩あなたへの感謝と賛美の歌心のうちに秘めつつ、前進してゆく・・そういう者でありますように・・。お導きください。
我らの主、イエス・キリストの尊い御名により、お祈りいたします。アーメン。

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