「主が高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニア書3章17節)

Pastor Ino

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前回私は、ゼパニヤ書を取り上げました。そこで神様は、へりくだった寄る辺のない民を残されること。そして、このようなへりくだった民を通して、神の大きな御業をなされること。その視点に立って、メッセージを語りました。私たちも世の視点から見たら、あまり注目もされない、へりくだった寄る辺のない民であるように思います。その寄る辺のない民を、ゼパニヤ書3章13節で、イスラエルの残りの者は不正を行わずと表現しています。残りの者、残された者、実はこのテーマで、前回パク宣教師がメッセージを語られました。私はその説教をお聞きして、神の不思議な導きを覚えました。ノア、アブラハム、モーセ、ヨシュア、カレブも、神を信頼し、神の業をなした、残された者たちです。そのような意味で、ゼパニヤが預言した当時の王、ヨシヤ王も残された者の一人であると私は思います。堕落した南ユダの国を、聖なる国民、祭司の王国となるように、もう一度チャレンジしよう。そう、彼は決意して宗教改革に臨んだのです。

もう一度、ゼパニアの内容を振り返ってみます。まず、ゼパニア書は大きく3つの内容からなります。1つは、エルサレムに対する神の審判です。2つ目は諸外国に対する審判です。3番目は終末における救いの約束です。主の日との言葉が何度かでてきますが、主の裁きの日として、主の日を表現しています。(1:7,14,15)

しかし、この主の日は一方的な怒り、裁きの日だけではありません。1章7節には、「神である主の前に静まれ。主の日は近い。主が1頭のほふる獣を備え、主に招かれた者を聖別されるからだ。」とあるのです。聖別とありますから、主の日は、主の裁きの日であるとともに、神の民の聖別の日でもあるのです。私たち信仰者は、イエスの十字架での苦しみの故に救われています。キリストの贖いの業によって救われる、そして、苦しみを通して聖別される、そのような人生をおくるのです。そして日々、主イエスを礼拝する、そのような民として、今私たちは生きているのです。

ちょうど私は、この裁きの箇所を読んで、クリスチャンに降りかかるであろう試練や苦難に関して教えられたイエスの預言を思い出します。イエス・キリストご自身は、終末の出来事として、いくつかの事を語っておられます。しかし、試練や苦難の時を耐える者は、いつか神からの栄誉を受けるのです。神の栄誉を受ける、そのような約束を私たちは与えられています。それでは、イエスが語られる試練について、いくつか述べてみましょう。

マタイの福音書24章3節から14節にかけて、終末に起こる出来事をイエスは弟子たちに語っています。1番目に、私こそキリストだと言って多くの人を惑わす、にせキリストが起こってくること(5節)。2番目に、戦争のことや戦争のうわさを聞くこと(6)。そして民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こること(7)。8節で、「しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」とキリストは語り、信仰者に対する迫害や憎しみが起こることを伝えています。さらに、11節で、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わすこと。12節で、不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなると語り、13、14節で、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」とあります。皆さん、今私たちは戦争や、またききんや地震が世界的に起こっていることに気づいています。また、クリスチャンに対する迫害が多くの国で起こっています。人々の愛が冷たくなっています。今は終末の時代であると言えるでしょう。しかし、キリストは、最後まで耐え忍ぶ者は救われると約束されています。

私たちがきよめられるには、ある意味多くの試練を通る、これも聖書が語っていることです。先月、私は、バッハの教会カンタータ131番を、東京のあるコンサート会場で聞きました。その内容は、詩篇130篇を歌ったカンタータです。「深い淵から、私はあなたに呼び求めます。」との節が何度も歌われます。深い淵、そのような絶望の中から私たちは神に呼び求めるのです。加えて、「私の願いの声に耳を傾けてください。」と、祈るのです。(詩篇130:1-2)。そして、続けて、「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ち望みます。」(5節)と繰り返して歌います。

コンサート会場でいただいた楽曲の解説には、「バッハの着任直前に大火があり、市中心部の大半が焼失したことに対する悔い改めの礼拝用として、この歌が作曲されたとする説が有力です。」と書かれていました。深い淵からとの言葉が何度も繰り返して歌われます。大火ですべてを失った、そのような苦しみの中で、この歌が歌われたのかもしれません。皆さん、イエスも試練や苦しみがあることを弟子たちに伝えています。私たちはある意味、サタンが支配しているこの世に生きているのです。例え信仰を持ったとしても、私たちは試練や苦悩の中に生きているのです。しかし、そのような中で私たちは、深い淵から目を天に向け、私はあなたに呼び求めます。私の願いの声に耳を傾けてください。私は主を待ち望みます、と祈ることができるのです。そして、確かにキリストは、そのような者の声を聴き、最後まで耐え忍ぶ者は救われますと約束されておられるのです。

パウロは、ローマ書8章18節で、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と述べています。私たちは苦しみだけを見てはいけないです。苦しみを通して、私たちの人生が変えられて、キリストの恵によって私たちは聖なる者へと変えられて行くのです。そのような視点で、希望を持って人生を歩んで行きましょう。

前回語りましたが、ゼパニアは3章で、一時的な祝福を預言したのではありません。この預言は、終末の時の預言と理解できます。私たち信仰者はいつかイエス・キリストとお会いし、喜びや安らぎを得るのです。そして礼拝の喜びを多くの信仰者と共にするのです。

14節には、「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。」とあります。試練はいつまでも続きません。ローマ書にあるように、今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないのです。信仰を持って、主の救いを喜び、高らかに歌ってまいりましょう。いつか、心の底から、喜び勝ち誇る時が来るのです。

15節には、「主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。」とあるのです。皆さん、神様があなたのただ中におられるので、もう災いを恐れないとあります。あなたの人生に、確かに主イエスがともに歩んでくださっています。聖霊の導きがいつでも与えられているのです。そして16節の後半では、「シオンよ。恐れるな。気力を失うな。」とあります。主がともにおられるので、恐れないで、神を信頼して、気力を失わないで、私たちは歩むことができるのです。サタンの誘惑からも解放され、勝利の時がいつか来るのです。

17節には、「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主が高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」とあるのです。神の前に信仰を持って、勇気を持って立ち上がり、主イエスがあなたの救われた人生を喜んでくださる。終末の時、いつかそのような時が来るのです。

私は、信仰を持って歩み始めたころ、導いてくださった牧師から、主に栄光をお返して生きる人生が信仰者の歩みなのです、と教えられました。主に栄光をお返ししよう、私はその時から、そう決断して人生をスタートしました。小さなことでも、私の今日の一日を通して、主に栄光をお返しできるように。そう祈って生きる人生を始めました。それは、本当にチャレンジに満ちた人生です。私の思い、行動を通して、神に栄光をお返ししよう。そう生きることが、私たち信仰者の歩みであると、今私は確信しています。そのように生きる者の人生を、主は、喜び、楽しんでくださり、主の愛によって安らぎを与えてくださるのです。主が高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる、そう約束されているのです。みなさん、私たち一人一人は小さな者ですが、精一杯主に栄光をお返して、歩んで行こうではありませんか。主が高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる、その時がいつか訪れるのですから。

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