ルカ24章8節~31節 「救い主が見えるようになった二人」

Pastor Kitazawa

↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
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○最近、目が悪くなった方、視力が低下している方が多くなっているのだそうです。 

・その原因は・・スマホを見過ぎている、そういうことだけではないようです。

・先日、眼科の先生にこんなことを言われました。
「わたしの患者さんで、40代で白内障の手術を受けた方がおります。その方は、サーファーです。北澤さんも海の近くに住んでおられますから、紫外線に気を付けてくださいね」 
「紫外線は、白内障だけでなくて、もっと深刻なダメージを受けることがありますから・・」

・「40代で白内障手術? こわい・・気を付けよう!」 70代なのに・・私も改めてそう思いました。

・「見えなくなる病気」といえば・・きょうの聖書個所で、医者であったルカが、心因性の目の病気について
 語っております。  では、早速その聖書個所を見てまいりましょう。

➀きょうの聖書個所に記されているこの出来事は、弟子たちが、主イエスの復活の知らせを聞いていたにも関わらず、それを、まだ現実のこととして受け止めることができないでいた・・そんな中、起こった出来事でありました。

・この時、二人の弟子は、エルサレムからエマオという小さな村に向かって歩いていたのです。

・この二人は、弟子と言っても、聖書に何回も出てくる、あの12弟子ではありません。

・一人はクレオパという弟子。もう一人は、誰であったのか・・クレオパの妻であったのではないか・・という説が有力ですが、確かなことはわかりません。

・この時、この二人は歩きながら、主イエスの十字架の受難と、その三日後の復活のその知らせについて互いに、話し合ったり、論じ合ったりしていたのです。

・その時。 そこへ、主イエスご自身がこの二人に近づいて来て、彼らとともに歩き始めます。

➁ところが・・聖書は続いてこう伝えています。
→「しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」

・主イエスに従ってきた弟子であったのに、どうして彼らは、自分たちに近づいてきた方が、主イエスであると分からなかったのでしょうか・・ そのことが気になります。

・勿論、彼らは、いつも主イエスの傍らに居たヨハネやペテロたちとは違って、もう少し、主イエスとの距離感があったかもしれません・・ 
・それにしても、近づいて来て一緒に歩いておられる方が主イエスであると分からなかったというのは、ちょっと不思議な感じがいたします。 なぜだったのでしょうか・・。

・この福音書を記したルカは、12節の所でこのように言っています。
→「彼らの目はさえぎられていて・・」 これはどういう意味なのでしょうか・・

・勿論、これは、どこからか葉っぱのようなものが数枚飛んできて、それが彼らの目に張り付き、目が見えなくなってしまった・・そんな物理的なことを伝えているわけではありません。

・そうです。これは・・彼らの心の目が、ふさがっていて・・そのことのために、今、一緒に居てくださる方が主イエスだとは気が付かなかったという事を言っているわけです。

③よくよく考えてみますと・・確かに人は、心の状態によって、普通は認知できるはずのものができなくなる・・気が付くはずのものに気が付かなくなる・・これはよくあることです。

・では、この時の彼らの心の目がさえぎられていたのは・・何が原因だったのでしょうか・・

・15節のところで、ルカは、この時この二人の弟子たちの様子についてこう記しています。
「彼らは、話し合ったり、論じ合ったりしていた」

・<論じ合う>・・確かに私たちには、論じ合わなければならないことが沢山あります。

・確かに、論じ合うことによって、互いに理解を深めるということもあります。

・また、他の人の意見と、自分の意見とのすり合わせをしてゆくことは、あらゆる分野で大切なことです。 学問や政治は勿論、教会生活や家庭生活においても大切なことです。

・特に若者は、己の意見を出し合ってゆくことへの意欲が旺盛ですので、論じ合ることを重んじている人が多いと思います。

・しかし、いろいろな人間関係を経験して、熟年者になってまいりますと・・
「とにかく自分の意見を述べ合ってゆく」というそのワンパターンだけが大切というわけではないということが分かってまいります。

・いや、時には、「論じ合うことが、大きなマイナスを生み出してしまう・・今は、論じ合ったりしているときではない!」そういう場面が多々ある、ということがわかってまいります・・。

・例えば・・弱っている人に、己の意見を理詰めで語って行ったりしますと・・
その弱っている人は、大きく傷つき、耐えがたくなり・・ひどい場合には生きる力を失って自らの命を絶ってしまう・・そんなことさえ起こりかねません。

・また、きょうの聖書個所のように・・互いに己の意見をぶつけ合っていると・・そのことに心が行き・・もっともっと大事なことが近づいている・・ということには気が付かなくなってしまう、そういうことが起こります。

・また、そもそも、ここで彼らが論じ合っていたのは、主イエス・キリストの十字架の身代わりについて・・そして、主イエス・キリスト復活の知らせについてでした。

・言うまでもなく、これは、人の知るところを、遥かに遥かに超えている、神さまの愛に関することがらでした。

・このように、人知を超えた神の愛について、論じ合っている・・これは、果たして賢い事なのでしょうか・・これは、賢いというより‥的外れ・・と言わざるを得ないのではないでしょうか・・。

・人知を超えている、神の愛は・・論じ合っていても実りはないのではないでしょうか・・
人知を超えた神さまの愛については・・論じ合うことよりも・・その愛を受け止めることこそ、賢い者のすべきことなのではないでしょうか・・

・このような、彼らの心の状態を・・ルカは「心がさえぎられていた」と表現したのです。

④その結果、この二人の弟子は、彼らを愛してやまない、主イエス・キリストその方が・・
今、彼らの傍らにおられて、一緒に歩いておられる・・そのことに気が付かなかったのでした。

・しかし、この先を読んでゆきますと・・幸いなことに、彼らはこの後、この方が救い主イエス・キリストであるということに気が付いてゆきます。

・この時の彼らが、どういうことによって気が付かされていったのか・・、その心の動きについて、ルカは詳しく伝えています。 そこのところは、後でゆっくり読み直していただきたい、と思います。

・そうこうしているうちに・・主イエスと二人の弟子たち三人は、エマオという村に近づいてゆきました。 この時主は、この村には入ろうとはせず、まだ先に行きそうな様子でした

・ところがです。ここで、この二人の弟子たちは・・なぜか、この方を強く引き留めはじめるのでした。

・なぜ彼らは、この時、先に行きそうな様子であったこの方をいわば強引に引き留めたのか・・
 もし、この彼らの引き留めがなかったなら・・彼らは、何もわからず・・何の実りもなく、この旅は終わっていたことでしょう・・

・彼らのほんのちょっとした心の変化・・しかしそのことによって、事態は大きく変わって行ったのでした。
・皆さんの今までの歩みの中でも、このようなことがたくさんあったのではないでしょうか・・

・それはもう、私たちの意識した行動というより・・私たちの無意識の、その小さな心の変化によって、私たちがある方向へと導かれてゆく・・

・その力は、私たちの背後からあって・・私たちを、実りある人生へと導いてゆかれる・・
それは「神さまの導き」としか言いようのない瞬間・・
 
・私にも、「ああ・・あの時、神さまはこの小さな者を導いてくださったなあ・・」そう思い返すことがたくさんあります。

⑤こうして、主を引き留めることのできた彼らは、夕食の時を迎えます。

・ところが、この時の様子が少し変です。
 30節にはこうあります。→「彼らと食卓に着くと、イエスは、パンを取って、神をほめたたえ裂いて彼らに渡された」

・二人が招き入れたこの家は、彼らの家であったのでしょう・・或いは、彼らがいつも宿泊していた所であったのかもしれません。

・いずれにせよ、彼らは、今、イエスを客人として迎え入れたのでした。
 ですから、普通は、彼らが主人で、イエスはその客人という関係でした。

・ところがです・・もう、皆さんはお気づきになられたと思います。
 この29節30節を見ますと・・いつの間にか、この二人の弟子たちと、イエスさまの立場が、反対になっているのです。

・つまり、この食卓では、いつの間にか、客が主人となり、主人が客のようになっていたのです・
 日本語ではこのことを「主客転倒(しゅかくてんとう)」と言います。

・なぜ、このように両者の立場が入れ替わったのでしょうか・・

・私は、この二人の、主の迎え方に注目すべきだと思います。

・この時、彼らは、主イエスを、客人として迎え入れたというよりも・・何故か、彼らはイエスをこの家の主権者のように・・正に、主として迎え入れたのでした。

・この彼らの思いに応えて・・食卓につかれた主イエスは、パンを取り祝福して、それを裂いて二人の弟子に渡すのでした。

・その時です。31節「すると、彼らの目が開かれ、彼らと共におられる方がイエスだと分かった」

・私たちは、だれも、生まれながらにして・・「自分を動かすのは自分」「自分を動かすのは自分自身」・・つまり、自分が自分の人生の主人であると思いながらいきてきます。

・しかし、それでは、己の本当の主の存在に気が付かないままに人生を終えてしまいます。

・しかし、この弟子の二人のように・・主客転倒(しゅかうてんとう)に導かれ・・神さまを信じるという、新しい生き方を始めた者たちは・・共に居てくださる主の存在に気が付くものとなってゆくのです・・。

⑥マタイの福音書5章8節には、このような主イエス・キリストの御言葉が記されています。

・「心のきよいものは幸いです。 その人たちは神を見るからです。」

・神さまの臨在を覚えながら・・、神さまの、そのご臨在が分かる故に、益々希望に溢れ・・
今週も、力強く、神さまと共に一歩一歩前進してゆく、そういう私たちでありたいと思います。

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