プライド、排他的な考え、罪に対するイエスの戒め 「マルコの福音書9章30節~50節」

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今日のマルコの福音書の箇所では、イエスは引き続きエルサレムへと向かっています。イエスが地上で最後の日々を過ごす場所です。死が近いことを知り、イエスは信者たちにイエスの弟子となるとはどういうことかを、更に深く伝えるために時間を取っています。
今日の箇所は、マルコ9章30節からです。「さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。」
イエスはこの頃、弟子たちが人を癒したり、困っている人を助けたりすることに時間を取られないようにしていました。弟子たちがイエスに聞き、霊的な事柄の理解を深める時だったからです。
その後の9章の内容は、主にプライド、排他的な考え、そして罪に対する戒めです。では今日の聖書箇所を読む前に祈りましょう。
(マルコの福音書9章30節~50節を読む)
読んでわかるように、イエスは異なる題材を使って話しました。それらは一見、関連があるようには見えませんが、「火」、「子ども」、「塩」というような言葉でつながっています。ユダヤ教の教師(ラビ)がよくやっていた教え方です。
三つの教えについて簡単に見ていきたいと思います。教えの中心はプライド、排他的な考え、罪に対する戒めです。

<プライド:誰が最もえらいか>(9章33節~37節)
まず、イエスはプライドを持つことを戒めてから、弟子にとって大切な資質は謙遜だと教えます。35節には「…だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」とあります。
何が神の国で素晴らしいとされるか、それは謙遜に仕えることです。
イエスご自身が、それがどういうことなのかを示してくださいました。ヨハネ13章でイエスは弟子の足を洗いました。普通は教師であるラビが生徒の足を洗うことはしません。イエスの謙遜を示す最たる例、それは私たちの罪のために自ら十字架にかかってくださったことです。パウロは、ピリピ2章で、このイエスの謙遜と偉大さについて、鮮やかに表現しています。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2章6節-11節)

仕えるとは何かを説明するために、イエスは、弟子のグループにいる一人の子どもに目を向けなさいと言いました。マルコ9章37節には「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」とあります。
古代社会では、子どもは法的な地位や立場がありませんでした。でもちょうどこの子どもに対する見方のように、旧約聖書全体を通じて、神は低い身分の人々に対し、特別な愛を示しておられます。(申命記10:18,詩編Ps146:9、イザヤ29:19)
イエスは弟子たちに、低い身分の人たちを尊び、大切にするよう望んでおられました。低い身分の人たちにどう接するかは、神にどう接するかを測る基準となるのです。
当時、弟子たちは、「自分たちの中で誰が一番偉いか。誰が一番上か。」ということで頭がいっぱいでした。これらのことは、心のプライドや不安が原因です。イエスは彼らに教えました。「誰が一番上か。それは一番下の人です。」と。
イエス、つまり神ご自身が私たちに仕えてくださるならば、私たちは他人にも仕えるべきです。たとえ、卑しくて役に立たないと見られているような人々にさえも仕えるべきです。これこそイエスが弟子たちに理解してほしいと願った教えでした。この教えを理解していなければ、イエスの死と十字架を、弟子たちは後で理解できなかったでしょう。イエスの敵にとって、十字架で死ぬことは、恥ずべき失敗にすぎなかったかもしれませんが、実はそうではありませんでした。イエスの十字架は、仕えるとは何か、愛とは何か、罪と死に打ち勝つ勝利とは何かを教えてくれる、偉大な行為と言えるのです。

<排他的な考え>(マルコ9章38節~41節)
イエスはまた排他的な考えを戒めました。排他的な狭い視野で自分のグループだけを支持すること、イエスはこれを戒めました。誰もが参加し一体化していくこと、そして一致を重んじるようにとイエスは教えました。
38節で、弟子たちはイエスの名前を使って悪霊を追い出している男のことを報告しました。その男は弟子たちのグループではありませんでした。しかしイエスは39節で、「やめさせることはありません。」そして40節で「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」と言いました。
おそらく、その男はイエスを信じている人でした。ただ、町から町へとイエスの後について回ったグループの一員ではありませんでした。
イエスを信じる者全ては、神の大きな家族の一員だと聖書は教えています。どこか自分と違いのある他のクリスチャンの方たちも、神の家族の一員だということを私たちは忘れがちではないでしょうか。
ヨハネ17章で、死の少し前にイエスは、信じる者全てが一致するように祈りました。まるで私たちがお互いうまくやっていくのが難しいのを、イエスはご存知かのようです。ヨハネ17章23節でイエスはこう祈っています。「…それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」
互いの一致と愛がなければ、クリスチャンは信頼性を失います。もし私たちクリスチャン同士で激しく争うなら、イエスの死や復活、神の愛というメッセージを世間の人が信じることができるでしょうか。
ですからイエスは、弟子たちが排他的な見方をしないように戒め、一致できるようにと最後の日々に祈ってくださいました。福音を分かち合うことによって、この世界は祝福されるかもしれません。

<罪>(9章42節~50節)
もう一つイエスが弟子たちに言い聞かせたこと、それは罪が及ぼす影響に気を付けなさいということです。罪から自分自身を守ること、そして他の人を罪に陥らせないように気を付けるようにと、イエスは教えました。
41節と42節では、イエスは報いと裁きについて教えています。イエスを信じる人を歓迎する人には神からの褒美があり、反対にイエスを信じる人をイエスから切り離すような人は、裁かれると書かれています。
また、43節から47節には恐ろしいことが書かれていますね。「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。」でも安心してください。イエスは本当に手を切り落としなさいと言っているのではありません。イエスは時々、誇張表現を使って弟子たちに教えました。弟子たちの注意を引き、記憶に留めさせるためです。ここでイエスが言っているのは、罪を軽く考えてはいけないということです。
最後に48節から50節で、「火」や「塩」に関連した話をします。49節では「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」とイエスは言っています。聖書学者はこの意味について二つの解釈を挙げています。
一つは、火は試練や苦しみを表しているという解釈です。試練や苦しみは、ローマ12章1節の言葉を借りれば、弟子の「生きた供えもの」と一緒に付いてくるものです。旧約聖書では、罪の許しのために神へ捧げるものは動物でしたが、その際に塩は欠かせないものでした。(レビ記2:13)
ですから、イエスはこう言っているかもしれません。「律法において全ての捧げものには塩は欠かせないものだった。だから私に従う者たちが持ってくる、生きた供えものは、試練や苦しみで塩けがするものでなければならない。」と。このような解釈もあるでしょう。
もう一つの解釈は、火が聖霊を表すというものです。聖霊は私たちを信じる者に変えるという「味付け」をします。つまり聖霊は私たちを清め、清さを保ち、香りをつけ、私たちの人生を豊かにします。この「味付け」によって、私たちの人生は神に受け入れられるものになります。
その後で、イエスは50節で言います。「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。…」
もし自分の経営するレストランを人気の店にしたいなら、料理が美味しくなければなりません。食感や盛り付けがよくて、値段も手頃であっても、味が悪ければ意味がありませんよね。同じように、イエスは弟子たちに、罪によって彼らの人生の味を落としてほしくなかったのです。弟子たちの人生の味が淡白になったり、苦くなったりすることで、福音を味わう人が福音をまずいと感じてしまうようなことがないようにと、イエスは戒めました。
最後にイエスは「あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」と言っています。パウロはコロサイ4章6節で同じような例えを使って、「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。…」と書いています。クリスチャンがお互いに平和を保っていれば、人々はイエスに目を向けるでしょう。
まとめると、イエスは、罪は深刻な問題だと教えています。罪はクリスチャンから、人を惹(ひ)きつける霊的な特性を奪うものです。イエスの十字架での死によって、私たちは清められました。けれども私たちは、プライドだとか、争いや不和など自分の中の様々な罪と闘っていかなくてはなりません。
<結び>
あと数日で、聖金曜日と呼ばれるイースター前の金曜日になります。自分を振り返り、罪を告白し、悔い改めるよい時です。
ここ数年、私は四旬節を守ろうとしてきました。四旬節というのは、イースターの40日前のことです。今年のイースターは来週の日曜日ですね。四旬節は、キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださったことや、その重要性を覚えて、備え、断食して、罪を告白して、悔い改める時です。昔は四旬節を守るクリスチャンは、食事の一部や肉を食べなかったりしました。私はそうする代わりに、スマホの時間を減らすようにしています。SNS、スマホの時間を部分的に断食する、つまり減らすことで、集中力が上がり、気が散ることが少なくなりました。また、自分を振り返る時間が増えました。それが四旬節のもう一つの目的です。忙しい生活の中で神のスペースを造り出すことです。
私は柔道を習っていて、先輩の男性がいるのですが、今週、私はその先輩のことを神に感謝しました。その先輩の名前を仮に竹さんとします。竹さんはとても親切に指導してくれて、柔道の技の相手もしてくれます。二週間前の日曜日に受けた柔道の試験では、私が知識がなかったり、間違ったことをしてしまった時に、横から小さな声でアドバイスをしてくれるような方なんです。
柔道は競技スポーツです。勝つか負けるかの勝負で、二人共勝ち、とはなりません。このような競技スポーツにおいても、イエスの謙遜と親切を竹さんに見ることができます。竹さんは黒帯で、私は白帯ですが、だからと言って竹さんは私を見下したりしません。私は外人で、物事を理解するのに時間がかかることもありますが、竹さんは私に忍耐強く接してくれます。彼は柔道の先生ではないのですが、彼の振る舞いは素晴らしい先生のようです。先生の中には、「違う、違う、それは間違いだ」とただ批判して、どうしたら正しくできるか、ちゃんと教えてくれないような先生もいると思いますが、竹さんはそうではありません。
同じように、弟子たちにとって、イエスは素晴らしい先生であったと思います。イエスは、弟子たちを自分の目的のために、ただ利用するというのではなくて、弟子たちに対して真実な心を持っておられました。イエスの教えはただの言葉ではなくて、まさにイエスの人生そのものが模範でした。そしてたとえ生徒たちの理解が遅くとも、イエスは、決して生徒たちを見捨てるような先生ではなかったのです。

それでは最後に祈りましょう。
神よ、私たちはためらいながらも、あなたのみもとに来ました。どうか私の心の隅にちり積もった罪を払い清めてください。
私たちは他人の苦しみに無関心であったかもしれません。私たちの心の中で、罪との闘いが十分でないのなら、どうかそれを明らかにしてください。
あなたの癒しの光で、私たちを御子イエスの姿に変えてください。あなただけが新しい命をもたらし、私たちを完全にすることができます。神、聖霊と共に永久(とわ)におられ、ご支配する主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン

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