「恥と栄誉、コストとご褒美」(マルコの福音書10章28節~45節)

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日本では、「出る杭は打たれる」ということわざがありますね。中国にも同じような意味のことわざで「頭を出す鳥は撃たれる」と言うのがあるんですよ。社会の期待とは違う行動をとると批判されたり、恥をかいたりすることがあります。

新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐために、2,3年前に日本政府がとった対策を覚えていますか。一つは、決まりを守らないと恥をかくことになりますよ、と脅(おど)かすようなものでした。
日本に入国、再入国の海外渡航者はしばらくの期間、自主隔離を求められました。それを守らずに必要もない外出が見つかった場合は、名前を公表する措置(そち)を政府はとりました。これはある意味、国民を脅(おびや)かす方法だったと思います。

私は、そのやり方はとても効果的だと思いました。日本人は、高い罰金を払うよりも、皆の前で恥をかかされることを恐れると思うからです。

今日のマルコの福音書の箇所から、「恥と栄誉、コストとご褒美」というテーマで話したいと思います。聖書を読む前に祈りましょう。

(マルコ10章28節~45節を読む)

<コストとご褒美>

イエスに従うと素晴らしいご褒美がついてきます。29節30節でイエスはこのように約束してくださっています。「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」

しかし、イエスに従うことは痛みを伴うコストもついてきます。ご褒美と一緒に、私たちは「迫害」も受けるだろうとイエスは30節で言っています。ある辞書には、迫害とは宗教や人種やその他の要素によって、人から敵対心を向けられたり、ひどい仕打ちを受けることだと書かれています。

イエスご自身も、天の父なる神に従ったために迫害されました。迫害については33節、34節にあるように、イエスはあらかじめ弟子たちに伝えています。イエスは捕らえられ、あざけられ、つばをはかれ、鞭(むち)打たれ、死刑を宣告されるだろうと。

弟子たちにとって、このイエスの言葉を受け入れることは難しいことでした。弟子で兄弟のヤコブとヨハネの発言がこれを示しています。何故なら、自分は迫害されるだろうとイエスが言ったすぐ後で、彼らは栄誉ある地位につかせてほしいと願ったからです。37節「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

それに対して、イエスは「あなたがたは自分が何を求めているのかわかっていないのです。」とお答えになりました。

ヤコブとヨハネは、イエスが軍事的あるいは政治的な征服者になると思っていたようで、彼らは最も近いイエスの側近として、栄光を受けたいと思っていたのです。彼らは、イエスが新しい政府を作り、自分たちはその新しい政府で権力の座につくものと思っていたようです。

<恥と栄誉>

イエスは、弟子たちのそうした思いを叱るのではなく、真の偉大さ、真の栄光は神の御国にあることをシンプルに説明します。栄光を受け取るために、イエスはまず最初に苦しみの盃(さかずき)を飲まなくてはならないと。旧約聖書では盃は、神が備えてくださるものの例えです。

それは詩編で書かれている祝福の盃かもしれません(詩編16:5、23:5、116:13)し、それはまたイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書にあるような御怒りの盃かもしれません。(詩編75:9,イザヤ51:17-22、エレミヤ49:12、エゼキエル23:31-34)明らかに、イエスは御怒りの盃を考えておられます。すなわち、人間の罪に対する裁きです。結局、イエスの死の目的は私たちの罪の罰を受けることでした。

イエスはヤコブとヨハネに「私の飲む盃を飲むことができるか」と尋ねます。すると二人の弟子は熱心な様子で「できます」と答えました。多分彼らはイエスが何を言っているか、わからなかったのでしょう。しかし、イエスは彼らの意欲を真剣に受け止めます。実際、使徒12章2節に書かれてあるように、ヤコブは何年もたたないうちに殉教者として命を落としました。

イエスは12人の弟子に43節から45節にあるように説明しなければなりませんでした。「…あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間でひとの先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

ここで「贖いの代価として」とあるところは、英語ではransomという言葉が使われていて、普通は誰かを自由に解放するために支払われるお金、身代金のことです。旧約聖書では、神が贖(あがな)いの代価を払って、ご自分の民をエジプトの奴隷やバビロン捕囚から解放したと書かれています。(申命記7:8、イザヤ35:10)

また神は将来、贖いの代価を払って、民を罪と死から解放してくださると、預言者たちは約束しています。(詩編130:7,イザヤ59:20、ホセア13:14)イエスご自身、つまり神ご自身が贖いの代価として自らの命を私たちのために捧げてくださったのです。

私たちの社会では、王や会社の社長、金持ち、何か賞を受賞した人たちなどが褒めたたえられることがあります。でも神にとって、栄誉は、謙遜と犠牲をもって他の人々に仕えた人のものです。イエスはこのお手本です。イエスは私たちのために、私たちの恥を背負ってくださいました。イエスは私たちの恥を負ってくださって、代わりに栄誉を私たちに与えてくださいました。清められて、神の子どもとなる栄誉です。

このゆえに神はイエスに報いてくださいます。ピリピ2章9~11節には「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
父なる神に従うために、はずかしめを受けた神のひとり子に、この報い、褒美が待っているのです。

私の物語

アジア系の家庭で育つと、恥というものに対して特に敏感になると思います。私はクリスチャンになったことを、まる1年、母に話していませんでした。仏教徒のふりをし続けていたんです。
母にクリスチャンになったことをちゃんと告げなくてはと感じたのは、マルコの福音書8章38節を読んでいる時でした。イエスは言います。「わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」
クリスチャンになったことをついに母に話すと、母は「おまえは家族に恥をもたらした」と私に言い放ちました。この母の言葉は何年もの間ずっと、私を恥じ入るような気持ちにさせます。ですから、信仰を誰かに反対されたり軽蔑されたりする時に、クリスチャンであることは簡単ではないことを、よくわかっています。

確かに私は、イエスが忠告しておられた迫害を経験しました。けれども、イエスが約束してくださったご褒美も経験できました。イエスに従うことで、家族や家庭という観点からは失ったものはあるかもしれませんが、得るものも豊かにありました。イエスがそう約束してくださったように。キリストにあるお母さん、お父さん、兄弟たちを、主はたくさん私に与えてくださいました。いろいろな意味で、実の家族に対してよりもクリスチャンの家族に対して、深い親しみを感じています。
クリスチャンの家族のおかげで、健全で愛のある家族とはどんなものなのかを、私は味わうことができました。もちろん、そのような親密な家族としての関係や、共有する基盤のようなものを実の家族と持つことができなかったことは悲しいです。今もそのことで悲しい気持ちになります。でも私が得たものは、失ったものよりもはるかに大きいと心から思っています。

<結び>
今日のメッセージをまとめます。

もし私たちの神、主が迫害やはずかしめを受けるのなら、私たちが同じような苦しみを経験するとしても驚くにはあたりません。主が謙遜と犠牲をもって私たちに仕えてくださったのなら、私たちも周りの人々にどれほど精一杯仕えるべきでしょう。

イエスというお手本に従うことのご褒美はとても素晴らしいものです。それは私たちが支払ったものよりも、もっと素晴らしいものだと神は保証しておられます。

イエスはどのようにして、はずかしめの道を歩き、ついには栄誉の場所へ至ることができたのでしょうか。たとえイエスが完璧な人間だったとしても、それは必ずしもイエスにとって簡単なことではなかったと思います。

へブル12章2節で「…イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び…」とあります。

つまり、イエスは、目の前にあるはずかしめでなく、同じくそこにあった喜びに目を向けて苦しみを耐えたのです。

へブル12章1節から3節まで読みます。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこうような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」

イエスの近しい弟子であったペテロは、主イエスの死後ようやくイエスの言葉を理解しました。第一ペテロ4章14節から16節で、ペテロはこのように書いています。「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。

しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」

同じ手紙に、ペテロは教会のリーダーたちに向けて、クリスチャンとしてのリーダーシップについてこう記しています。第一ペテロ5章1節から4節「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。

あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」

神に従うことで、はずかしめを受けることがあるかもしれませんが、栄誉、ご褒美、そして喜びが降り注ぐのです。神を褒めたたえましょう。

祈りましょう

主なる神様、あなたの祝福のひとり子は、鞭(むち)打たれるために背中を向け、はずかしめを受け、唾を吐かれることから顔をそむけませんでした。私たちが、今ある苦しみを喜んで受け取ることができるようにあなたの恵みを与えてください。そして、やがて現れる栄光を確信を持って待ち望むことができますように。神と聖霊と共に世々限りなく統べ治める私たちの主イエスキリストのお名前によってお祈りします。アーメン

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