ヨハネの福音書21章15節~17節 「一切の事をご存じの方」

Pastor Kitazawa

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➀「主イエス・キリストの公生涯より」というシリーズで、新約聖書の福音書と言われている所から、神さまからのメッセージについて語ってまいりましたが・・きょうがその最終回となります。

・前回の5月の礼拝では、十字架、そして、死への勝利、復活の出来事があった後・・、
主イエスの弟子たちが北部のガリラヤ地方に集まっていた、その時の出来事について観てゆきました。

・ペテロの提案により、魚を捕るために弟子たちは舟に乗り、湖に漕ぎ出します。 しかし、彼らの努力の甲斐もなく、一晩中働いたのですが、網には一匹の魚もかからなかったのでした。

・すると、明け方近く・・岸辺に立っておられた方から、「舟の右側に網を降ろしてみなさい」と言う声がかかります。

・弟子の大方は地元の漁師でしたので、プロの魚捕りとしての経験や知識がありました。しかし、なぜか彼らは、この時、そのプライドに頼らず、岸辺からの声に素直に従い、網を舟の右側に降ろしてみたのです。

・するとおびただしい魚が網にかかりました。弟子たちは驚くと同時に、あることに気が付きます。

・そうです。岸辺に立っておられる方、その方こそ、主イエス・キリストであったということに彼らはようやく気付いたのでした。

・その時です。何を思ったのか、ペテロという弟子は、近くにあった上着を着て、そのまま水の中に飛び込み、岸辺に立つイエスさまに向かって懸命に泳ぎ出したのでした。 

・しかし麻袋のような服を着ていてはなかなか前には進みません。
その姿は、誰にも、一見、只のあわてんぼうのように見えたと思います。 しかし、よく考えてみますと・・、この弟子は、何という純真な、何という真実な心の持ち主なのでしょう・・。

➁この後、弟子たちは、主イエスを囲む様にして、朝食事に与り(あずかり)ます。

・そして、その温かい食事のときが終わったとき・・主イエスは、このペテロに向かって、このように尋ねるのでした。
→「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上に、私を愛しますか」

・ペテロの本名はシモンでした。 ペテロというのは「岩という意味」で、イエスさまが、彼につけた愛称でした。

・つまり、主イエスはここで、改まった言い方をして、彼に大事な問いかけをなさったのでした。
「ヨハネの子シモン・・あなたは、この人たち以上にわたしを愛しますか?」

・私たちは、ちょっと違和感を覚えます。 他の弟子たちもそこにいたのに、主はなぜ、あえてペテロに向かって・・「この人たち以上に私を愛しますか」と聞かれたのだろうか・・。

・ではペテロ自身は、この主イエスの問いかけをどう感じたのでしょうか・・。

・実は、彼が感じたのは、違和感ではなくて・・ 胸の痛さだったのです。

・では、ペテロの胸の痛みは、どのような痛みだったのでしょうか・・。

・この彼の胸の痛みのその原因は、後に最後の晩餐と言われることになった、あの愛餐会の時までさかのぼります。

・愛餐会が終わった後、彼らは賛美をしながら、オリーブ山に出掛けて行きました。
 気分も乗っていたのでしょう。この時、ペテロは主イエスに、こんなことを言い出します。
 「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」

・つまり、このときペテロは、わたしが一番弟子だと言わんばかりの立派な決意表明でした。

・では、このペテロの決意表明を聞いた主イエスは、どう反応をされたのでしょうか・・

・「ペテロ、よくぞ言った。人間そのくらいの気持ちがなければだめだ。かんばりなさいよ!」
 そのような反応ではありませんでした。

・主イエスは、このペテロに、こう語るのでした。
→「あなたは、きょう、今夜、鶏が2度鳴く前に、三度わたしを知らないと言います。」

③ではこの後・・実際のペテロのその行動は、どうだったのでしょうか・・。
聖書を読んでおられる皆さんは既によくご存じです。

・ペテロの立派な決意表明と・・実際にペテロがとった行動は、全然違ったのでした。

・主イエスが逮捕されると・・彼は、一応、大祭司の屋敷に侵入するところまではよかったのですが・・そこで周りの人に、「あなたはあの人の仲間ではないか」と尋ねられると・・
「あの人のことなど私は知らない」と、言い出すのでした。

・しかも一回ではなく、彼は、人々の前で三回も、はっきりと、私は「あの人のことなど知らない」 
 そう言うのでした。

・三回目に、彼がはっきりと「知らない」と言った、そのときの大きな声と、夜明けを告げる鶏のその声とが重なり合い・・あたりに響き渡りました。

・そうです。あの立派な決意表明はどこへやら・・ペテロは恥ずかしながら、主イエスを裏切ってしまったのでした。

・この胸の痛みを抱えながら、彼は数日仲間の弟子たちと生きていきましたが・・
どこか元気がありません。 何か胸の中に鉛の塊(なまりのかたまり)でもはいっているかのように、彼の心は重く沈んでいたのです。

・ですから・・大量の魚が捕れ・・、弟子たちは主イエスとの再会を果たし、大喜びであったのですが・・このペテロだけは、どこか心が沈んでいたのでした。

・しかし・・その後、食事会となったとき・・主イエスは、このペテロに、このようにお聞きになるのでした。 →「シモンあなたはこの人たち以上に私を愛しますか?」
 
・しかも、主は、この問いかけを三度も続けられるのでした。

・皆さんは、この主イエス・キリストの、ペテロへの問いかけについて、どのようなことをお感じになられるでしょうか・・。

④私は、この場面を想像すればするほど、熱く、熱く感動させられます。

・先ず、この時のペテロには、言い尽くせぬ「うしろめたさ」があったと思いますが・・

・主は、その、彼の、胸の奥につかえている、その「うしろめたさ」を、なんとか取り除き、できればそれを消去して・・ペテロが、元通りの、元気なペテロになって、再び前に向かって力強く前進して行く・・そういう者になるように、そう願い、ペテロを助けてゆかれるのでした。

・愛する皆さん。
皆さんは、神さまへの後ろめたさを感じつつ歩んでいる・・そういうご経験はないでしょうか・・

・真剣に、主イエスにお仕えしてゆこう、と考えておられる方であれば、ある程、その「うしろめたさ」を感じつつ生きてゆく・・そういうご経験が何回もあるのではないでしょうか・・。

・あの時、自分の口から、神さまの愛とは正反対の・・何か冷たい言葉を発してしまったのではないだろうか・・。あるいは、あの時、結局、神さまの望んでおられる方向とは反対の行動に自分は走ってしまったのではないだろうか・・そういう思いです。

・私の場合・、特に疲れがたまり、体調がすぐれず、横になったりするときなどに、よく、その神さまへの「後ろめたさ」に襲われます。
・たとえば・・もう何十年も昔の出来事なのに・・「亡き母に、なぜもっと優しくできなかったのだろうか・・」とか・・「なぜ父にも優しい言葉をもっとかけなかったのだろうか・・」
そういう「うしろめたさ」です。

・そうです。私たちは、生身で生きていますから・・図らずもの失敗、無意識の失敗・・無知のための失敗・・私たちには、そういう弱さがある‥それが人間とものです。

・しかも、パウロの「後ろめたさ」は、私の後ろめたさなど比べものにならないほど深刻で、重いものでした。

・彼は、十字架の刑にひかれてゆく主を助けようとしたどころか、その反対に、「私はあの人を知らない」と、3度もはっきりと口にしてしまったのでした。

・しかし、主イエス・キリストは、この、三度もはっきりと「あの人など知らない!」と言ってしまったペテロの、その、重い,重い、「うしろめたさ」を、この時、劇的に消去することに挑んだのでした。 そして、見事に消去することに成功されたのでした。

・旧約聖書詩篇34篇19節の御言葉通りでした。
→「正しい者の悩みは多い・・しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。」

⑤私が次に感動しますことは・・主イエスは、ここで、ペテロの心の奥底にある・・
「本心の本心」を引き出されたということです。

・ペテロは、三度も自らの口で、はっきりと「あの人を知らない」と言ったのですが・・それは、彼の本心だったのでしょうか・・多くの人は、「それが彼の本心だったから問題なのだ」と思うかもしれません・・。

・しかし私は、けしてそうではなかった、そう思うのです。 彼は、「イエスなんて人は知らない、」
そう言ってしまったのでしたが‥では、彼が本心そう思っていたのかといいますと・・
私は、そういうことではなかったと思うのです。

・そうではなくて・・彼はあの時、怖かった。「このままいくと、捕まって、自分も殺されてしまうに違いない・・」反射的にそう思ってしまったのです。

・つまり、彼が「あの人のことなど知らない」と言ったのは、本心と言うよりも、正確には、彼の弱さがそう言わせた、そう言うべきだと私はそう思うのです。

・ではここにいる私たち一人一人には、彼のような・・、彼と同じ、その弱さはないのでしょうか・・。

・皆さん中には、「私は彼の様には弱くはない!」そうおっしゃる方がおられるかもしれませんが・・

・私は、静かに、正直に、自分自身を見つめてみますと・・やはり、この私も、弱い者の一人でしかない・・そう思うのです。 いや、ペテロ以上に弱い人間だと思うのです。

・しかし主イエスはこの時、ペテロの、その本心の、本心を・・彼の口からお聞きになりたかったのです。 彼の口から、その彼の本心の、その奥にある本心を引き出す、そのチャンスをお与えになられたのでした。

・三度も「私を愛しますか」と聞かれたペテロは・・こう答えます。 
→15節「はい、主よ。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」

・そうです。主イエスは、彼の、この本心を、彼の口から聞きたかったのでした。
 「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」

⑥私が、この聖書個所で、感動します三つ目のことは・・主イエスが・・、繰り返し繰り返し、執拗に、ご自分を愛しているのか、ということをペテロに問い掛けていることです。

・勿論、既にお話しましたように・・主が三回も「わたしを愛しますか」と聞いておられる、その一番の理由は、ペテロの「しろめたさ」を取り除かれることにあったと思います。

・しかし、これほど「わたしを愛しますか」と執拗に、聞かれていることの意味には、もう一つ、見落としてはならない事があると感じます。

・それは他でもありません。 主イエスの愛は・・まるで、世界中にペテロしかいないかのように、このペテロ一人を見つめて、「あなたは私を愛しますか」とお聞きになっておられる・・主イエスの愛とは、このような愛であるということです。

・皆さんには、ご自分のことを愛しているのか、何回も聞いてみたい・・、そういう人物はおられるでしょうか・・もし、おられたら、それはどのような方でしょうか・・。

・まさか・・公園で会ったばかりの、見知らぬどこかのオジサンに・・「私を愛していますか」などと聞いてみたい、そういう方はここにおられないでしょう。

・ある方は、「夫に聞いてみたい」とおっしゃるでしょう・・ある方は、「我が娘に聞きたい」と
おっしゃるかもしれません・・ある方は「我妻に・・」、ある方はかわいくて仕方のない「我が孫に・・自分の事を愛しているか、どうしても聞きたい、そして、何回も何回も・・「愛しているよ」と言ってもらいたい・・そうおっしゃるのではないでしょうか・・

・そうです。主イエス・キリストがペテロに、「自分のことを愛しているのか」何回も問い掛けられた・・それは主イエスが、如何にペテロを愛しておられるのか、そのことの証であるのです。

・つまり、主イエス・キリストは、ここでペテロに、こうおっしゃっておられるのと同じです。
 「わたしはあなたを自らの命を捧げるほど愛している・・あなたは、どうですか・・あなたは、わたしを愛していますか・・」

⑦きょうの聖書個所で感動することが、もう一つあります。

・今おはなしさせていただいたように・・きょうのこの聖書個所は・・主イエスが、ペテロへの、赦し・・ペテロへの深い愛をお示しになった、という出来事なのですが・・

・主イエス・キリストの、その赦し、その愛は・・単に心の問題、気持ちの問題、精神の問題・・そういうことではありませんで・・己の罪を消去していただいた者・・信じられないほど愛されているということがわかった者が・・その先、どのようにして、生きてゆくべきなのか・・
このことについて、主イエスがここで彼に指し示しているということ・・ここに私は感動するのです。

・主イエス・キリストは、ペテロにこうおっしゃいます。→「わたしの羊を飼いなさい。」
つまり、あなたは、これから先、「わたしの愛する人たちを、愛し、励まし、力づけてあげなさい。」 「あなたならできます!」 そう言って励ましておられるわけです。

・ある人はこう思うかもしれません。 「イエスさま、そうおっしゃるのは間違っています。この男は、あなたを裏切った男ですよ。」

・しかし、救い主イエス・キリストは・・大失敗をし・・心からそれを悔い・・そのことを主イエスのご愛により、赦された、という、そのことを、心から信じているペテロに、「私の羊を飼いなさい」と、改めてそうおっしゃるのでした。

⑧では、このペテロへの赦しと新しい使命・・これは、彼にのみ語られていることなのでしょうか・・私はそうは思いません。

・そうです。 主は、きょうのこの礼拝で、ここにいる、私たち一人一人に、このように問い掛けておられるのです。

・「あなたは、わたしを愛しますか・・」
 「あなたは、わたしを愛しますか・・」
 「あなたは、わたしを愛しますか・・」

・「私の羊を飼いなさい。」  あなたなら、私の群れを愛し・・わたしの群れに希望を語り・・わたしの群れを励まし、勇気づけ、 わたしの群れを助け・・いつか、主によって集められる、かの日に向かって、共に前進してゆきなさい。

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