「神の形に造られる」マルコ12章13節~12章17節

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私の二人の娘を見て、「娘さんはお父さんにそっくりですね」とか「お母さんにそっくりですね」とかよく言われます。

皆さんもきっと、両親のどちらかや兄弟の誰かに似てるねと言われたことがあるんじゃないですか。でももし、「あなたを見てると本当にイエスさまのことが思い浮かびます」と言われたら、それは本当に素晴らしいほめ言葉ですよね。キリスト、イエスのようになることは、クリスチャンにとってのゴールですから。私たちはイエスが神のひとり子だと信じています。それはつまり、私たちの目標は神に似ること、神の姿を映し出すことだということですね。

「私たちは神の形に造られた」が今日のテーマです。引き続きマルコの福音書を読んでいき、神の形について考えましょう。まず祈りましょう。

(マルコの福音書12章13節~17節を読む)

<カイザルの形、神の形>

今日の箇所で、ユダヤ人の宗教指導者たちは「カイザルに税を納めるべきか否か」という質問をして、イエスを陥れようとしました。

もしイエスが「税を納めるべき」と答えるなら、ローマによる支配に憤慨していた民衆からの人気はがた落ちしてしまうでしょう。そしてもし、イエスが「納めるべきでない」と答えるなら、イエスはローマ政府に対する反逆者だという口実になります。ユダヤ人の宗教指導者たちにとってはどちらに転んでも、イエスを陥れ、逮捕させるのに好都合です。

イエスはローマ通貨を指さし、次のような質問をしました。「これは誰の肖像ですか。」コインにはティベリウス皇帝が描かれていました。イエスは「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と言いました。

つまり、コインに皇帝が描かれているのなら、それは正当に皇帝のものだ。だからローマ政府の下で暮らす人々は税を納めるべきだ。しかし、私たちが礼拝を捧げるべき方は、人間の王ではなくて、世界をお造りになった王である神だと断言しました。

この聖書箇所は、「クリスチャンは国の政府に対してどのような態度を取るべきか」という問いに対する一つの解答として、教会でよく語られますが、今日は「神の形を持つとはどういうことか」について考えたいと思います。

<私たちは神の形に造られた>

聖書の最初に、私たちが神の形に造られたことが書かれています。創世記1章26-27節を読みましょう

「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

さて、神の形に造られたということはどういう意味でしょうか。五つ、お話ししたいと思います。

  • 神の家族になる
  • 神に似る
  • 地球、地上のものを大切に管理する
  • 全ての人間には等しく価値と尊厳がある
  • 私たちは神のもの

この五つについて説明したいと思います。そして、最後に私たちが更に神に似るためにはどうしたらよいかについてもお話ししたいと思います。

  • 神の家族になる

1点目は、私たちはもともと神の家族となるために造られたということです。神の形に造られたということは、神と家族の関係であるということです。私たちが神を「天の父なる神さま」と呼んでもよいとイエスは言っています。私たちは一人ではありません。子どもである私たちを大切にしてくださる、よき父がいます。

  • 神に似る

2点目は、私たちはもともと神に似せて造られたということです。私たちが両親や兄弟に似ているように、私たちは神の特徴に似るように造られているのです。例えば、神さまの特徴の一つは造り主であることで、神の創造性は私たちの中にあります。素晴らしいもの、美しいもの、役に立つもの、独創性にあふれたものなどを神のように造りたいという願望が私たちの中にはあると思います。

  • 地球、地上にあるものを大切に管理する

3点目は、神の創造物、地球、地上にある全てものを、私たちは大切に管理する使命が与えられているということです。

創世記には、神は人間に地上を「支配する」役目を与えたと書かれています。「支配」という言葉は、他者を従わす権力を意味するだけではありません。神が私たちに託してくださったこの世界、地球を大切に管理すること、養うことを意味しています。この世界、地球を所有しているのは私たちではありません。私たちは神が所有しているものを管理する執事のような立場に過ぎないのです。

  • 全ての人間には等しく価値と尊厳がある

人々を愛することも、この地にあるものを管理することです。そして神の形に造られた私たち全ての人間に、価値と尊厳があります。これが4点目です。神の目からは私たちの価値は皆等しいです。性別も民族も経済的な立場も国籍も関係ありません。

聖書が扱う地域やその近隣地域の古代宗教では、神の形とされていたのは、あなたや私のような普通の人ではなくて、王や支配者でした。全ての人間が神の形に造られ、等しい価値を持っているという考えは、間違いなく聖書の教えから来ています。それは国連の世界人権宣言の基本となる考えです。

19世紀の哲学者フリードリヒ・ニーチェによると、多くのヨーロッパの思想家たちはキリスト教を否定したけれども、人権の考えには賛同していたということです。つまり、彼らはクリスチャンではなかったけれども、キリスト教信仰が独自に持つ倫理観は認めていたのです。

お互いに親切にし合うという考えは、もちろんキリスト教だけに見られるのではありません。しかし、良い行いをするための理由やモチベーションはキリスト教独自のものです。神がまず私たちを愛してくださったので、私たちは愛し合います。神のご性質が愛であり、神が私たちを尊いと言い、私たちを愛してくださる。世界の主な宗教のもともとの教えには、この考えは見当たりません。

  • 私たちは神のもの

5点目は、私たちが神の形に造られたということは、私たちは神のものだということです。イエスは、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と言いました。神の形をしている私たちは、神のものです。私たちはお金を政府に納めますが、神に喜ばれる生き方をすることで、私たちは生涯を神にお捧げします。神に自分を捧げるただ一つの方法は、もっと神に似るように、神に自分を作り変えていただくことです。

<神は私たちを作り変えて、神の似姿に近付けたいと望んでおられる>

最初の人間アダムが神に従わなかった時に、神の似姿をしたアダムの性質は損なわれてしまいました。人間は美しい神の姿に似ていたのに、今では神の姿を映す鏡は壊れてしまいました。私たちは神の善や栄光を十分に反映しておらず、映しているのはほんのわずかです。

ですから、人間は善にも悪にもなりえます。それでこの世界には、たくさんの良いものもあるけれども、戦争や貧困、虐待もあります。

イエスは人間の姿になって、神がどのような方かを教えるために来られました。アダムとは違い、イエスは死に至るまで父に従いました。ですからイエスは、汚れのない完全な神の姿であり(コロサイ1:15、へブル1:3)、神がどんなお方か映し出すことができる、たった一人の方です。イエスは弟子たちに、「…わたしを見た者は、父を見たのです。…」と言いました(ヨハネ14:9)

イエスの弟子のように、私たちもイエスを真似ていくうちに、神の姿が映し出されます。イエスが癒しや平和、愛、和解をもたらしてくださったように、私たちもそうすることが求められます。

どうしたらそれができるでしょうか。まず、イエスに私たちの救い主、そして主になっていただかなければなりません。イエスが神のひとり子であるということを受け入れて、ようやく私たちはイエスの弟子となり、イエスを真似ることができます。イエスはご自分が神のひとり子だと断言して、私たちに代わって罪の罰を受けてくださいました。我が救い主、我が主としてイエスを受け入れる時、神の霊が私たちの中に宿り、私たちを形作っていくのです。

第二に、私たちは仲間の弟子たちのコミュニティの中で生きるべきです。自分だけでイエスの弟子にはなれません。私たちは、人を助けたり、人に助けられたりしてコミュニティの中で生きるように造られています。神もひとりぼっちではありません。神は一つですが、父なる神、神のひとり子、聖霊の3つの位格(いかく)からなるコミュニティで存在します。

教会は一つのコミュニティの形です。教会で神のみ言葉を聞いたり、聖餐式にあずかることで、私たちは霊的に養われ、神との歩みの中で成長する恵みが与えられます。

私たちは、人を助けたり、助けられたりする機会があります。教会というコミュニティにいることで、神がどなたか、私たちはどのようになるべきか、教えられます。

三番目に、日曜日だけではなくて、平日も毎日、神のみ言葉を聞き、神と話すことが大切です。神の似姿になっていくための霊的なトレーニングがあります。それは聖書を読むことや祈ることもそうですが、例えば神との交わりのために一人になる時間や休息を取ること、奉仕をすること、困っている人のためにお金や時間を捧げること, また夢中になりすぎて心を奪われている物事から離れることもそうです。

<霊的な習慣は神の似姿に成長するために欠かせない>

先月、パク先生は、1週間、1か月間、聖書をもっと頻繁に読んでみてくださいと勧めておられましたね。韓国語や英語を教えているパク先生は、月にたった1回か2回しか勉強しない生徒は数年続けても上達が見られないのに対して、毎日勉強する熱心な生徒は飛躍的に力が伸びるとおっしゃっていました。信仰も同じです。

スポーツも同じで、例えば私がやっている柔道では、打ち込みという動きを練習しなくてはなりません。その打ち込みというのは、相手を投げるのに役立つ動きです。柔道の先生は、一度の稽古で打ち込みの動きを何百回も練習しなさいと、時々言います。それはとても退屈な練習です。でも先生が言うには、この打ち込みを練習しなければ、自由にわざを掛け合う乱取りという稽古でも、また試合でも、うまくいかないそうです。私は週に二回しか稽古に行けないので、私のレベルはまだとても低いです。対して、週に何度も稽古に来ている高校生たちは、私よりも体がずっと細くて軽いんですが、私は試合で彼らにはかないません。

ありがたいことに、霊的なトレーニングは柔道の打ち込み稽古ほど退屈ではありません。ただ何年もたつと、聖書を読み、祈ることに対して信仰の情熱を失うことはよくあることです。でも、これらは私たちが神の形に練られていくために必要なルーティーンなのです。

習慣は私たちをすぐに変えるものではなく、長い時間がかかることは覚えておきましょう。神によって変えられていくには我慢強さが必要です。アメリカの有名な牧師であるユージーン・ピーターソンが言うように、神に変えられていくには、「同じ方向で長い期間従っていくこと」が必要です。ですから、すぐに変化が起こらなくても、がっかりしないようにしてください。十分なトレーニングや栄養によって、何か月も何年もかけて体の筋肉がつくように、イエスに似ていくことはゆっくりと時間のかかるプロセスです。

聖書を読むというような霊的な習慣だけでは、私たちは変われません。霊的な習慣に聖霊が働いてくださることで、私たちは変えられます。テレビやSNSやニュース、ゲーム、買い物などに心を奪われて、聖書を読まない生活をしていて、私たちは変わることができますか?

<結び>

自分に問いかけてみてください。自分は本当にイエスのようになりたいのか? 自分が神の姿を映し出すことによって、家族や友だち、仕事の同僚やお客さん、教えている生徒たちにイエスがどんな方かを垣間見てほしい、イエスのことを知ってほしいと願っていますか。

最後に、娘の幼稚園の近くに住むおじいさんの話をして終わりたいと思います。先月話したんですが、そのおじいさんは幼稚園の近くを歩く人に「右歩け!」と言って怒鳴るんです。私もいきなり怒鳴られて、腹立たしく、とても嫌な思いをして、また会ったらどう対応したらよいのかなと、ずっと考えていました。それである時、そのおじいさんが私の方に歩いて来るのに出くわした時に、私はキッと鋭く彼をにらんだんです。そうしたら、そのおじいさんは目を伏せて、口をつぐみました。人に怒鳴るのはよくないことだと、そのおじいさんに伝えることができたと感じて、私は本当にすっきりした気分になりました。でも同時に、自分がそのおじいさんに対して何の思いやりもなかったことにも気付きました。その後、そのおじいさんの家を通るたびに、私はこう祈りました。「神様、私たちに罪を犯す者を私たちが赦すように、私たちの罪をお赦しください。神さま、こんな老人になってしまうのがどんな感じなのか、私にはわかりませんが、彼は幸せではないように見えます。どうか彼を憐れんでください」と。祈れば祈るほど、この老人に対する嫌な思いは消えていきました。おそらく、祈り続けていくうちに聖霊が私の心の中で働き、私を変えてくださったのでしょう。

私たちの心を神におゆだねしましょう。そうすれば神は私たちを変えてくださいます。ほんの少しずつですが、世界をも変えてくださるかもしれません。

祈りましょう

神様、祝福されたあなたのひとり子はこの世界に来てくださり、悪魔のわざを打ち砕きました。そして私たちは神の子どもとされ、永遠の命が与えられました。この望みを胸に、清くあられる主のように、自らを清められるように導いてください。

主が力と栄光に包まれ、再び来られる時には、栄光に満ちた永遠の御国で、私たちを主の似姿へと変えてくださいますように。神、聖霊と共に御国を治める主、イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン

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