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今日は、ヨエル書を取り上げます。今日のテーマは、主の日です。このテーマを学ぶことで、終末において信仰者がどう生きるべきか考えてみたいと思います。まず、主の日の理解ですが、ヨエルにおける主の日は、神の民や、また諸国民が裁かれる日として描かれています。ちょうど1章4節にあるように、いなごの群れが豊かな収穫を一瞬にして奪い、荒廃した状況を生み出す姿を例えとして用いています。そのような厳しい荒廃の現実が主の日には起こるのです。今日は1章と2章を取り上げて、主の日の神の裁きの厳しさと、悔い改める者に注がれる祝福を学んでみようと思います。2章12節からは、回復と祝福、そして聖霊の油注ぎの幻が明らかにされているからです。厳しい裁きの日であっても、悔い改めて生きる者には豊かな祝福が注がれるのです。
1章1節には、「ペトエルの子ヨエルにあった主のことば。」とあります。ヨエルとは、「ヤーウェは神」との意味を持つ名前です。ペトエルの子ヨエルとありますが、この表現はここ以外に他に言及がなく、いつの時代の預言者なのか、それはよくは分かりません。ヨエル書全体の内容から推定して、紀元前800年ごろ生きた南ユダ国のヨアシュ王の時期ではないかと思われます。ヨエルが見た幻は、数え切れないいなごの侵入の幻です。4節には、「かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。」とあります。全ての緑が食べられ、荒廃しきってしまった大地の姿が思い浮かびます。それは、ちょうど戦争の後の焼け野原になった大地、荒れ果てた情景とよく似ています。それはいなごの被害だけではなく、6節には、「一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。」とありますので、国の滅亡にも言及しています。それは終末に起こるであろう国同士の戦争、その結果起こりえる荒廃した大地、そのような厳しさを表しています。
11節には、「農夫たちよ。恥を見よ。ぶどう作りたちよ。泣きわめけ。小麦と大麦のために。畑の刈り入れがなくなったからだ。」とあり、12節には、「ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、ざくろ、なつめやし、りんご、あらゆる野の木々は枯れた。人の子らから喜びが消えうせた。」とあります。荒廃や失望が全地を覆っています。そして13節には、「祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒も、あなたがたの神の宮から退けられたからだ。」とあります。この荒廃は、人々の心にも及んで参ります。礼拝が妨げられて持つことができない、そのような厳しい現実です。15節には、「あぁ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。」とあります。主の日とは、神が神の民、また諸国民を裁かれる日です。礼拝も妨げられ、ただただ荒廃した大地を見上げ、神の裁きの厳しさに驚かされる幻です。
2章2節には、「やみと暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。」とあります。3節では、「彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは1つもない。」とあります。エデンの園が、荒れ果てた荒野となるのです。神の刑罰の厳しさです。その厳しさは地上だけではなく、10節では、「その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。」とあるのです。主の日、神の刑罰の日は、地上だけではなく、天体にも異常が起こる。そのような全世界規模の災害の日となるのです。そして、この裁きは、11節では、「主は、ご自身の軍勢の先頭に立って、声を上げられる。」とありますから、神ご自身が先頭に立ってなされる裁きの日であることが強調されています。悪者が裁かれるその日は必ず訪れるのです。
しかし、同時に、主の日は、私たち一人一人があわれみ深い神に立ち返る日でもあるのです。2章12節からは、主の日に起こるであろう神の招き、そして悔い改める者への繁栄の約束が書かれているのです。12節、13節では、「しかし今、主の御告げ、心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。」とあります。厳しい現実に直面して、信仰者は主に立ち返るのです。そして、神の恵みにより頼んで生きるのです。16節の最初には、「民を集め、集会を招集せよ。」とあります。続く17節の前半には、「主に仕える祭司たちは、神殿の玄関の間と祭壇との間で、泣いて言え。主よ。あなたの民をあわれんでください。」とあるのです。祭司は涙を流しながら、神の前にあわれみを求める祈りを捧げています。その祈りに神は答えられるのです。18節で、「主はご自身の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。」とあります。19節には、「主は民に答えて仰せられた。今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたは、それで満足する。わたしは、二度とあなたがたを、諸国の民の間で、そしりとしない。」とあります。涙を流し、神に立ち返るための祈りに神は豊かに答えるのです。これも主の日に起こる神の御業です。決して荒廃や失敗で信仰者が人生を終えるのではないのです。
21節には、「地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ。」とあるのです。続く22節で、自然が回復し、豊かな実りをもたらすとあります。23節には、「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨と降らせてくださるからだ。」とあります。十字架の神の恵みの故に、私たちはイエス・キリストを信じて義とされていますが、神は信仰者を義なる者として受け入れ、救ってくださるのです。救いの故に楽しみ喜ぶ、これも終末の特徴の1つです。25節の最後に、「わたしはあなたがたに償おう。」とあります。26節の前半には、「あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださった。」とあるのです。27節には、「あなたがたは、イスラエルの真中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」とあるのです。確かな回復が起こることも、そして繁栄の約束も終末の預言の中には含まれているのです。回復が起こり、もう一度繁栄が起こるのです。
終末のもう一つの特色は、神が聖霊を注ぐと言う約束です。2章28、29節には、「その後に、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」とあります。聖霊の油注ぎ、それも1部の人だけではありません。すべての信仰者の上に注がれるのです。そして、夢を、また幻を見るとあります。このことも終末の日、主が起こると約束されたのです。イエスの十字架での死を見て、悲しんでいた弟子たちは、小さな部屋で集まり、聖霊が注がれることを祈り求めていたのです。ペンテコステの日に、その弟子たちの上に聖霊が注がれ、教会が生まれていったのです。これは教会のスタートです。ヨエルは、その後にとの表現で、終末の祝福された時代に聖霊が注がれて、多くの人が幻を見ると預言をしています。終末の祝福された時代、それは新約聖書の時代を示しています。聖霊が注がれたその姿をイエスの弟子のペテロは見て、この箇所から宣教のメッセージを語りました。それが使途の働き2章14節から21節にあります。彼らは聖霊の導きの中で、「罪を悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(2:38)と大胆に語り出しました。その日、3000人ほどが弟子に加えられて教会がスタートしたのです。
主イエスがもう一度戻って来られる日、新たな主の日を私たちは待ち望んでいます。主イエスは正しい裁きをなされる方です。ある人には、イエスの再臨の日は恐れの日となることでしょう。しかし、私たち信仰者は、希望を持って、主の再臨を待ち望みたいと思っています。永遠の命の約束を持つ者にとっては、主の日は希望の日であるからです。
「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」
「しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。」
ペテロの第二の手紙 3:10と13節 (口語訳)
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