「エルサレムは聖所となり」 ヨエル書3章17節

Pastor Ino

(音声メッセージは日曜礼拝後にアップする予定です。)

先週の礼拝で、教団の代表である落合牧師を招くことができました。教団の中でも新しい風が吹いています。皆さんも感じられたことでしょう。落合牧師から多くの励ましが与えられて感謝です。私たち夫婦は、先週は1週間の休みをいただいて、スペインのバルセロナに行って参りました。この街はガウディの街として知られ、サクラダ・ファミリア教会が街の中心に立っています。4つの塔、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの塔の真ん中にイエスの塔が今建てられています。このイエスの塔は来年2026年に完成する予定です。ちょうどガウディがなくなって、100年目になる年に教会の中心の塔は完成の予定です。イエスのメッセージ、福音のメッセージがこの教会を通して世界に伝えられている。そのことを嬉しく思います。また思いがけず、バルセロナで日本人のクリスチャンの方々との交わりが与えられました。定期的に聖書を学び、交わりを持っている日本人のグループがあります。そのリーダーの方のご協力で現地の教会の日曜礼拝に参加できました。国は違っても、聖書を学び、教会に集い、お互いに信仰を励ましている、そのような人たちに出会えたことを本当に嬉しく思います。もう一度、私たちはキリストの福音を信じ、伝道の思いを持って、この世界でしっかりとした人生を築いていきたいと思います。

今日は、もう一度ヨエル書を取り上げます。特に3章を取り上げてみます。今日のテーマは、前回同様に主の日です。このテーマを学ぶことで、終末において信仰者がどう生きるべきか考えてみたいと思います。前回指摘しましたが、ヨエルにおける主の日は、神の民や、また諸国民が裁かれる日として描かれています。それだけでなく、悔い改めて生きる者への祝福も約束されています。そして聖霊の油注ぎの幻が明らかにされています。厳しい裁きの日であっても、悔い改めて生きる者には豊かな祝福が注がれる日でもあるのです。

3章1,2節には、「見よ、わたしがユダとエルサレムとの幸福をもとに返すその日、その時、 わたしは万国の民を集めて、これをヨシャパテの谷に携えくだり、その所でわが民、わが嗣業であるイスラエルのために彼らをさばく。彼らがわが民を諸国民のうちに散らして、わたしの地を分かち取ったからである。」とあります。主の日をここでは、ユダとエルサレムとの幸福をもとに返すその日と表現しています。神の正しい裁きが聖徒たちを迫害してきた多くの民に及ぶのです。ヨシャパテとは、「主は裁かれた」との意味であり、エルサレムとオリーブ山の間にあるギデロンの谷を指すと思われます。神の裁きがこの所で諸国の民に下されるのです。ここで取り上げられている裁きの大きな理由は、人身売買の罪です。4節にある、ツロとシドンは、地中海に面した港町です。ここから多くの貧しいユダヤの民が奴隷として売られていたのです。主の裁きは、ツロとシドンの民は、主の裁きに合い、自分たちがしてきたようにされると預言されています。6節から8節を読んでみましょう。

「見よ、わたしがユダとエルサレムとの幸福をもとに返すその日、その時、 またユダの人々とエルサレムの人々とをギリシヤびとに売って、その本国から遠く離れさせたからである。 見よ、わたしはおまえたちが売ったその所から彼らを起して、おまえたちのおこないの報復をおまえたちの頭上にこさせる。 わたしはおまえたちのむすこ娘たちをユダの人々の手に売る。彼らはこれを遠い国びとであるシバびとに売ると、主は言われる」。とあります。自分達がしてきたように、ここでは彼らはされるのです。

12節から15節には、このように書かれています。「もろもろの国民をふるい立たせ、 ヨシャパテの谷にのぼらせよ。 わたしはそこに座して、 周囲のすべての国民をさばく。 かまを入れよ、作物は熟した。 来て踏め、 酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。 彼らの悪が大きいからだ。 群衆また群衆は、さばきの谷におる。 主の日がさばきの谷に近いからである。 日も月も暗くなり、星もその光を失う。」と。主はもろもろの国民を裁かれるのです。主の日は、全世界規模の神の裁きの日であることが明らかにされています。

皆さん、今の世界の姿を見てください。ヨーロッパでもアフリカでもアジアでも、いろいろな所で独裁者が暴れまわっています。悲しいニュースを私たちは毎日のように耳にします。日本でもかつて戦争に多くの者がかりだされ、自由が奪われた時代があったのです。信仰者が迫害され、暴力を振るわれ、亡くなる方も多く起こったのです。ヨエルは、ここで、「もろもろの国民をふるい立たせ、 ヨシャパテの谷にのぼらせよ。 わたしはそこに座して、 周囲のすべての国民をさばく。」と警告しているのです。

17,18節には、「そこであなたがたは知るであろう、 わたしはあなたがたの神、主であって、 わが聖なる山シオンに住むことを。 エルサレムは聖所となり、 他国人は重ねてその中を通ることがない。 その日もろもろの山にうまい酒がしたたり、 もろもろの丘は乳を流し、 ユダのすべての川は水を流す。 泉は主の家から出て、 シッテムの谷を潤す。」とあります。主の日に神は全ての民を裁くだけではなく、エルサレムの回復の預言がなされています。真の神がお住まいになるエルサレムが実現するのです。20節のみ言葉と、黙示録21章1-4節のみ言葉を比べて読んでみます。旧約の預言が新約聖書でさらに明らかにされています。

「しかしユダは永遠に人の住む所となり、 エルサレムは世々に保つ。」(20節)

「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。」(黙示録21章1-4節)

ここでは新しいエルサレムと表現されており、地上のエルサレムではありません。ペテロはこの世は火で焼かれる、別訳では精錬されると預言しています。新しい天と新しい地、聖なる都、新しいエルサレムがいつか訪れるのです。私たちも信仰を持って新しいエルサレムを待ち望む者でありたいと思います。ペテロの第二の手紙 3章10と13節には、「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」「しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。」とあるからです。

前回も述べましたが、主イエスがもう一度戻って来られる日、主の日を私たちは待ち望んでいます。主イエスは正しい裁きをなされる方です。ある人には、イエスの再臨の日は恐れの日となることでしょう。しかし、私たち信仰者は、希望を持って、主の再臨を待ち望むことができるのです。永遠の命の約束を持つ者にとっては、主の日は希望の日であるからです。

ガウディが情熱を捧げて建築を始めたサクラダ・ファミリア教会(正式名は、聖家族贖罪教会)の入口にはキリストの誕生の彫刻があります。そして出口にはイエスの十字架のストリーを伝える彫刻があります。教会堂を支えている4本の柱はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの柱です。イエスの福音がこの教会からあふれています。彼は、道路で躓き、路面電車にひかれて3日後に73才で亡くなったそうです。しかし、彼が信じた福音は変わりません。ルターは、人は神と永遠を共にするために創造されたと信じ、福音を伝えました。私たちも、イエスを信じる者は永遠の命を持つ、その信仰を固く握ってイエスの再臨の日、主の日を待ち望んでまいりましょう。

 

 

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