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この宣教メッセージを準備していたら、私のマレーシアの母教会の高齢の男性信者の方が亡くなったことを知りました。それほど親しいというわけではなかったのですが、彼とその奥さんは、私がマレーシアに帰国する度に家での食事に招いてくれました。4,50年も一緒に暮らした、愛する伴侶を亡くすことがどんなに辛いことか、想像できません。天国で再会できると知っていても、悲しみは深く、決して消え去るものではないと思います。少なくとも地上で生きている間は。
このことを考えつつ、死後の命と蘇りについて書かれている今日のマルコの福音書の箇所を読んでいきましょう。
(マルコの福音書12章18節~27節を読む)
<死後の命がある>
サドカイ派は祭司や貴族階級の家系、商人などのグループでした。つまり、彼らは概して高い教育を受けた、裕福な人々でした。彼らの宗教的信条はユダヤ人の中で保守的なもので、トーラーのみを聖書と見なしていました。トーラーとは旧約聖書の最初の5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)のことです。トーラーの中には蘇りを認めるような記述がなかったので、サドカイ派は未来に人が蘇ることなどないと考えていました。
旧約聖書の中で、死後の命と未来の蘇りを支持する二つの節があります。それはイザヤ書26章19節とダニエル書12章2節です。でもサドカイ派はイザヤ書とダニエル書は聖書ではないと考えていました。サドカイ派は死後の命と蘇りだけでなく、死んだ後の魂や御使いの存在も否定していました。
蘇りというようなことがあったとしても、それは単に死人が蘇生したに過ぎないとサドカイ派は考えていました。また、もし死後の命があるとしても、地上で生きている延長のようなものではないかと思っていました。
それでイエスは、マルコ12章24節で「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」、25節で「人が死人の中からよみがえるときには、めとることも。とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」と言いました。
つまりイエスの意味することは、蘇りはあり、死んだ後に命がある。そして死後の命は想像とは全く違ったものだ、ということです。イエスは、地上の命と死後の命との違いを、結婚を例に挙げて説明しています。死後の世界では、私たちは御使いがそうであるように、結婚しないし、結婚する必要もないとイエスは言っています。
そして26節27節でイエスはこう言います。「それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
ここでイエスは聖書が死後の命の存在を認めていると言うために、出エジプト記3章6節を引用しました。サドカイ派は、トーラーの一部である出エジプト記は聖書と認めていました。
しかしこの引用がどうして死後の命の考えを認めているといえるのでしょうか。その論理はこうです。神はご自分のことをアブラハム、イサク、ヤコブの神と呼んだ。彼らはとっくに死んだことになっている。しかし、誰々の神というならば、その誰々は神とつながりを今持っているということだ。だからアブラハムもイサクもヤコブも死んでいるのではなく、生きているのだという論理です。この論理はちょっと奇妙に感じるかもしれませんが、マルコ12章28節によると、イエスの話を聞いていた人は、このイエスの答えは巧みな答えだったと思ったようです。
<蘇りを信じることはクリスチャンにとって必要>
聖書箇所に出てくる死後の命と蘇りについてもっと話しましょう。死後の命をこの肉体が死んだ後の存在として考えると、それに対して聖書が言う蘇りは、肉体が死んだ後に、神が私たちを生き返らせることです。
アブラハム、イサク、ヤコブはずっと昔に死にましたが、彼らの魂は神のご臨在の中で生き続けています。彼らは死後の命にあずかっているところですが、まだ蘇ってはいません。
イエスを信じている人は死んだら神がいる天国に行くと、聖書は約束しています。(ルカ23:43、ヨハネ14:2-6)しかし、天国は一時的に立ち寄る場所に過ぎません。主にあって死んだ人々は天国で終わりの時が来るのを待っています。そこへイエスは天と地を一つにするために再び戻って来られます。
そして新しい天と地で、私たちは、イエスが十字架の上で死んでから三日目に蘇った時の体のような、新しい体を持って蘇ります。クリスチャンの死後の人生には二つのステップがあります。一つ目は天国に最初に入る時、そして二つ目は体が蘇える時です。
実際、新約聖書には死後に天国に行くことよりも、蘇りのことがもっと多く書かれています。何故なら、蘇りはクリスチャンの信仰の大事な部分だからです。パウロが第一コリント15章12節から14節で言っているように「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」(第一コリント15:12-14)
つまり、イエスが死から蘇らなかったというなら、イエスは神のひとり子ではない。そうなら、クリスチャンは偽りを信じ、時間を無駄にしていることになる。
でももし本当にイエスが蘇ったとしたら。イエスの蘇りが真実だったらどうですか。私が思うには、イエスの蘇りが真実だという最も確かな証拠は、それが人々の人生を変える力があったことです。イエスの最初の弟子たちは教育をあまり受けていない労働者階級の人たちで、権力者たちがイエスを逮捕し、十字架につけた後は逃げ出してしまいました。しかしその後、蘇りのイエスに会った彼らは驚くほどの変化を遂げていました。一変した彼らは宗教学者や王たちの前で、イエスのことを大胆に語りました。
先程使徒パウロによって書かれた聖書箇所を引用しましたが、彼はもともと初期のクリスチャンを逮捕し牢屋にぶち込んでいたような人物でした。しかし、蘇りのイエスに個人的に出会ったパウロは、福音のために命をかけていろいろな所へ旅してイエスのことを伝え、最終的には命を落とすほどに変わりました。
イエスの蘇りは間違っていたと撤回して、生き延びるチャンスが与えられても、イエスの弟子やパウロのような初期のクリスチャンたちは拷問を受け、非常に恐ろしい方法で処刑されることを選んだのです。作り話のために人は死にません。彼らは迫害を耐え忍びました。何故なら蘇りは真実で、イエスが死から蘇ったことはその証拠だと彼らは確信を持ったからです。
もしも皆さんが蘇りや奇蹟やキリスト教を信じられなくても、イエスを信じた人々の心を動かしたものは一体何だったのか、彼らのモチベーションは何だったのか、是非考えてみてほしいです。
ところでもしイエスやキリスト教の信仰について何か質問があったら、私やここにいる教会の方たちが喜んで答えるので、遠慮なく尋ねてください。
さて、何故クリスチャンの信仰が未来に向かう勇気を与えられるかについて、三つお話しします。
<クリスチャンは死を恐れる必要がない>
第一に、クリスチャンは死を恐れる必要はありません。死は、クリスチャンにとって一巻の終わりでありません。死は最後のお別れではないのです。私たちクリスチャンにとって、死は単に人生の1章から2章へページが変わることに過ぎません。
イエスはヨハネ11章25節で「…わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言っています。イエスが蘇ったように、私たちも蘇るのです。ヨハネ6章40節でイエスは「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」と約束しています。
イエスから命を受け取るために、私たちはお金を一銭も払わなくてもいいし、何か一つでもよい行いをしなければいけないわけでもありません。イエスが十字架で死んでくださった時に、イエスは私たちの命のための代価をすでに支払ってくださったからです。イエスは私たちに義を与えてくださいました。だから私たちは、神が私たちを完全に受け入れてくださると信じつつ神の裁きの前に立つことができます。
(今日、賛美の時に歌った)「私の望みは主イエスだけにある」という賛美歌が私は大好きです。英語の歌詞には和訳すると「全ての罪は許され、死を恐れることもない これがわたしのうちにあるキリストの力 最初の産声(うぶごえ)から最後の一息まで イエスは私の生涯を導いてくださる」という歌詞があって、本当に心に響きます。
<人生を恐れる必要はない>
私たちはクリスチャンとして両極端の間で生きています。人生をガラッと変えられたり奇蹟を経験して、神の蘇りの力が働いているのを感じる一方で、痛み、病(やまい)、死、悪は人生からなくなりません。イエスの死と蘇りよって、この世に御国がもたらされましたが、それはまだ未完成です。
将来、イエスが再び来られる時には、イエスの御国が天にあるように、この地に完全に到来します。その日には私たちは新しい体が与えられます。しかしそれだけではありません。復活とは神が罪ある壊れた世界を癒し、一新することです。罪がある壊れたままの世界、悲しみがあり、悪が蔓延しているような世界なら、不死の体と魂を持ったって何の意味もありません。
私たちが将来蘇るならば、地上での人生を恐れる必要はありません。これが第二のポイントです。何故かというと、私たちが今抱える問題や罪深いこの世界は、有効期限があって、いつか終わりを迎えるということです。聖書の最後にあるヨハネの黙示録には、新しい天と地で、神が「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」」(ヨハネの黙示録21:4)と書かれています。
先週、私はクリスチャンのために書かれた育児本を読みました。作者は神の新しい世界を想像して、このように書いていました。「(新しい世界では)子どもにアレルギーや学習障害があっても、心配しなくていいのです。何故なら子どもたちはよくなっているから。あなたの親はもう死にません。あなたと一緒にいます。あなたは結婚相手との対立に悩まされる必要はありません。あなたの仕事には意味があり、あなたはそれを知っています。 体は動くでしょう。 友情というものは多分あって、あなたは孤独ではありません。来(きた)るべき御国はこんな感じかもしれません。」(Habits of the Household by Justin Earlyから引用)
ですから、もし今人生が大変だと感じることがあっても、この世の終わりではないですし、結局、最後は大丈夫で、終わりのない苦しみが永遠に続くわけではありません。最後、神の時に、苦しみを終わらせるのは神であられます。
<私たちは一人ではありません>
第三に、クリスチャンとして、たった一人で将来に立ち向かうわけではありません。私たちには神の家族の兄弟姉妹がいます。そして、いつか直接会える神ご自身がおられます。
ある予測では、2050年までに日本で、高齢者のみの世帯が20パーセントに上るそうですが、神の家族の素晴らしさを日本人に気付いてほしいと思います。配偶者や子どもがいなくても、神の家族がいます。
日本では、家族と家族ではない人との人間関係の差が大きいと感じます。神がそのギャップを埋めて、家族ではない人とも家族のように接することができるよう導いてくださるよう祈ります。
日本の人々に、神の愛がただの抽象的な神学ではなくて、もっとリアルで触ることができて、目に見えて、測れるものであることを私たちクリスチャンが示し、証できるようにも祈ります。
蘇りのイエスが弟子の前から去ってしまう前に、弟子たちの人生にイエスの御臨在がいつもあるように、イエスは聖霊を送ると約束してくださいました。マタイの福音書28章20節でイエスは「…見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言っています。
結婚は地上の人生での一時的な関係に過ぎませんが、神との関係は永遠に続きます。実際、神は愛に満ちたご自身のお姿を映し出すものとして、結婚をお創りになりました。幸せな結婚をしている方は、今の結婚相手と天国で再び結ばれないのは残念と思うかもしれません。
しかし、二人の人間の結婚というものは絵のようなものにすぎません。その絵は本物ではありません。本物を映し出したものでしかありません。本物は何かというと、私たちと神との関係です。私たちが愛したい、愛されたいと思う理由は、神が私たちをそのように造られたからです。私たちは、まず神を愛し、神に愛されるように造られました。そして私たちは新しい天と地でこのことを完全に経験できます。
神さえいればそれで満ち足りるということを想像するのは難しいですか。結婚相手がいなくて満たされるか心配ですか。
それは、現時点で神との経験が限られていて、少ないからです。黙示録21章4節の神の約束を信じましょう。神は「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
<結び>
もう一度最後に言います。私たちは死を恐れる必要はありません。また生きることを恐れる必要もありません。生きること死ぬこと、どちらにおいても私たちは一人ぼっちではありません。神がいつも共にいてくださるからです。
祈りましょう。
主なる神様、あなたのひとり子であり、救い主でおられるイエス様は死の力に打ち勝ち、新しいエルサレムに私たちの場所を用意してくださいました。今日この日、イエス様の復活を感謝することができますように。光であるイエス様が永久(とわ)に生き、統べ治めるその都において、あなたを賛美することができますように。イエス様のお名前によってお祈りします。
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