「最後の質問、一番大切な命令は何か」(マルコの福音書12章28節~44節)

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「近い遠い」という赤ちゃんとのふれあい遊びがあって、私はこれが好きなんです。これは、近いよーと言いながら、抱っこした赤ちゃんを私の顔のところまで近付けて、今度は遠いよーと言いながら赤ちゃんを遠ざける遊びです。私はこれを何回もやるんです。ミランダの鼻が私の鼻にくっつきそうになるまで抱き寄せる時に、ミランダがきゃっきゃっと笑うので、その笑い声がかわいくてたまらないです。

さて、同じように、私たちの天の父なる神も私たちの近くにいることが大好きだと思います。そして私たちも神が近くにおられると感じる時に喜びを感じますね。

今日のマルコの福音書の箇所では、一人の律法学者がイエスに質問をします。最後にイエスはその律法学者に言います。「あなたは神の国から遠くない。」 イエスを通して神の御国に近付いてほしいというのが、イエスのお心だと思います。

(マルコの福音書12章28節~44節を読む)

<「一番大切な命令は何か?」>
ユダヤ人の宗教指導者たちは、イエスを陥れようとして、たくさんの難しい質問をしました。今日の箇所で、私たちは最後の質問を聞きます。それは「全ての命令の中でどれが一番大切ですか」という質問です。今回の質問者はイエスの考えを率直に知りたいと願っているように見えます。その質問した男性は律法学者でした。律法学者とは聖書やユダヤ人の律法を解釈し、教える人です。

イエスは申命記6章4節5節を引用してこう答えます。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神、主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

興味深いことに、イエスは一つの戒めで終わりませんでした。イエスは続けて2つ目の戒めを言いました。今度はレビ記19章18節を引用し答えました。「…あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」何故でしょうか。何故なら神を愛するとはどういうことなのかを定義する必要があったからです。神を愛することは必然的に他の人も愛することでなければならないと、イエスは言っています。人にひどい嫌な態度をとるような人間が、私は神を愛していますとは言えないのです。

イエスのこの答えに対して、質問をしたその律法学者は、全くその通りですと答えました。そして「神を愛することと人を愛することはどんな全焼のいけにえや供え物よりもずっと優れています。」と答えました。すると今度は、イエスがその律法学者を褒めました。見せかけの礼拝よりも、神や人に対して正しい態度をとることが大切だということを彼が理解していたからです。イエスは「あなたは神の国から遠くない」と言って、その律法学者を褒めました。

<「あなたは神の国から遠くない」>

マルコの福音書全般にわたって、イエスは神の国の到来を伝えています。王の権威がわからなければ、御国に入ることはできません。そしてイエス以外にその王はいません。その律法学者は神の律法の核心は理解していたかもしれませんが、多分、イエスが神の御国の王だとは認識していなかったでしょう。それで、その律法学者は御国から遠くはないけれど、まだ御国にはいないと、おそらくイエスは言ったのだと思います。

すぐ後でイエスは救い主について話します。神の国をもたらす救い主を当時のユダヤ人は待ち望んでいました。

多くの人々は、救い主はダビデ王の子孫だと考えていました。しかしイエスはその考えに疑問を投げかけました。預言的な詩編110篇を引用して、「律法学者たちはどうして救い主をダビデの子、つまりダビデの子孫だと言っているのか。ダビデは救い主を『わが主』と呼んでいるのに。」

古代文化において、父親が子や子孫を「主」と呼ぶことは考えられません。イエスは救い主がダビデの子孫であることを否定したのではありません。むしろ、救い主は地上の子孫以上の存在だというヒントを与えています。ダビデの子はダビデの主でもある。マルコ10章で見たように、イエスは盲目のバルテマイに「ダビデの子よ」と呼ばれていましたが、イエスはそれを受け入れていました。

いずれにしてもイエスのメッセージを聴いていた群集は、ダビデ王の子についての話を聞いて喜びました。また、律法学者も聖書のことを全部理解しているわけではないことをイエスが示したので、群衆はそのことも面白がったのではないかと思います。

<律法学者とやもめ>

実際この後、イエスは律法学者について気をつけなさいと、群集に注意を与えます。律法学者たちは自分が神に近いと思っていたけれども、実際はそうではなかったこと、ただ外見をよく見せて、尊敬されたいがために宗教的に振る舞っていたこと、実際はやもめのような弱い立場の人たちを搾取していたからです。

反対に、神は、やもめのような正しい心を持った人々を喜びます。やもめは宮で二枚の小銭を捧げました。やもめとは、夫がなく経済的サポートがない女性のことで、当時の社会では弱い立場に見られていました。でも、やもめは学識ある律法学者たちよりも称賛されたのです。それは、そのやもめが心からの献身的な捧げものによって、神は全てを捧げるにふさわしい方だと示したからです。そして、神は必要を満たしてくださると方だという信仰を、そのやもめは表したからです。

外見的にどう振る舞うかではなくて、心の中、姿勢を神は重視されます。人間の称賛を得ようとするよりも、神を喜ばせようとする時に神は喜ばれます。神を喜ばせるために私たちは隣人を愛さなくてなりません。これが今日の聖書箇所で核となるイエスの教えです。

<誰が神の御国に近いか?>

今日の箇所をふまえて、今度は私たち自身の心の中を考えてみましょう。私たちは神の近くに、神の御国の近くにいるでしょうか。それとも遠くでしょうか。

今年に入ってから、ある英会話の生徒さんから質問を受けました。「クリスチャンとしてドナルド・トランプをどう思いますか?彼はクリスチャンなんですか?」 私はすぐに答えを言うのではなく、生徒さんたちの意見を聞いてみました。そのクラスは全部で4人の生徒さんがいて、3人は未信者です。キリスト教に対してどう見ているのか知りたかったので、私は「クリスチャンて何でしょうか」と尋ねました。一人の生徒さんは「洗礼を受けた人」と答えました。別の生徒さんは「トランプは自分でクリスチャンと言っているので、多分クリスチャンですよね?」と言いました。

私は生徒さんたちに聖書に目を向けてもらおうと思い、聖書を元に答えました。イエスは誰を弟子と考えているのか。マタイの福音書から二つ例を挙げました。どちらも裁きの日についてイエスが語ったところです。

マタイ7章21節でイエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言っています。

マタイ25章ではイエスは、御国に入れない人について話しています。42-43節「おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』(マタイ25:42-43)

つまり、もしイエスを信じるクリスチャンなら、その人は喜んで神の御心(みこころ)に従います。そして隣人を愛しなさいというのが神の御心なのです。そして明確にしておきたいのは、私たちはただキリストによって、ただキリストの恵みによって救われたということです。私たちがよい行いをしたからではありません。しかし、真に救われたという信仰は、よい行(おこな)いという形で表されます。よい行いという実りは、私たちがイエスに日々従うことで、時間をかけて大きく成長していくものです。(エペソ2:10、ヤコブ2:22-26) 自分はクリスチャンだ、洗礼を受けたと言う人がいても、明らかにイエスの教えに反するような生き方をしているなら、真に救われた信仰をその人が本当に持っているかどうかは疑わしいのではないでしょうか。

そして私は生徒さんたちに聞きました。「イエスの教えに照らしてみると、トランプはどう評価されると思いますか。トランプは孤児や、やもめや外国人を大切にしているように見えますか。」

ここまでをまとめます。神の御国に入るために必要なことは、御国への道を示すために神がこの世に送ったのがイエスだったこと、そしてイエスは御国の門にいる単なる伝令者ではなく、王そのものだということを私たちはしっかり受け止めることが大切です。イエスの御国の真の市民だと言うなら、イエスを主、救い主として信じているとただ口先で言うだけではなくて、神が私たちにこうしなさい、こうなりなさいと求めることを、私たちは自ら望んで行動していくことが大事です。心を尽くし神を愛しなさい、隣人を愛しなさいという戒めを私たちは真剣に受け止めていきましょう。

<霊的な定期健診> 

正直なところ、隣人を愛することは簡単ではないですし、ましてや心を尽くし、力を尽くして神を愛することは難しいことです。誰がそんなことできるでしょうか。でも何度も失敗してしまったからといって、あきらめてしまう必要はないし、神の戒めは理不尽だということにもなりません。

聖書はよく、自分自身を吟味することや罪の告白、悔い改めについて教えています。(哀歌3:40、Ⅱコリント13:5) これらを実行していくことは健康にクリスチャンとして生きていくことなのです。健康的な方法で行えば、これらの習慣によって自尊心が傷ついてしまうことはありません。むしろ、これらを実行することで神の惜しみない愛で自分がどれだけ愛されているか、改めて実感することができるでしょう。

罪の告白や悔い改めは定期検診なんだと考えてみましょう。日本では、大人は定期健診を受けるのが普通ですよね。多くの会社で義務付けられているそうですね。それと同じで、霊的な定期健診が私たちには必要です。時々自分でチェックしてみましょう。

 

  • 定期的に祈り、聖書を読んでいますか。
  • ここ数年、あなたは霊的に成長し、イエスに似た者になっていますか。例えば、人を許すことがたくさんできるようになっていますか。神への信頼によって不安を抱えることは少なくなっていますか。
  • イエスが気にかけている人々、例えば親のいない子どもや、夫に先立たれてしまった女性、外国人などを気にかけていますか。
  • イエスの御国の福音を他の人々に話していますか。

 

なかなかこれらのことはできていないけれども、改善していきたいと思っていますか。もし私たちが主に祈り、本当に自分を変えようと取り組むならば、主は力を与えてくださいます。

ちなみにですが, 教会暦で受難節とか四旬節と呼ばれる時期がちょうど始まりました。イースターまでの40日間は、世界中のクリスチャンがイエスの十字架の死に思いを馳せる期間です。自分自身を吟味し、悔い改め、自らの欲望を自制する時です。この期間、多くのクリスチャンは何か食べ物や飲み物とか、スマホやテレビなど好きなものを断ったりします。何かを断つことで、神とのスペースや時間ができます。今年の受難節に、私はスマホを断つことにしました。

ついスマホの時間が長くなってしまうことが、私の悪い習慣の一つです。最近読んだ子育ての本に「習慣は私たち自身を形成し、私たちは自分の子どもたちを形成する」という文章がありました。私は、朝起きてまず最初にするのがスマホのチェックなんです。私がスマホのSNSをいつも見ているなら、私は軽率にも子どもたちを自分のような人間にしていることになります。例えば数分毎にスマホをチェックせずにはいられないとか、体は家族と一緒にいるんだけれども、心はどこかに行っているような人間にしてしまうかもしれません。

スマホをずっと見ていることを止める代わりに、私はもっと神に祈り、聖書を読むようにしました。そのおかげで今のところ、健康的な生活を送り、注意力も散漫にならずに済んでいるように思います。また、世界のニュースの大半が暗い気持ちにさせますが、そういったものをスマホで読まないので、いつもと比べて明るい気持ちでいられます。

この受難節の時期に自分自身を吟味して、自分自身の欲求や欲望に打ち克つことで、私たちが神の御国に少しでも近づけますように。

祈りましょう。神さま あなたを知ると心に光がともされます。あなたを愛すると魂に命が注がれます。あなたに仕えると心が強められます。あなたを知り、真にあなたを愛することができますように。あなたを愛し、あなたに心から仕えていくことができますように。誰に仕えるのか、完全な自由が与えられていることを感謝します。私たちの主イエスさまの御名によって祈ります。アーメン

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