(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)
➀きょう私たちが開いております聖書の箇所は・・救い主イエス・キリストと、後に弟子となって初代教会時代の指導者になっていったシモン・ペテロ・・、そしてヨハネ、それにヤコブ、この3人との出会いの場面が記されているところです。
・当時、ガリラヤ湖は、ゲネサレ湖とも呼ばれていました。 群衆は、この日、このガリラヤ湖で主イエスに押し迫るようにして、その宣教に耳傾けていました。
・「押し迫るように神の言葉を聞いている群衆・・」それは相当な熱気を感じさせるものであったにちがいありません。
・ところがです・・そういう群衆の熱気をよそに、地元の漁師であったペテロは、ヨハネ、ヤコブたちと共にいつものように、漁から帰った後、その網を洗っているのでした。
・彼らは、主イエスの宣教に興味がなかった、というわけではなかったと思います。
しかし、一晩中働いてきた後の彼等でありましたから、兎に角仕事を最後まで終わらせなければならなかったのだと思います。
・主イエスは、生きるために懸命に働く人々をないがしろにするような方ではありませんでした。
・主イエスは、そのペテロに、一そうの舟を湖に漕ぎ出すように頼むのでした。
そして主は、その、ペテロたちが漕ぎ出した舟に乗り、その舟の上で腰を掛け、押し迫る群衆たちに、神さまの愛について、神さまの救いについて語り続けるのでした。
・そうです。気が付くと三人の漁師たちは、宣教する主イエスの側に居て、同じ小舟に同乗していたのでした。
・話が終わった後、主イエスは、シモン・ペテロにこう言われます。
→ 「深みに漕ぎ出して・・網をおろして魚を取りなさい。」
・これに対して、ペテロは・・「何をおっしゃるのですか・・私たちは、一晩中働きましたが、魚など一匹も取れませんでした。ですからきょうはやめておきましょう。 きょうのような日は先ず帰って寝る、これに限ります。」このように言ってもよかったのですが・・彼はそうは言いませんでした。
・彼は主イエスにこう応えたのです。→:5「先生、私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。 でも、おことばどおり網を降ろしてみましょう。」
・するとどうでしょう・・・:6節「そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。」のでありました。
➁聖書は、その時の様子を、6節で次のように伝えています。
→「網は破れそうになった。そこで別の舟に居た仲間の者たちに合図をして助けに来てくれるように頼んだ。 彼らがやってきて、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。」
・この光景は、日頃このガリラヤ湖でづっと漁師をしてきた彼らにとっても、勿論初めての光景であったのです。
・聖書は、その時ペテロが、言った言葉とその行動についてこう記しています。
→「シモン。ペテロは、イエスのもとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから』」
・ペテロは、目の前に起こっているそのできごとを観て、直感的に悟ったのです。
・「この方は、何と、自然界をも支配されておられる。その聖なる方が、今自分の目の前におられて、その御業を行なわれたのだ・・」 そうです。ペテロは、この出来事に単に感激している、というよりも・・感激を超えて、ある種の恐れを感じていたのです。
・そこで、彼は思わずこう口走ります・・→「主よ。私のような者から離れてください・・」
・しかし・・、私はこの彼の混乱ぶりから、彼が如何に純真な心の持ち主であったのかを証していると思うのです。
・そうです。 主イエスキリストは、この極めて純真な、ペテロのその心に注目されたのでした。
②そういうわけで・・きょうは、できるだけ、この時のペテロのその心の内に分け入ってみたい
そう思うのです。 なぜ彼はこの時これほど混乱したのでしょうか・・
・そうです。それは、彼が、ここで、正に神の御業に触れたからでありました。
・私たちは、「神さまの御業に触れる」ということがあっても、意外にも、それを見過ごしてしまうということが、結構あるのではないでしょうか・・
・私は寝る前、一日の終わりの感謝のお祈りをする、その前に、ふと一日を静かに振り返ることがあります。
・すると・・その平凡な一日の暮らしの細かな出来事の中に・・神さまのご介入があった、ということにようやく気が付かされることがあります。
・しかし、私の場合・・その生活の、瞬間、瞬間には、ほとんどの場合。見過ごしてしまうことが多いのです。恥ずかしいことですが、自分にはそういう信仰の鈍さ(にぶさ)があります。
・しかし、この時のペテロは、私の様ではありませんでした。
彼は、この神の御業にふれたとき、二つの思いが自分に激しく迫って来たのです。
・一つは、ひどく汚れた自分の姿でした。 朝から晩まで、魚を捕ることばかり考えている・・
魚が取れれば機嫌がよく・・魚がとれないと不機嫌になる・・正に、己の損得勘定に支配されているだけ・・神を仰ぐ思いなどどこかにすっかり置き忘れて生きている人間・・
・いっぽう、目の前におられる方は、そのような自分を軽蔑もせず、俯瞰的(ふかん的)な愛をもって見つめておられ、この汚れた自分を、そのままで受け入れてくださっている・・
何という、愛の深さなのだろう・・。
・そのように思ったとき・・彼は思わずこう言ってしまうのでした・・「このような尊い方のそばに、このような汚れた自分がいるのは良くないのではないか・・ああ、主よ、私のような者から離れてください!」
・しかし彼は、そう言ったかと思うと、この後すぐこの方について行くのでした。
・少し漫画ちっくですが・・
このペテロという男・・彼は、何という嘘のない、純真な心の持ち主なのでしょうか・・
④こうして三人の漁師たちは、主イエスの弟子となって行ったのですが・・しかし、このような出来事にならなかったその可能性も十分あったと思います。
・その文字通り分岐点となったのは、そうです。あの瞬間にありました。
・イエスさまは、群衆への宣教を終えた後、ペテロに「深みに漕ぎ出して、網を降ろして魚をとりなさい」と言われます。
・これを聞いた時のペテロは・・ふと・・漁師の多くの経験や、魚を捕る専門家の知恵から鑑みて、「こんなことをやっても意味がないのではないか・・」そう思ったに違いありません。
・しかし彼は、そうは思ったのですが・・「しかし、この方のお言葉ですから、あれこれ思わずに・・兎に角、そのお言葉通りに、網を降ろしてみよう・・」そう思うのでした・・。
・しかも、彼は、そう思っただけでなく、「そのとうりにした」のでした。
・ここが神さまと共に、生きる者になってゆくか・・あるいは、その道には行かず・・結局は、自分の思いで生きて、時が来ると、いのちがしぼみ終わってしまう人生となるか、の分岐点・・
・御言葉通りに生きてみる!これこそが、信仰を前進させてゆく、そのコツであることを聖書は教えているのではないでしょうか・・。
⑤ところで、聖書個所には、一つ気になる言い方が出て来ます。
それはこの出来事の結びとなっているこの御言葉です。
・11節「彼らは、舟を陸に着けると、何も可も捨てて、イエスに従った。」
・「なにもかも捨てて、イエスに従った。」ルカはこういう言い方をしています。
・私のような平凡な日本人がこのような表現を聞きますと・・何か、イエスに従うというのは、自分の財産を全部捨てて、世捨て人にならなくてはいけないのか・・そういう、何か禁欲的な解釈をしそうになります。
・しかし、ここで言っている・・「何もかもすてて」というのはいわゆる世捨て人になって、という意味ではないのです。
・マルコというもう一人の弟子は、この時の様子をこう伝えています。(マルコ1:20)
「すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスについて行った。」
・つまり、マルコは非常に具体的に語り、「彼らが生きるために頼っていた・・父親・・舟・・網・・そういうものに頼っていくことを一切やめて、主イエスを我が主として、主イエスに寄り頼みつつ、一歩一歩歩んでゆく、そういう道を彼らは歩み始めた。」と伝えているのです。
・つまり、彼らはいままでの生き方を根底から清算し、そして・・イエスさまに従ってゆくという・・まったく新しい生き方を始めたのだった、そう伝えているわけです・・・。
・それは、今までの生き方に、新しい生き方をプラスした、そういうものではありませんでした。
・今までの生き方を捨てきれないで・・そのことを引きずりながら・・イエスさまについていった・・・そういうことでもなかったのです。
○そうです。ペテロたちは・・古い生き方と・・はっきりと・・決別できる人であったのでした・・・
イエスさまは・・第一の弟子として、ここのところを見ておられたのでした・・。
⑥さて私たちはここまで、このペテロの素晴しい資質について見て来たのですけれども・・
では、彼には人間的課題は無かったのでしょうか・・彼はそんなに整った人物だったのでしょうか・・
答えは・・いいえです。
・聖書には・・・ペテロのことがいろいろと詳しく書かれてあるのですが・・・
彼は、穴だらけといいましょうか・・彼は、誰から見ても、立派な人物という・・そういう人物ではなかったようです。
・彼は文字通り一漁師でしたので、彼は、言わば、まったくの無学でしたし、平凡な一庶民でした・・。
・先ほど観たように、彼は、イエスさまとの出会いの時も、群衆がイエスさまに迫っていったのに、彼は、相変わらず網を洗っていたその姿のままでした。
・つまり彼は、いわゆる天才的人物ではなく・・いわば、どこにでもいる一人の男でしかなかったのです。ですから、彼の歩みにはいつも間違いや失敗や後悔がついてまわりました。
・そのことを思います時に・・私は・・聖書がヨハネ1:13で語っております通り・・・
「人が真理に立つことができるのは・・血筋でもなく、その人の欲求や意欲でもなく、ただ、神の恵みのよって新しく生まれるのである」このように聖書が語っている。その通りなのだなあ・・そう思い、同時に、小さな自分にも大きな励ましを覚えるのです。
・そういうわけで、私たちの今週の歩みも、この主イエス・4キリストの、この寛容で温かい眼差しに期待しながら、一歩一歩前進してゆきたい・・そう思うのです。