「主イエスのまなざし」 ルカ5:27-32

Pastor Kitazawa

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➀きょう開いておりますルカの福音書5章には、今から約二千年前のある日、ガリラヤ地方の、ある街での出来事が記されています。

・この街に、税金の取立人をしていたレビという一人の男がおりました。
この日、彼はいつものようにその収税所に座っていたのでした。

・このレビは、後にマタイと名乗るようになっていますので、彼はマタイと同一人物のようです。

・この時主イエスは、そのレビに目を留めて、こう言われるのでした。「わたしについてきなさい」

・レビは直感したのだと思います。「この方こそ、これから先、自分が従ってゆくべき、その方だ。」
レビは、何もかも捨て、立ち上がって、イエスに従ったのでした。

・レビは、イエスさまから弟子として招かれたことがよほど嬉しかったのでしょう。
彼はすぐに、大勢の取税人仲間や友人たちを招いて、お祝会を催したのでした。

・しかしその様子を、冷ややかな目で見ていた者たちがおりました。 それは、パリサイ派と言われていた人たち、それに聖書の専門家と自認していた律法学者たちでした。

・彼らは、しばらくはこの祝い会の様子を観ていたのですが、遂に口を開き、イエスの弟子たちにこのようにつぶやいたのでした。→20節「なぜ、あなた方は、取税人や罪人と共に飲み食いするのですが・・」

➁律法学者パリサイ人たちは、このつぶやきを直接主イエスに言ったのではありませんでした。ししかかしこれは実のところ、主イエスへの「きこえよがしのあからさまな批判」であったのです。

・ここで彼らが「飲み食いする」と言っているのは、これは「食事を共にするほど親しい関係にある」という意味です。

・つまり、彼らがここで言いたかったことはこうです。
「なぜ・・神の国を述べ伝えている、そういうあなたがたが、こんな非道徳的な、汚らわしい連中と、親しい付き合いをしているのですか?」

・この彼らのつぶやきから、当時の律法学者パリサイ人たちがどのような考えをもって生きていたのか・・また、人々にどのようなまなざしを投げかけていたのかがよくわかります。

・そうです。彼らは、「税金を取り立てて、それをローマに送っている、そういう仕事に従事している者たちを苦々しく思い、そのようにローマ帝国の手先になっている連中などはイスラエルの恥だと思っていたのです。
・また、身を売って、それで生活していた女たちも実に汚らわしい連中だ。イスラエルの恥だ、そう思っていたのでした。

・しかしです。この「税金を取り立てて、ローマ帝国の手先になっている人たち。 また、売春をしてその収入で日々生活している人たちの、そのほとんどは・・当時、誰も、そのようなことを好きでやっていたのではありませんでした。

・ほとんどの場合、そうでもしなければ・・明日にも家族全員が餓死してしまう。そういう貧しさの中で生きていた人達であったのです。この時代はそういう貧困の人たちが大勢いたのでした。

・貧困層に生まれたら最後・・一生、そういう社会の最底辺で、なんとか食い繋いでいくしかなかった・・そういう現実が多くの人々を苦しめていたのです。

・想像してみてください・・もし皆さんが、この時代の、この地方の、最貧困層に生まれてきて・・ そして、家族が餓死寸前に追い込まれていたとしたら・・皆さんはどうするでしょうか・・・。

・自分自身の身を売って・・家族を助ける・・そう決心することになった人たちを・・私たちは、果たして頭下しに軽蔑することができるのでしょうか・・

③ここで、もう一つ付け加えなければならないことがあります。
それは・・律法学者やパリサイ人たちが、わざわざこのお祝会の場所までやってきて・・
「なぜあなたがたは、取税人や罪人と共に飲み食いするのですが」と主イエスの弟子たちに言ってきた、その本当の本当の理由、それが何であったのか、ということです。

・このことについて、多くの時間を割いて説明するのはよくないと思いますので、端的に申し上げたいと思います。

・彼らのこの、一見道徳を重んじているかのようなとても聞こえのよい発言、その真の目的、その狙いとは何か、それを一言で申しますと・・「認められたい」ということであったのです。

・彼らには、人々から自分たちの存在が認められなければならない様々な事情がありました。

・人々から宗教指導者として模範的信仰者であると常に認められていなければなりませんでした。

・また、当時ライバル関係にあったサドカイ派よりも立派な信仰者であると、人々に認めらえていなければなりませんでした。またなにより、彼らは、自分たちの信仰こそ確かなものだ、と思い続けていなければならない、強制観念、不安感に包まれていて、焦っていたのでした。

・他人の生き方を強く非難したり軽蔑したりすればするほど・・自分たちは、そういう人間たちとは違っていて、もっともっと優れたステージに立っている信仰者なのだと、自分にも、周りの人たちにもアピールできるのではないか・・そんな風に思う人たちになっていたのでした。

・こういう話を致しますと、「昔の信仰者たちの心は随分歪んでいたのだなあ・・」そう思われる方も多いかもしれません。 では、現代は、そのような歪みは決して見られないのでしょうか・・

・「少なくとも、現代のキリスト教会では、そんな歪んだ考えの人は見たことがない。」そう言い切りたいところですが・・もしかすると、そうとは言いきれないのかもしれません。

・「自分の信仰を認めてもらいたい・・」そういう、人の悲しい心の動きは、現代であってもまったく無くなっているとは言い切れないように思えてなりません。

・私は・・現代の信仰者である私たちも、己の胸に手を当てつつ、このことに気を付けて歩んでゆかなければならない、そのように思うのです。

④では、このようなく歪んだまなざしの律法学者パリサイ人たちに対して、主イエスはどのような言葉をもって彼らに応えてゆかれたのでしょうか・・

・ここで主イエスは、短くしかも極めて的確に、このように語られたのでした。(:31-:32)「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく、病人です。」
「わたしは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

・私は、この御言葉には、主イエス・キリストの、愛に満ちた、いくつもの問いかけ、それに、宣言が込められている・・そう思うのです。

・先ず最初に聞こえて来る問いかけはこのような問いかけです。
「あなたがたは、『なぜ、このような者たちと付き合っているのか」と言っていますが・・身を売って生きていかなければならない境遇にある者たちもまた、あなた方と同じ人間ではないでしょうか・・。」

・「しかたなく、生きるために身を売って暮らしている者たちも、生きてゆくための仕事として、税金を集めて他国に送金をしている・・そのために社会から嫌われている、そういう者たちも、あなたと同じ人間なのではないでしょうか・・。」

・「それともこの人たちは、人間などではなく、決して近づいてはならない、腐りきった、危険極まりない、毒蛇のような者たちなのでしょうか・・。」

・「わたしは、彼らをそのように観てはいません。 彼らは、弱って、助けを求めている、助けを必要としている、病人と同じ一人一人ではないでしょうか・・」

・「自分は病気なのだろうか、と己を見つめている人は、直ぐに医者の所に行って、『先生、助けてください。』そう言うでしょう。」 「しかし、自分は正しい、自分は丈夫だ、自分はちゃんとしている、自分は問題がない、そういう自己理解の人は、医者の所には行かないでしょう。
そういう人は、『私は病人などではない!』そう思い込んでいるからです。

・あなたはどちらの人間でしょうか・・あなたは自分は一人の病人だ、と思っているそういう人間でしょうか・・それとも、自分は病人などではない!そう思っている一人なのでしょうか・・。

・このお祝会に集まっている、あなた方が軽蔑している、この人たちは・・丁度、医者の助けを必要としている病人に似ています。  彼らは、己の汚れと向き合い、己の汚れを悲しみ・・
神さまの赦しと再生に期待し、正に神さまにすがっている一人一人なのです。

・一方、あなたがたは彼等を非難しています。 しかしわたしは、病人の彼らをそのままで受け入れ、その彼らを心から愛しているのです。そして、彼等をまことのいのちへと導こうとしているのです。

⑤一昨年、私は三回も緊急入院することになって、その後重篤な患者の一人になるという、厳しくも貴重な経験をしましたが・・今思いますと・・あの病棟で、私は神さまから大事なことをたくさん教えられ、本当にそれは素晴らしい時間だった、今は、そう思っています。

・そのすばらしい学びの一つは、「自分の中にあった、ある勘違いに気づかされたということ」でした。

・入院騒ぎの前までの私は・・どこか、「道徳的にも、社会的にも、ちゃんとした人間でなければ」、そういう思いを心の奥に無意識に秘めながら生きていたように思います。

・では、そういう思いはどこからきたのかと考えてみますと・・それは「しっかりとした人間として生きてゆくことが、神さまから期待されているのではないか」という、私の勝手な思い込みからきていたと思います。

・しかし本当に厳しい病人になってみますと・・どんな人でも、弱った魚のようになってしまいそうなると、だれも、ちゃんとした人間などやっているわけにはいかないのでした。

・重い病人になりますと・・だれもが、只々病院のスタッフに命つないでもらっているだけのまるで、誰かに踏みつけられて半分つぶれているミミズの様な状態になってしまうのでした。

・よく考えると、重い病人だけではありません。高齢になって、足腰や、脳などが弱ってきた方々が、ちゃんとした人間ができるか、といいますと・・それもまた無理な話です。
だれもが無理になります。

・鈍感な私は、そういう状態に置かれて、それで、ようやくのこと・・、神さまのまなざしが、どういうものであるのかということに気付かされたのでした。

・神さまは、私たちに、ちゃんとした人間であることなど全然期待しておられない・・神さまが求めておられるのは・・神さまに愛されていることを本当に信じつつ、この地上の日々を生きぬいてゆくこと・・主はそれだけでいいと言ってくださる、そのような方なのだ・・・鈍い私は、正に、本物の病人になって、そこでようやく気づかされたのでした。

・そういうわけで、私は、「そうだ・・ちゃんとしてなくてもいいのだ。」そう気づいたのでした。
そうしましたら、一気に心が軽くなったのでした。

⑥そういえば、イエスさまが、「社会的にも、道徳的にも、ちゃんとした人間になりなさい!」などと語っておられる個所は聖書のどこにもありません。 そういうことを一生懸命主張していたのは、律法学者たちパリサ人たちの方でした。

・32節は主イエスの結びの御言葉です。 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

・改めて・・本当にすばらしいイエスさまらしい愛に満ちた御言葉だなあ・・そう思います。

・そうです。これが、私たちを見つめておられる、主イエス・キリストのまなざしなのです。

・私たちは、今週も、この主イエスのまなざしの中にあって・・、その愛を信じつつ、互いに祈り合い、できるかぎり支え合い、この時代をご一緒に生き抜いてゆきたいそう思います。
神さまはそれ以上を求める方ではないからです。

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