↓メッセージが聞けます。(日曜礼拝録音)
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皆さん、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。2026年、私はこのみ言葉をしっかりと握り締めたいと思っています。コリント人への第一の手紙 6章20節のみ言葉です。「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」私は、このみ言葉をいつも覚えて、すべて神の栄光のためにとの思いを持って新たな年を生きたいと願います。皆さんはどうでしょう。どのようなみ言葉を握って新しい年を生きるのでしょうか。
私には2人の子供がいます。長男は、高校時代は英語が不得意で、長女は数学が不得意でした。得意、不得意な科目、皆さんもあったのではないでしょうか。自然と不得意な科目は学ぶ努力をしなくなるものです。私は子供たちにこんなことを語ったことを覚えています。努力をしないで成績が悪いよりも、努力をして成績が悪い、それならそのほうがいいでしょう。神様は私たちに、特に信仰者に願っておられることは、精一杯努力をして、すべて神の栄光のためにと願って生きることですよ。どこまで私の言葉が子供たちに伝わったか分かりませんが、私自身、高校時代に信仰を持ち、そして牧師から同じようなチャレンジをされたことを覚えています。精一杯努力をして、神の栄光のためにと願って生きる人生、神はそのような生き方を求めておられるのですと。私はその言葉を受け入れて、大学の受験に臨んだことを覚えています。私の人生を通して神の栄光が現れますように、そう祈って受けた大学受験で、神は私にとって最もふさわしい大学を与えてくださった、そう信じています。
今日取り上げたオバデヤ書は、聖書の中心テーマである、「神を愛し、隣人を愛する」、そのことを教えている書でもあります。できるだけ新約の視点から今日の聖書箇所を見てみます。神様は人間を尊い存在(神のかたち)として創造されました。しかし、人は罪を犯し、神から離れてしまった時に、神の救いのご計画を成すためにイスラエル民族が選ばれました。それは、神は、イスラエル民族を通して神の御心をなそうと計画されたからです。残念ですが、旧約聖書は、神の御心に従えなかったイスラエルの歴史を明らかにしています。しかし、旧約聖書は救い主の誕生を預言しています。結果的に救い主イエスは、ダビデの子孫から生まれることになります。神の大きな救いのご計画がイエス・キリストを通してなされ、イエスの十字架によって人類の罪の贖いがなされ、信じる者に永遠の命の約束が与えられたのです。キリストの贖いを信じる私たちは、神と共に住む新しい天と、新しい地を待ち望む者とされています。終末の時、主の日には、神の正しい裁きが全ての者に臨み、神の救いのドラマが完成するのです。
黙示録21章1、2節を読んでみます。「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。」と書かれています。この黙示録では、天から下って来る新しいエルサレムと表現しています。私たちは新しいエルサレムの住民とされるのです。
それでは、今日のオバデヤ書の聖書箇所を見てみます。イスラエル民族の父はヤコブです。そしてそのヤクブの兄はエサウです。預言者オバデヤはエドムの民をエサウの子孫たちとして描いています。このエサウの子孫たちは、残念ながら自分の親族であるイスラエル民族が嫌いだったようです。イスラエル民族がエジプトから解放され、約束の地に戻る時にも戦いを仕掛けました。彼らは、ダビデ王の時に一時的にイスラエルの支配に組み入れられますが、後にイスラエルに反逆し、イスラエルと敵対関係を持つ国造りをしたのです。千メートルの山の上に、それも岩の裂け目に強固な都市をエドム人たちは作り上げたのです。そして、高慢の極みに達します。オバデヤ書3,4節にはこのように書かれています。「岩のはざまにおり、高い所に住む者よ、 あなたの心の高ぶりは、あなたを欺いた。 あなたは心のうちに言う、 『だれがわたしを地に引き下らせる事ができるか』。 たといあなたは、わしのように高くあがり、 星の間に巣を設けても、 わたしはそこからあなたを引きおろすと 主は言われる。」と。自分の親族を愛することを忘れただけではなく、彼らの高慢は顕著に表れます。兄弟であるイスラエルの民に悪をなそうとするのです。そして、何よりもバビロンによってエルサレムが滅ぼされる時には、彼らはバビロンに加担し、エルサレムから財産を奪い取り、逃げようとするイスラエルの民を捕まえ、バビロンに捕囚として渡す、そのような行為に及んだのです。
その内容がこの文脈から読み取れます。12節を読んでみましょう。「しかしあなたは自分の兄弟の日、 すなわちその災の日をながめていてはならなかった。 あなたはユダの人々の滅びの日に、 これを喜んではならず、 その悩みの日に誇ってはならなかった。」とあります。
今日のメッセージの結論は、私たち信仰者の生き方は、「神を愛し、また自らを愛するように隣人を愛する。」、そのような生き方です。エドムの民が自分の兄弟関係にあるイスラエルの民に敵対行為をする。それは神のみ心ではありません。同じように世界を見てみますと、自分の同胞であると言葉で言いながら、平気で争いを仕掛ける独裁者もいます。同胞の多くの人たちが苦しみ、亡くなっているのに、その愚かな争いは終わらないのです。世界中には、そのような愚かな争いが満ちています。かつての戦争下の日本でもそうであったように、人間の罪の結果を、私たちは世界の歴史の中に見ることができます。主の日には、それらが明るみに出され、主の正しい裁きがなされるのです。
前回学んできたことを整理し振り返ってみます。ヨエル書から、主の日、神の裁きの日がいつか私たち一人一人に臨むことを学びました。ヨエルにおける主の日は、神の民や、また諸国民が裁かれる日として描かれています。それだけでなく、悔い改めて生きる者への祝福の日でもあることが指摘されています。そして聖霊の油注ぎの幻が明らかにされています。もう一度確認しますが、主の日は厳しい裁きの日であっても、悔い改めて生きる者には豊かな祝福が注がれる日でもあるのです。イスラエルの民だけではなく、全世界に対する裁きの警告の言葉です。神を心から愛する、また、恐れをもって全能の神を礼拝する。その両面を忘れてはいけないと思うのです。
イエスが戻って来られる日に、自分の愚かしさに気づき、イエス様、私はあなたの十字架を信じ、あなたに従って行きたいですと、悔い改める者が多く起こることでしょう。必ず、主の日は来るのです。今日の聖書の箇所もそのことが警告されています。その箇所を読んでみます。15節には、「主の日が万国の民に臨むのは近い。 あなたがしたようにあなたもされる。 あなたの報いはあなたのこうべに帰する。」と書かれています。主の日には、一人一人自分がどう生きたかが問われるのです。17節には、「しかしシオンの山には、のがれる者がいて、 聖なる所となる。 またヤコブの家はその領地を獲る。」と書かれています。シオンの山では、信仰者の回復がおこるのです。彼らは、自分たちの居場所を見出すのです。主の日は、迫害されてきた信仰者の回復の日でもあるのです。さらに主の民である信仰者も神と共に神の裁きの座に着くのです。最後の21節は、「こうして救う者はシオンの山に上って、 エサウの山を治める。 そして王国は主のものとなる。」とあります。ここでは、王国は主のものとなるとのみ言葉で終わっています。これは、エルサレムの回復の預言とともに、神とともに世を治める信仰者の存在が明らかにされています。キリストが戻られる日に、この預言のみ言葉が実現するのです。黙示録11章15節には、「この世の国は、 われらの主とそのキリストとの国となった。 主は世々限りなく支配なさるであろう」。とあります。
ところで、神様は私たちにどのような視点で、よくやったね、忠実な僕よと語ってくれるのでしょうか。イエスはたとえを通して終末の真理を私たちに伝えています。それは兄弟愛をもって、イエスを愛するように他者を愛することです。困っている人たちを助ける。また病人を見舞う。このような小さなことを、キリストを愛するゆえになしていく、そのような歩みをすることです。神は私たちの隣人愛を見ておられるのです。その箇所を読んで私のメッセージを終えます。兄弟を愛する。そして神に栄光をお返しする。その歩みを誠実に成す者でありたいです。
「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」
マタイによる福音書 25:31-40 口語訳
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