(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)
本日のメッセージは、聖霊についてです。皆さんは、こんなことを考えたことはありませんか。「聖霊は本当に“人格”を持ったお方なのか、それとも霊的な力のような存在なのか。私たちは聖霊に祈ることができるのか。父なる神、御子なる神と同じように、聖霊を礼拝すべきなのか。」
今日の説教は、ニケア信条と三位一体についての第5回です。
ニケア信条は西暦325年に最初に書かれましたが、その中で聖霊について述べられていたのは、たった一文だけでした。そこにはただ、「私たちは聖霊を信じます」とあるだけだったのです。
しかし、それからおよそ半世紀後、ニケア信条は改訂され、現在私たちが知っている形になりました。その改訂は、4世紀に起こった「聖霊は神であるのか、それとも神ではないのか」という議論がきっかけでした。
その話に入る前に、まず祈りましょう。その後で、共にニケア信条を唱えましょう。
[祈り・ニケア信条唱和]
<西暦381年のニケア信条改訂>
西暦350年頃、一部の人々は「聖霊は神ではなく、神によって造られた被造物の一つである」と主張しました。これに対して、偉大な教父の一人であるアタナシオスは、聖書に基いて「聖霊は、神にしかできない働きをしておられる。だからこそ、聖霊は神であるに違いない。」と論じました。
しかし、この問題はなおも続きました。ギリシャの北にあるマケドニア地方から現れた一派は、「聖霊は特別な天使のような存在にすぎず、父なる神や御子よりも位が低い」と教え始めました。
これに対して、聖バシレイオスやナジアンゾスの聖グレゴリウスといった著名な教父たちが議論を重ね、聖霊が父と御子と等しく神であることを示しました。
そして最終的に、西暦381年のコンスタンティノープル公会議において、150人の司教たちが集まり、ニケア信条の信仰を確認しました。その結果、私たちが先ほど唱えたように、聖霊についての記述が加えられ、信条は改訂されたのです。
私がこのような歴史の話を皆さんにお伝えしている理由は、信仰の歴史を知ることが、過去の過ちを繰り返さない助けになるからです。
前回の説教では、「なぜ神学が大切なのか」についてお話ししました。私たちが神について何を信じているかは、私たちの生き方そのものに影響を与えるからです。
同じように、歴史も大切です。教会の歴史を知らなければ、聖書を誤解し、過去に起こった神学的な誤りを、再び繰り返してしまうかもしれません。
それでは、ニケア信条が聖霊について何と言っているのか、よく見てみましょう。
「わたしたちは、主であり、命を与える聖霊を信じます。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、あがめられ、
預言者を通して語ってこられました。」
聖霊とは、いったいどのようなお方なのでしょうか。父と子との関係は、どのようなものなのでしょうか。そして聖霊は私たちに何を語りかけておられるのでしょうか。
<聖霊とは誰か?>
まず、聖霊とは誰でしょうか。聖書にある、聖霊という御名は「聖なる」と「霊」という言葉から成り立っています。次に、ニケア信条が聖霊をどのように呼んでいるかというと、「主」、そして「命を与えるお方」と呼んでいます。
まず「霊」という言葉から始めましょう。聖書における「霊」という言葉は、原語であるヘブライ語やギリシャ語において、非常に幅広い意味を持っています。それは、風、息、あるいは生きているものに命を与え、命を動かす力を意味することもあります。
イエスが復活の後、弟子たちの前に現れたとき、ヨハネの福音書20章22節には、イエスが「彼らに息を吹きかけて、言われた。『聖霊を受けなさい』」とあります。まるで聖霊とは、神ご自身の息であり、神の命そのものが人々に分かち与えられているかのようです。
ですから、「霊」という言葉は、目には見えず、信じる者の内に住み、神の命を私たちと分かち合ってくださるお方を表すのに、ふさわしい訳語なのです。
次に、「聖なる」という言葉について見てみましょう。なぜ聖霊は特に「聖なる」と呼ばれるのでしょうか。おそらく聖書がその手がかりを与えてくれます。聖書はしばしば、聖霊を神の「聖化」の働きと結びつけています。聖化とは、聖(きよ)くされ、神のために取り分けられ、また罪から解放されていく過程のことです。パウロはローマ人への手紙15章16節でこう書いています。「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」
さらにパウロは、信仰を持つこと自体も聖霊の働きであると教えています。コリント人への第一の手紙12章3節にはこうあります。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」つまり、聖霊は私たちの心を変えてくださるのです。
次に、ニケア信条は聖霊を「主、そして命を与える方」と呼んでいます。この考えは聖書のどこに書かれているでしょうか。
一つの例が、第二コリント3章6節で、「文字(律法のこと)は殺し、御霊は生かすからです。」と記されています。また、ヨハネの福音書6章63節には、「命を与えるのは御霊です。」とあります。さらに、ローマ人への手紙8章11節には「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」とあります。
要約すると、聖霊は命をもたらしてくださるお方です。それは単なる比喩的、あるいは霊的な意味にとどまらず、肉体的な命をも、もたらしてくださるのです。
さらに、聖霊は「主」であられます。これは聖書に基づいています。例えば第二コリント3章17節で、パウロはこう書いています。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」この文脈において、「主」という言葉は、イスラエルの神の御名としての重みを十分に帯びた、神ご自身を指す称号です。
先ほど触れたように、アタナシオスは「御霊は神でなければならない。何故なら御霊は神だけができることをなさるから。」と論じました。御霊は私たちに命を与え、私たちを聖なる者としてくださいます。神に属するものを与えることができるのは、ただ神だけです。アタナシオスは「もし御霊が私たちを聖(きよ)くしてくださるのであれば、疑いの余地なく、その性質は神のものである。」と述べています。
では、これらすべてのことは、私たちクリスチャンとしての日々の生活において、どのような意味を持つのでしょうか。
第一に、もし聖霊が主であるなら、ニケア信条が正しく語っているように、御霊は「父と御子とともに礼拝され、あがめられるお方」です。言い換えれば、聖霊を礼拝することは間違いではないということです。礼拝は本来、神だけに捧げられるものです。最も初期のクリスチャンたちは、聖霊を父と御子と並べて位置づけていました。たとえば、第二コリント13章13節で、パウロは賛美と祝福の祈りをこのように捧げています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」
第二に、もし聖霊が主であるなら、私たちは祈りの中で聖霊に語りかけることができます。助けを求めることができるのです。ローマ人への手紙8章26〜27節には、こう書かれています。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮(きわ)める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
私たちは、誘惑にあうときにも聖霊に助けを求めることができます。また、天におられる父なる神にますます似た者へと変え続けてくださるように、聖霊に祈ることもできます。
パウロがコリント人への手紙第二3章18節で言っているように、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」そして、どんな言葉で祈ればよいのか、わからないときでも、聖霊は私たちの必要を理解し、私たちのために執り成してくださるのです。
<父と御子との関係>
さて、次に、「聖霊と父なる神、聖霊と御子なる神の関係とは、正確にはどのようなものか。」という問いについて考えていきましょう。
新約聖書は、聖霊がどのようなお方であり、何をなさるのかについてはわかりやすく書いていますが、父と御子との関係については、あまり多くを語っていません。
しかし、まさにこの点こそが、4世紀において切実な問題となりました。先ほど触れたマケドニウス派は「聖霊は神によって造られたものである。」というシンプルな答えを主張しました。それに対して、ニケア信条では、聖霊は「父と子から出て」と表されています。
この「出る」という表現は、イエスご自身の言葉から直接引用されています。ヨハネの福音書15章26節にはこうあります。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その方はわたしについて証しをなさいます。」また、ヨハネの福音書14章26節でも、イエスは同じようなことを語っています。「しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」要約すると、聖霊は父から出て、御子を通して来られるということです。
聖書は、聖霊が「父から出る」ことと、御子が「父から生まれる」ことの違いを詳しく説明してはいません。しかし、聖霊には「出る」という言葉が使われ、御子には「生まれる」という別の言葉が使われていることから、聖霊と御子と父が、同一の位格ではないことが示されています。とはいえ、初代教会の教父たちは、聖書に啓示されている以上のことを過度に推測すべきではないと勧めています。ある種の神秘は、神秘のまま残されるのです。
限られた情報で解き明かそうとするよりも、むしろ、聖書が私たちに何を教えているのかに目を向けることが大切です。
聖霊は私たちを三位一体との関係へと導く働きをしていると、聖書は教えています。神は御霊(みたま)を通して、私たちをご自身の子どもとしてくださいます。例えばローマ人への手紙8章15〜16節にはこうあります。
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」
またガラテヤ人への手紙4章6節にはこうあります。「そしてあなたがたが子であるがゆえに、神は、『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」
父なる神と御子の御霊そのものが私たちのうちに来て、私たちをご自身との交わりへと引き入れてくださいます。私たちは神の子どもとされるだけでなく、神ご自身が私たちの内に住んでくださるのです。聖霊は、生ける神の臨在を私たちの内にもたらしてくださいます。
いつの日か、私たちは地上の父母や、父や母のような存在であった人に別れを告げなければならない時が来ます。その時、人生を支えてくれた大きな柱が消えてしまったように感じるかもしれません。これまで私たちを愛し支えてくれたその人は、もういないのだと感じるでしょう。しかし、天におられる私たちの父は決して私たちを離れません。聖霊を通して、その臨在はいつも私たちと共にあります。私たちがひとりぼっちになることは決してないのです。
<聖霊は私たちに何を語っておられるのか?>
聖霊は、私たちに何を語っておられるのか? この問いを最後に考えたいと思います。
ニケア信条は、「聖霊は預言者たちを通して語ってこられた」と教えています。これらの預言者には、旧約聖書の預言者たちが含まれます。たとえばエゼキエルは、エゼキエル書11章5節で「ついで主の霊が私に下り、私に仰せられた。『主はこう仰せられる、と言え。』」と語っています。このような預言者たちは、神ご自身のことばを語る使命を与えられていました。
しかし聖霊は、昔の預言者たちを通してだけ、あるいはイスラエルの民にだけ語られたのではありません。聖霊は教会にも語り続けておられます。黙示録2章7節には、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」とあります。
さらに、聖霊は預言者ではない信者たちを通しても語り続けておられます。イエスはマタイの福音書10章19節~20節で弟子たちにこう言われました。「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」
そして、聖霊は父と御子から受けたメッセージを、神の栄光のために語られます。ヨハネ16章13~14節でイエスはこう言われました。「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」
聖霊が示すのは聖霊ご自身ではなく、キリストです。聖霊のメッセージは、何よりもまずキリストについてです。御霊に導かれた昔の預言者たちは、来たるべき救い主を告げ知らせました。そして救い主が来られた後は、その弟子たちが御霊に導かれて、世界にキリストを宣べ伝えました。イエスがヨハネ15章26~27節で言われたとおりです。
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理のの御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。…」
イエスについて証しすることは、決して簡単ではありません。人々から信仰について尋ねられたとき、どのように答えたらよいか、私たちは聖霊に知恵を求めることができます。また、いつ語ればよいのか、ただ耳を傾けるべき時はいつなのかを教えてくださるよう祈りましょう。そして、言葉だけでなく、私たちの態度や行いがイエスの愛と真理を示すものとなるよう祈りましょう。
最後にもう一つ。今日のクリスチャンである私たちの状況は、4世紀の人々とは異なります。現代では、聖霊は特別な天使のような存在だと言うマケドニア派のような人々に出会うことは、あまりないかもしれません。しかし、「聖霊が私にこう語った」「神が私にこう言われた」といった言葉は、今でもしばしば耳にします。そのような時、私たちは自分自身に問いかけるべきです。その内容は聖書と一致しているだろうか。歴史を通して教会が信じてきたことと合っているだろうか。もしそうでないなら、私たちは注意深くあるべきです。聖霊ご自身において、何か食い違うような矛盾はありません。今日お語りになる御霊は、昔、預言者や使徒たちを通してお語りになった御霊であり、歴史を通して教会に語ってこられた御霊と同じ御霊だからです。
<結論>
結論として、聖霊は電気のような人格のない力でも、単なる神のしもべでもありません。
聖霊はお語りになります。聖霊は神ご自身なのです。聖霊は私たちに命を与え、私たちを神のご性質へと変えてくださいます。また、私たちを父と御子との親しい交わりの中へと導いてくださいます。
そして聖霊は、私たちの人生を通して、周りの人々にイエスについて語ることを望んでおられます。そのために、聖霊ご自身が私たちを助けてくださいます。
お祈りしましょう。
栄光が父と御子と聖霊の上にありますように。栄光が初めのように、今も、そして世々限りなく、とこしえにありますように。アーメン。



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