「誇る者は、ただこれを誇れ。」(エレミヤ9章24節)

Pastor Ino

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「誇る者は、ただこれを誇れ。悟りを得て、私を知っていることを。」(エレミヤ9章24節)

今回は、エレミヤ書から6回目のメッセージです。前回は、「偽りのことばを信頼してはならない。」(エレミヤ7章4節)とのテーマで語りました。偽りの言葉とは、神殿は神ご自身の宮であるのだから、外国が攻めてきても絶対に安全だとの偽預言者の言葉であり、彼らの信仰のことです。これはちょうど日本人のご利益的な信仰と似ています。信仰者は、何を信じ、どう生きるかを決断しなければなりません。まことの神を信じる者は、その行いや言葉において変革が起こるのです。真実な信仰は、誠実な歩みを生み出します。私たちを救うために十字架に着いてくださったイエスの愛を受け入れ、他者を愛する生き方を実践して行きたいと願います。キリストへの信仰をしっかりと握りながら、豊かな実を実らせる生き方を目指して行きたいです。今日は9章24節の言葉を取り上げます。9章は、8章の内容を受けて書かれていますので、まず、8章の内容に簡単にふれてみます。

8章でエレミヤは、民に向かって悔い改めのメッセージを語りかけています。しかし、それに応答しようとしない民の姿が明らにされています。8章の4節と5節を抜粋してみます。「あなたは、彼らに言え。主はこう仰せられる。倒れたら、起き上がらないだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。・・彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。」欺きである偶像にしがみついて、悔い改めようとしない南ユダの民の姿が明らかにされています。それゆえ、彼らは神に裁かれるのです。8章全体は、エルサレムは滅ぼされ、捕囚の民となることが預言されています。神の裁きを語らざるを得ないエレミヤにとっては、それは大きな悲しみであったようです。18節には、「私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている。」とあります。

それに続くように、9章では涙を流しているエレミヤの姿が描かれています。9章1節、「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。」と書かれています。悔い改めをしない南ユダの民の姿に、涙している様子から9章は始まります。そして、続く4-6節では、民の中に欺きや不信感が増幅していく姿が指摘されています。神との関係が絶たれた民の中には、だまし合いや偽りがはびこって行くのです。

9章7節には、それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「見よ、わたしは彼らを溶かしてためす。いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができよう。」と書かれています。溶かすと言う表現で、今まで築いてきたものが焼けてなくなることが暗示されています。彼らの富も名声も社会的な地位も、また、ユダヤ人としての社会の秩序も全て失われることとなります。本当にそれは大変なことです、しかし試すと続いていますので、ユダの民は何が自分たちのアイデンティティで、また信頼すべきものなのか問い直す機会となります。その尊い機会こそ、バビロンへの捕囚であるのです。そこで彼らは、神の言葉への信頼と自分たちのアイデンティティの回復の機会を得ることになります。11節には、「わたしはエルサレムを石くれの山とし、ジャッカルの住みかとする。ユダの町々を荒れ果てさせ、住む者もなくする。」とあります。彼らは国を失うのです。その苦しみの中で、彼らは国を失った理由を考えるのです。実はそのことこそ大切なレッスンであると教えられています。12節では、「知恵があって、これを悟ることのできる者はだれか。・・どうしてこの国は滅びたのか。」と問いかけています。その理由は簡単明瞭です。13-16節に、神の律法を捨て、神の声に聴き従わず、かたくなな心のまま、偶像に仕えて生きていた彼らに原因があることが指摘されています。涙を流して悲しみを表現する、9章はそのことが強調される箇所ですが、実は涙を流す時は、私たちの心を振り返る時でもあるのです。

今世界には悲しい出来事がいろいろな地域で起こっています。何人かの独裁者の姿が明らかにされ、独裁者の一方的な情報に踊らされている軍隊や国民の姿が明らかにされています。これは終末に起こる顕著な姿であると私は思います。このような悲しい現実に私たちは囲まれています。しばらく、そのような現実が続くでしょう。今は涙を流す事しかできない時ではないでしょうか。そのような時は、一人一人、大小の違いはあっても、どなたにもあると思います。

エレミヤは、国々に散らされるイスラエルの民を憂いて、涙を流しています。しかし、もう一度、7節の言葉に戻って考えてみましょう。「わたしは彼らを溶かしてためす。」と語られる神の言葉に目を注ぐ時に、何が私たちの人生に必要なのか、私たちは何を信じ、どう生きたら良いのか、そのようなことを改めて考える時となるのです。以前6章27節で、「わたしはあなたを、わたしの民の中で、ためす者とし、試みる者とした。彼らの行いを知り、これをためせ。」と書かれていた箇所を学びました。もう一度私たちは、私たちの状況を神の御言葉から再確認する必要があるのです。あなたは、神の愛を受け入れていますか。キリストが愛されたように隣人を愛そうとしていますか。モーセの十戒で教えられているように、他者を大切にした生き方をしていますか。また、偽りの生き方をしないように心がけていますか。そのような問いかけを自分にしてみる機会であると思います。

23節から、主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。」と書かれています。本当に神の御言葉から自分を試すことのできる者は、自分の知恵を誇ったり、強さを誇ったり、富を誇る生き方がむなしいことに気づくはずではないでしょうか。富も自分の強さも、また自分の知恵も一時的なものでしかありません。ですから24節に、「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。私は主であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。」と書かれています。神を知り、神と共に生きる人生は本当に幸いな人生です。神は私たちの人生に目を注いでおられるからです。神は、いつか悪を裁かれます。そして、この地上に正義をもたらすことのできる方です。悔い改める者の罪を赦してくださる方です。神を信頼して歩もうとする信仰者を必ず助けてくださいます。そのような信仰を堅く握って歩んで行こうではありませんか。

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