何があなたを清くするのか [マルコの福音書7章1節~23節]

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私がアメリカのテキサス州のキリスト教大学で勉強していた頃、大学でちょっと面白い決まりがありました。それは、「国の文化的なダンスを除き、学校行事で全てのダンスを禁じる」というものでした。性的に不健全な行動を防ぐことがその趣旨だったのだと思います。結局、大学はこの決まりをゆるくしていったのですが、クリスチャンにとっても、多くの人々にとっても、過度に保守的であるように思えます。

大学にあったこの決まりは、今日のメッセージにつながっています。今日の箇所でパリサイ人の間違ったアプローチが出てくるのですが、私たちは、神に喜んでもらうことを追い求める時に、極端になってしまうことがあります。神と聖書に対する誤った解釈が、パリサイ人の信仰を間違った方向へ進ませてしまいました。

神への従順を求める時によくしてしまう三つの失敗があります。その失敗をしないために、今日の聖書箇所をじっくりと読んで学んでいきましょう。

(マルコの福音書7章1節~23節を読む)

<失敗その1:神の価値と矛盾する、わずらわしくて必要のない規則を作ってしまうこと>

神を喜ばそうとする時によくある失敗の一つは、神の価値と矛盾する、不必要でわずらわしい規則を作ってしまうことです。この失敗例としては、パリサイ人が作った「コルバン」というしきたりです。コルバンはユダヤ人の会堂への捧げものを意味していて、コルバンの誓いをすると、神への捧げものだからということで、親のためにお金を使うことができなくなるのでした。このしきたりは「あなたの父と母を敬いなさい」という神の戒めに反するものだと、イエスは指摘しました。年をとった両親の世話を怠っているのに、いかにも信心深いと周りに見せることができるからです。パリサイ人は自分たちが作った決まりを、本質的に神の戒めより高い位置に置いてしまったことになると思います。

何の疑いもなく人間の解釈に従うのではなくて、聖書を読み、神が実際に言っていることは何かを学び、神の戒めと人間のしきたりを区別することが大切だとイエスはおっしゃいました。人間の規則やしきたりは、うまく取り仕切ったり、公平であったり、人々を守ったり、神を礼拝し、神に従うのに役立ち、有益であったりします。しかし、人間の規則やしきたりに従うことで、神とクリスチャンとの関係を妨げてしまうような、弊害のある、わずらわしい規則が作り出されてしまうことがあります。そのような場合には、神を知り、神を愛し、神に従うことに、それらの規則が果たして役立つかどうかを問わなければいけません。

神に真に従うことは、単に外側の行動ではなくて、心の中の問題だとイエスは言っています。イエスはイザヤ書から引用して、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている」と言いました。

この聖句は、礼拝が人間の規則や慣習に基づいてしまうと、神との純粋な交わりが損なわれてしまうことを表しています。

それでは、神との近い交わりを持つためにどのように心を整えればよいでしょうか。それは神がよいお方であることを知り、私たちに対する神の愛を経験していくことから始まります。人間関係においても、お互いの思いやりが大事なのと一緒です。キリスト教では、教義を厳しく守っていくのではなくて、神との個人的な交わりを深めていくことが大事なのです。そうすることで、私たちは神に似た者に少しずつ変えられていくのです。

不要な規則の例として、10分の1献金を考えてみましょう。10分の1献金ですが、聖書にはクリスチャンの献金について10分の1でなくてはらないという、決まった数字は書かれていません。これは重要で、しっかりと覚えておくべきです。その代わり、経済的支援も含めて、他の人の必要に心を配ることが大切だと聖書は言っています。神が恵み深いように、私たちは、それぞれ経済的な力に応じて、他の人に惜しみなく与えることを学んでいくべきです。

聖書は、経済的な支援の具体的な金額や頻度については書いていません。しかし、喜んで誠実に与えることが大切だと言っています。私たちがどれだけお金をあげたかではなく、私たちの心が大事だと神は言っています。惜しみない心は、惜しみない行いをもたらします。

ですから、イエスの教えは、いろいろな場合にどうしたらよいか、具体的な行動のガイドラインではなく、私たちの道徳的な特性や心を育むことに重きを置いています。具体的にどうすればよいかについては、聖霊により頼んで、知恵を求め、導いていただきましょう。

<失敗その2:全ての規則に従ってさえいれば、神の目において私たちは十分よいと考えること>

パリサイ人は、旧約聖書の律法に加えて、規則をたくさん作っていました。クリスチャンにはパリサイ人ほどの規則はありませんが、「自分は十分によい存在だ」という思いとの葛藤はあるかもしれません。

みことば(イザヤ:29:13)の「…くちびるではわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。…」は、はっとさせる聖句です。「彼らは教会に来ている、雄弁に祈っている、惜しみなく献金して、賛美を歌い、聖書もよく学んでいる。家族のために一生けん命働いている。しかし彼らの心は私から遠く離れている」と神がおっしゃったらと想像してみてください。

神を喜ばせることは、単に規則を守ったり、期待される行動を取ったりすることではありません。神を知り、神を愛することこそ、神を喜ばせることです。神に対する私たちの心はどうであるか、そこから始まります。

最も大事な戒めは何かと聞かれて、「…心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37)、そして「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)とイエスは答えました。しかし「…私たちの義はみな、不潔な着物のようです…」とイザヤ64章6節にあるように、この戒めを完璧に守れる人は誰もいません。

だからこそ私たちはイエスの義が必要なのです。イエスが私たちの汚れた着物を、染み一つないイエスの上着に変えてくださるのです。神の目から見ると、イエスだけが「十分によい」のです。

マルコの福音書で、イエスは、ご自分が道徳的な教師や奇蹟を為す者というだけではなくて、正に神の一人子であることを明らかにしようとしていました。イエスは私たちを裁くためだけに来たのではなく、私たちが罪から離れ、清くなるための道を示すために来てくださいました。

<失敗その3:恐れからの従順>

恐れからの従順をイエスは望んでおられません。そうではなくて、畏敬と感謝の思いからの従順を望んでおられます。

恐れが土台にある従順というのは、罰が怖いから従う従順です。例えばパリサイ人は、先祖たちが旧約聖書の律法にちゃんと従わなかったために、外国に捕囚となってしまったと信じていました。それは正しいと思います。イエスの時代から600年以上前に起こったバビロン捕囚は、ユダヤ人の歴史において辛い出来事でした。神の律法を確実に守るために、パリサイ人は、様々な状況を特定して、それに合わせて神の律法を解釈して、ルールを付け加えていきました。こうしてパリサイ人は、神を喜ばせ、再び罰を受けないようにと考えました。神の教えを説いて有名になっていたイエスが、パリサイ人が考えた、清さを保つためのルールを守らないので、イエスはユダヤ人を間違った方向に導いてしまうのではと、パリサイ人は危惧したのでした。

恐れというのは役立つ時もありますね。例えば夜に家の鍵をかけるとか。でも、いき過ぎた恐れ、家を絶対留守にしないとか、友達を作らないとか、極端な恐れは人生の喜びを奪ってしまいます。神は厳格に罰を与える存在だと、中には考える人もいるかもしれません。不運にあわないように、罰を受けないように、お金を寄付したり、よい行いをすることで、神の恩恵を受けようとする、それが多くの人にとっての宗教です。

時に、私たちは、神が私たちのことを喜んでいないと思って、神に近づくのをためらってしまうことがあります。「私はいいクリスチャンじゃないから。私は神様を本当に愛したことはないかもしれないから。まず、私がいい人間にならなくちゃ。」と自分で言ったりします。でも、たとえ私たちが神をがっかりさせることがあっても、神は私たちの友として、また父親として私たちに関わってくださいます。それが真実です。 私たち親というものは、子どもが行儀よくしている時は、子どもに対して優しく話します。でも行儀が悪かったら、親は怒りますね。しかし神はそうではありません。神は忍耐深く、穏やかで、私たちの弱さをご存知です。私たちが失敗した時でも、寛大なお心で私たちを正し、愛をもって語りかけてくださいます。

神は善なるお方であるという健全な恐れがある一方で、私たちは神と愛を持った交わりを持つように造られました。私たちは単に神に造られた者、神に仕える者というだけでなく、神の息子であり娘なのです。たとえ私たちがとても信心深くとも、もしも神の愛を感じないのであれば、他者に対して愛情を持てなくなるかもしれません。パリサイ人についてイエスが非難していたのは、この点です。神との愛の交わりがなくなってしまうと、神に仕えることは喜びではなくなり、怒りさえ感じるような義務になってしまうでしょう。

喜びをもって神に仕えるただ一つの方法は、神がよいお方であることを日々新しく経験していくことです。神の恵みに驚き感謝する時、神を知りたい、神に仕えたいという強い思いが湧き上がります。まず最初にイエス様が私たちに仕えてくださいました。だから私たちは神に仕えるのです。

<私たちに代わって神の戒めを果たしたイエス>

次に旧約聖書の律法について話したいと思います。旧約聖書の律法はよく、清いものと清くないものについて書かれていますね。例えば、旧約聖書の食べ物の律法では、豚肉とエビは清くないと考えられていたので、食べることを禁じられていました。(日本人にはとても辛いことですね。)

でもイエスは、旧約聖書で清くないとされていた食べ物も含めて、全ての食べ物は清いと言われました。古いしきたりにはもはや時代遅れものもあります。何故でしょうか。旧約聖書にある食べ物や清さ、動物の捧げものについての祭儀的な、お祭りのさいに、儀式のぎですね、祭儀的な礼拝時の律法は、実際のところ一時的なものだったからです。礼拝時の律法は、深い真実を表す象徴に過ぎません。これは、神が清さを求めていることをユダヤ人が理解するようになるためなのです。とりわけ、清い心をです。

イエスが最後の犠牲として十字架の上で死んでくださり、動物を捧げる古いしきたりは終わりを迎えました。イエスは、私たちに代わって、イエスご自身を完璧な捧げものとして与えることで、祭儀的律法を果たしたのです。

今日の聖書箇所でイエスがパリサイ人に語った時、イエスが、単に旧約聖書を解釈できる道徳の教師ではないことを示しました。祭儀的な律法はもはや過ぎ去ったという神の宣言と共に、イエスは権威を行使されたのです。イエスはどうやってそのように律法を変えることができたのでしょうか。それはイエスが神ご自身だからです。実際にはイエスは律法を変えたのではなくて、律法を自ら果たしてくださいました。

今日(こんにち)、私たちは旧約時代の祭儀的律法、つまり旧約時代の礼拝の決まりに従うことを求められていません。でも、今なお私たちは旧約聖書の道徳的律法には従っています。道徳的律法とは、人間関係についての律法です。旧約聖書で禁じられていた行い、例えば、嘘や盗み、子どもを犠牲にして神々に捧げること、不倫、近親相姦、同性の性的関係などは依然としてクリスチャンの間で禁じられています。道徳的律法は、お互いをどう扱うか、接するかについての決まりです。人間関係のために神がお考えになった価値やデザインに従って、他者と正しく接していくことで、私たちは心を清く保つよう求められています。

<結び>

今日の箇所からわかることは、神が私たちの心を清く保ってほしいと願われていることです。宗教的なしきたりに従うことで清くなれるのではなくて、大事なのは私たちの心です。でも、心を尽くして神を完璧に愛することや、完璧に隣人を愛することは、誰にもできないので、私たちを覆う完璧な、染み一つないイエスの義が、私たちには必要なのです。神は私たちを清くしてくださいます。それは私たちが、それに価するからではなくて、神が私たちにそばにいてほしいと思ってくださるからです。神は、恐れからではなく、利己的な利益のためでもなく、命、愛、喜びを見いだすために、みもとに来なさいと、私たちに願っておられます。

祈りましょう

全知全能の恵み深い神様 今日、み言葉に対する理解を求め、あなたの御臨在の中でひれ伏します。本当に大切なのは、私たちに入ってくるものではなくて、私たちの心から発するものであることを、主よ教えてください。人間の慣習とあなたの聖なる戒めとの違いを区別する力を与えてください。私たちの礼拝が、単なる外見上の行いではなく、真摯(しんし)な心から湧(わ)き上がる、まことなるものでありますように。私たちの心を清くないものや悪意、偽善から清めてください。私たちを清さと愛で満たし、私たちがあなたの目的と一致して生きていけるよう導いてください。私たちが義なるものと悪しきものとを見分け、人を裁くのではなく、親切を選び、日々の歩みの中でイエス様の愛を表すことができますように。私たちの救い主に従っていく中で、これらの言葉が私たちの心に根差し、あなたの栄光の実を結びますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

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