ルカ24章33節~43節 「魚を食べるのを見ていた弟子たち」

Pastor Kitazawa

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○先月(3月)の礼拝では、ルカの福音書24章を開き、「主イエスの二人の弟子たちが、エマオとういう村に向かっていた時に、途中から、主イエスが彼らに近づいて来て、彼らと共に歩き始められた。」という記事を皆さんと一緒に読んでゆきました。

・ところが、この時、その二人の弟子は、その目が閉じられていたために、何と、共に歩んでおられる方が主イエスだとは気付かなかったのでありました。

・その後、その一行は、目的地所の家の所までやって来たのですが、この二人の弟子はなぜか、その方を強く引き留めて、一同は、その家の中に入り、食卓に着いたのでした。 

・この時、弟子の二人は、その方を自分たちの客人として迎えたのではありませんでした。
彼らは、自分たちの主人として、この方をお迎えしたのでした。  主客転倒です。 

・すると、そこで彼らの閉じられていた心の目はようやく開き・・、その方が主イエスであるということに気が付いたのでありました。

・つまり聖書は、この出来事を通し、私たちにこう語っているわけです。
 「私たちは・・己を己の主人しているうちは、主が共におられることさえ気付かない。
しかし、己の主人を、己ではなく、救い主を我が主とお迎えしてゆくとき、そこから初めて、見えるべき方が見えてくる。主が共に居てくださっていることに気が付いてゆくのです・・。」
 

➀さてきょうは、この二人の弟子が、その後どうしたのか、そのことを見てゆきたいと思います。

・24章33節の所を見ますと・・、この二人が、すぐさま大急ぎでエルサレムに戻ったことがわかります。 それは、今起こったことを12弟子たちに知らせるためでした。

・するとそこには、12弟子たちとその仲間が集まっておりました。そしてこのように言っていたのでした。→「本当に、死んでいた主は、よみがえって、シモン・ペテロに、その姿を現わしてくださった。」

・これを聞いて、この二人の弟子も、こう言います。 →「そうなんです。私たちもたった今、主にお会いしたのです。」
 
・その話をしていた最中です。 
何と何と、そこに、主イエス・キリストご自身が、彼らの真ん中に立たれたのでした。 
一同、仰天します。 

・その時の弟子たちの様子を、ルカはこのように記しました。 
 →「彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。」
➁復活された主イエスを「幽霊だ!」と思ったというのですから・・ちょっと笑ってしまうのですけれども・

・しかし、この弟子たちの取り乱しているその姿を通して、聖書は私たちに、大事な大事なメッセージを届けている、そのことに気が付かなければなりません。

・考えてみますと、取り乱したのも無理はありません。 ここにいた弟子たちは、確かにイエスさまのことを最も尊敬すべき方であると思っておりました。また、この方にできないことはない。」そう思っておりました。

・しかし・・死に勝利する・・それは、彼らの想定外であったわけです。

・人は・・死の時がやってくると・・皆、例外なく、その死に飲み込まれてしまうものだ。
 それが人の定めなのだ。これは誰も動かすことのできない絶対的なことなのだ・・
彼らもまた、そういう絶望感を持ちながらも、今まで生きてきた一人一人であったのです。

・勿論、彼らには彼らなりの信仰がありました。
それは、神さまの哀れみによって人は、死んだ後に、天国に入れてもらえるかもしれない・・
そういうおぼろげな信仰、おぼろげな希望です。

・また彼らは・・その希望は・・死んでからの事・・そう考えていたのでした。

・ところがです。
主イエス・キリストは・・今正に、その死に勝利し、そのことを証するために、今、彼らの目の前に立たれたのでした。
 
・それは・・死に勝利する、そういうことは死んでからの事、そう思っていた彼らにとって、只々、仰天するしかない出来事だったのです。

・そういうわけで・・彼らは、気が動転して・・取り乱し・・何と、何と、主イエスの死の勝利を、幽霊ごとにすり替えてしまったのでした。

・一人くらい、「イエスさま。そうですか、やっぱりそうでしたか。 あなたは死に勝利されて、 私たちもまた死に勝利してゆく者になるようにしてくださるために、そのことを知らせるために、わざわざ私たちの所に来てくださったのですね。主よ、ありがとうございます!」そんな風に、神の偉大さを正面から受け止め、大喜びしていく弟子がいてもよかったのですが・・

・残念ながら、そのような者は、この瞬間は、一人もいなかったのです。

③では、そういう彼らの残念な様子を読んでいる、私たち自身はどうなのでしょうか・・

・私たちはイエスキリストの復活の聖書記事を、本当のところは、どう捉えているのでしょうか・・現実な出来事として、真正面から、まっ直ぐに捉えているでしょうか・・

・この時の弟子たちのように、幽霊話にすり替えてしまう・そういうことはないのでしょうか・・

・もう何年も前になりますが・・教会の礼拝に時々出席していた、この方は学校の教師をしておられた方ですが・・私に、正面から、クリスチャンへの皮肉を込めて、こう言われことがありました。→ 「死からの復活? そんなことを信じられたら、そりゃ嬉しいでしょう。」

・この方は、残念ながら・・キリスト教文化には興味がある。その知識もある。それだけでなく、キリスト教倫理への尊敬心もある方でした。
 しかし、信仰・・特に復活信仰の話になると、まったく心を閉ざしてしまうのでした。

・この方のように、「クリスチャンは尊敬に値する。その信仰はいろいろな人を助け励ましてきた。
 彼らはとてもすがらしい倫理観をもっている。 清潔感がある。 しかし・・キリストの復活信仰、これはクリスチャンだけの独特な考え。」このように思っておられるのでした。

・このような思いを心の中に抱いている方は、皆さんの周りにもたくさんおられるのではないでしょうか・・

・いや・・教会の礼拝を大事にしている方々の中にも、おられるかもしれません・・。

・ですから、初代教会の主イエスの弟子たちが、初めて、復活の主イエスを目の当たりにときに、「あっ幽霊だ!」としか思えなかったというのは無理の無いことだった、私はそう思います。

④ではこの時、主イエスは、「幽霊だ!」などと叫んでいる弟子たちに、どのように対処されたのでしょうか・・

・最初に、主イエスは・・取り乱しているだけの弟子たちにこう語られます。

・38節~39節の所です。そのまま朗読します。

・「なぜ取り乱しているのですか・・どうして心に疑いを抱くのですか・・
  わたしの手や足を見なさい。 まさしくわたしです。 わたしにさわってよく見なさい。
幽霊なら、肉や骨はありません。見てわかるように、わたしにはあります。」
小さな子どもを諭す(さとす)ような言い方です。

・そしてその後に主イエスは、彼らにご自身の手と足を実際に見せるのでした。

・今度は、さすがの疑り深い弟子たちも、納得したのか・・と、思いきや・・そうではなかったのでした。 ルカはその時の彼らの心の中について、こう伝えています。
 →「喜びのあまり、まだ信じられず、不思議がっていた。」

・相当疑り深い弟子たちです。大したものです。

・そういう弟子たちに対して・・主イエスは、ここで、意外なことを言い出されるのでした。

・主はこうおっしゃいます。「ここに何か食べるものはありますか?」
それを聞いたある弟子は、不思議がりながらも、一切れの魚を差し出します。

・私はこの場面が好きです。詠む度に、この場面を想像してしまいます。
43節にはこう記されています。→「イエスはそれを取って・・彼らの前で召しあがった。」

⑤それは、不思議な瞬間であったと思います。

・一同、目が点のようになっている、そういう彼らの真ん中で、イエスさまが一切れの魚を召しあがっておられる・・。

・弟子たちは、皆目を丸くしながら、そのイエスさまを見つめている・・黙って見ているというより、皆が只々ポカーンとして、魚を召しあがっているその主イエスを見つめている・・

・それはどれだけの時間だったでしょうか・・
3分程だったでしょうか・・5分程の出来事だったのでしょうか・・

・皆さんは、主イエスがここで「一切れの魚を食べ始めた」その狙いが何であったのか、もうおわかりだと思います。

・そうです。 弟子たちは、「主が魚を食べている・・」その、極々日常的なその姿を見て、ようやく、「これは現実なのだ」と実感していくことができたのでした。
 

⑥新約聖書Ⅰコリント人への手紙15章の所で、使徒パウロの口を通してこのように
語られています。

・12節―14節「キリストは死者の中からよみがえられたと、宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、言う人たちがいるのですか。
 もし、死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなったでしょう。
 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなた方の信仰も空しいものとなります。」

・ルカの福音書を記したルカの、その友人であり、初代教会の指導者であった、使徒パウロ・・彼は元々心の熱い人ですが・・この個所は、その中でも最も熱く語られている個所です。
・なぜこれほど、魂を込めて、熱く、熱く語られなければならなかったのでしょうか・・、それには、当時の教会の事情があったからです。

・主イエス・キリスト復活の出来事があってから、まだ僅か十数年しか経っていない・・まだ、主イエス復活の出来事の、生き証人が生きていた、そんな時期ですが、教会の中の一部の人たちの間では「主イエス・キリストの復活、あれは幻だったのではないか」そのように言い出す人が出てきたのです。

・そうです。人は、自分が受け入れることが出来事ない、想定外のことを聞かされた場合・・。
 たとえそれが事実であっても、なかなかそれを真っすぐには受け入れることができず・時には、それを、自分が納得する別の何かにすり替えてしまう。そういう弱さがあるのです。
 
・イエスと共に居た弟子でも、復活された主イエスを目の当たりにしたときに、「あ、幽霊だ」と言い出した・・数年後の初代教会の人たちの中から「あれは幻だったのではないか」と言い出す人が現れた・・この現象も同じでした。

・しかしこれは、初代教会の指導者であった使徒パウロにとっては最も大きな悲しみの一つでした。

⑦現代の私たちは・・勿論昔の人のように、復活された主イエスを幽霊だと言い出すとか、 幻だったのではないかと言い出す、そういうすり替えはしないでしょう・・

・しかし・・「信仰の中心は倫理道徳ではないか」と思ってします。
 「信仰とは、ようするに気休め」そういうことだと思う。
「信仰とは、要するに、一つの思想、一つの理屈だ」 このようなすり替えは、これからも、教会の内外で発生しやすいのではないでしょうか・・

・私たちは、そういうずれた方向に行かないように、聖書が、繰り返し、繰り返し、熱く、力強く、あの主イエス・キリストは本当に、死に勝利し、死人からよみがえって弟子たちの所に立たれた。と伝えている、そのメッセージを正面から受け取ってゆく、そういう一人一人でありたいと思います。

・また、その主イエス・キリストのよみがえりは・・その主を信じ、主イエスに連なっている私たち一人一人も、また、その恵みに与っている。 聖書がそこことを力強く語っていることを、きょうもう一度覚え、そのことを心に刻みたいと思います。

・もし、皆さん中に、ご自分の信仰の弱さを覚えておられる方がおられましたら。
今年こそ、その殻を破ろうではありませんか・・今年こそ、復活のいのちをいただいていることを確信して前進してゆく、そういう神の民になってゆこうではありませんか・・。

・また、幸いにも、既に復活信仰の中に置かれているキリスト者の皆さんは、神と人愛する、その歩みを一歩一歩確かに、進めてゆこうではありませんか・・。 ハレルヤ! アーメン!
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