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今日は、ミカ書から3回目のメッセージです。前回と同じテーマを選びました。特に、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか、とのみ言葉に視点をおいて話してみたいと思います。6章8節には、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義(公正)を行い、誠実(恵み)を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」とあります。
簡単に今まで学んだことを振りかえってみます。まず、公義ですが、公義とは、神の律法に基づいた正しさであることを学びました。公義との言葉には、その背景に神の律法があります。神の律法であるモーセの十戒に基づいて、世界の出来事を見て、物事を判断して、私たちは生きるのです。
次に恵み(誠実)ですが、ミカ7章18節には、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。」とあります。キリストの大きな赦しの中に私たちは生きることができるのです。そして、キリストの恵みによって救われていることを覚え、日々感謝して生きるのです。
それでは、へりくだってあなたの神とともに歩む、このテーマに入ります。ヘリくだって神と共に歩むこと、これはクリスチャンの歩むべき姿です。それは、イエス・キリストの歩んだ姿にも見いだせます。ピリピ人への手紙2章3節から9節に、このように書かれています。「何事でも、自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿を取り、人間と同じようになられたのです。キリストは、人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死ぬまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
私たちは、日々キリストの十字架の姿を仰ぎ見ます。そして、キリストが歩んだように他者を愛する者とならせていただきたいと祈る者です。へりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思う。これは信仰者のあるべき姿です。
ところで、旧約聖書の中にもへりくだって神と共に歩んだ偉大なリーダーがいます。その中の一人はソロモン王です。最も偉大な王であるソロモンは、神に謙遜な祈りを捧げたのです。その祈りを見てみましょう。第一列王3章7節から9節までには、このような祈りが書かれています。「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」と祈っています。彼は謙遜になって、聞き分ける心を求めたのです。
神は、ソロモン王に夢の中でこう語られました。あなたに何を与えようか。願え。(5節)と。 6節には、「ソロモンは言った。あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵を施されました。それは、彼が誠実と正義と真心ともって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。」と書かれています。皆さん、このソロモンの言葉の中にダビデ王の姿が簡潔に描かれています。ダビデ王は、誠実と正義と真心を持ってあなたの御前を歩んだとあるのです。ダビデも、神の恵みを愛し、モーセの十戒に基づいた正義を行うことを目指したのです。
私たちは旧約の中にも、このようにへりくだって歩む偉大な者たちを見ることができるのです。ソロモン王は、箴言の中で、このような約束を与えています。箴言22章の4節です。「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」とあります。皆さん、謙遜になって、神を恐れて生きようではありませんか。これは、ソロモン王が学んだ神の知恵です。そのように生きる者こそ、富と誉れと命が溢れると、ソロモン王は気づいたのです。このように旧約の中にも良き例が与えられています。キリストも謙遜な歩みをしました。また、ダビデにおいてもソロモンにおいても、そのように神の前にへりくだって、謙遜に歩んだのです。
マタイの福音書11章28節から30節には、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と書かれています。イエス・キリストご自身が、私は心優しくへりくだっているからと語っています。この方が、すべての人を、特に疲れた人、重荷を負っている人を招いています。わたしが、あなたがたを休ませてあげますと語りかけています。私たちは、様々な出来事で心を痛んだりします。ここで大切なのは、キリストから学ぶことです。そして、キリストのくびきを負って歩む、そのことを決断することです。くびきとは、2匹の牛をつなぐ道具であり、よく慣れた訓練された牛と、まだ慣れていない牛が一緒につながれて、共に畑を耕すのです。私たちのクリスチャンの人生は、1人で歩む人生ではありません。キリストと一緒に歩む人生です。キリストから教えられ、そして導かれて歩むのです。主イエスに人生を委ね、一緒に歩んでくださいと祈るのです。心配も、過去の痛みもキリストに全てゆだねて、この方から慰めや励ましをいただきながら歩む。それがクリスチャンの生き方です。わたしから学びなさい。そうすれば、魂に安らぎが来ます、とあるのです。ミカが語った御言葉が、キリストと共に生きる生き方へと発展しています。キリストと共に生きる時に、神の助けを受けて、あなたの賜物に気づかされ、その賜物を用いて、あなたは、この社会で力強く生きるようになるのです。
ヨハネ13章では、弟子の足を洗ったイエスの姿が描かれています。イエスが13章4節と5節で、「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」とあるのです。私たちの足を洗ってくださる方、それはイエス・キリストです。それだけでなく、私たちの心を清めてくださる方、イエス・キリストはそのようなお方です。そして、私たちの主イエスは、14節で、「それで、主であり師であるこのわたしが、あなた方の足を洗ったのですから、あなたもまた互いに足を洗う洗い合うべきです。」と私たちに語りかけておられます。クリスチャンは、キリストとともに謙遜な歩みをします。そして、それは、あなただけで留まらないのです。キリストが共にいるので、この新たな生き方が私たちを通して私たちの家族に、また社会に広がっていくのです。これがクリスチャンの人生です。
謙遜になって、キリストと共に歩む。これは決して優しいことではありません。イスラエルの民も、私たちは幾千の雄羊、幾万の油をあなたに捧げてきたではと、自らの歩みを誇っています(ミカ6章7節)。しかし、私が今ここに生かされているのは神の恵みです。そう気づいて、心からの賛美と礼拝を神に捧げる者でありたいと私は心から願います。
小さな子供たちの姿を見るたびに、私たちに語られたキリストの言葉、「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18章4節)」とのみ言葉をいつも心に抱いて、歩んで参りましょう。
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