↓メッセージが聞けます。(日曜礼拝録音)
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・パウロは、先ず、今までの宣教活動について、自分は全力で主に尽くしてきたことを語った後、今、自分はエルサレムに戻る途中であることを長老たちに伝えます。
・そして、パウロは、その長老たちに、「私は、神のご計画の全体をあなたがたに余すところなく語って来たので」勇気を持つようにと励ますのでした。
・このお別れのメッセージが終わると、パウロとその長老たちは、ひざまずき、祈りの時をもったのでした。
・祈りが終わると・・長老たちは皆、声をあげて泣き、パウロの首を抱いて、幾度も口づけするのでした。
・それは、パウロがこのメッセージの中で、「二度と私の顔をみることはないでしょう」と彼らに語ったからでした。
・長老たちは、パウロが、自分がエルサレムに帰れば殺されることになる、と知っていて、彼が死を覚悟しているということがわかったのでしょう・・。
・私は、この個所を読みます時に、いつも思います。
「何と悲しい別れの場面なのだろう・・聖書の中で、ここが一番悲しい場面かもしれない・・」
➁しかしです。 使徒パウロが語っている、このお別れの説教の、その内容を・・もう一歩深く読み込んでゆきますと・・
・その悲しい内容の中に・・、人として、これ以上ない喜びの告白がある、ということに、気が付かされるのです。
・「いったい、どこに、そのようなところがあるのか・・」そう思われるかもしれませんが・・20節の言葉の中にあるこの言葉に注目していただきたいのです。
・ここです。→「いま私は、心縛られて、エルサレムに上る途中です。」
この、「私は、心縛られて・・」ここです。
・ある方は、「え?」・・「いま私は心縛られている」とパウロが言っている、そのどこが喜びを告白しているのですか?」 そう思われるかもしれません。
・この時のパウロの心の中を察してみますと・・彼は、きっと、自分が育てた、この愛する長老たちとずっとずっと一緒に居たかった、と思います。
・また彼は、この後、エルサレムに帰れば、そこには、危険な出来事が必ず待っているということを重々知っていましたから、「わざわざ自ら、その危険に身をさらさなくてもいいのではないだろうか・・もう少しここにいて、安全な老後の生活をしていても、神さまはゆるしてくださるのではないだろうか・・」そういう思いが心のどこかにはあったのではないか・・
私はそう思うのです。
・しかし彼は、こう言うのでした。
「いま、私は心縛られて、エルサレムに行かないではおられないのです。」
③話が変わりますが・・
皆さんは、教会に、初めてこられたとき、心配とか、不安はなかったでしょうか・・
・私はありました。
・それは・・教会に行ったりすると自由がなくなってしまうのではないかという心配です。
・しかし実際に教会に行ってみると、そこにおられた宣教師の先生は、たいへん明るく・・
私よりよっぽど自由な方でありました。
・しかし、しばらくは警戒心がありました・・何か、「こうしなければならないとか・・」
「こうしてはならないとか」そういうことを言い出してくるのではないか・・そして、自由がなくなってゆくのではないだろうか、そういう恐れです。
・教会に来て間もない方は、このような心境をお分かりだと思います。
・もし、初めて教会に来られて、まだ間もない方が、きょうのような聖書個所を読むことになったとしたら・・どうでしょうか・・
・昔の私なら、すぐこう思うと思います。
「ほらきた!」 「やっぱり信仰に生きるという人は、心が縛られているのだ!」
・しかし、それは大きな誤解です。
ここで使徒パウロは、そんなことを言っているのではないからです。
④では・・使徒パウロがここで「私は心を縛られている」と言っているのは、いったいどういう意味なのでしょうか・・
・結論から申し上げますと・・実は、ここは、使徒パウロが、自分と主イエス・キリストとの、言葉に言い尽くせない、深い愛の関係のことを言っているところなのです。
・皆さんは、強く深い愛の関係が成立すると・・その喜ばしい関係故に・・自分の心が心縛られてくる・・そういうことをお感じになったり、お考えになったりしたことはおありでしょうか・・。
○この小さな信仰者の私の話をしても、それは、この使徒パウロと比べれば、お話にならないほどの低レベルの話なのですが・・
・きょうは恥を忍んで、あえて自分の私生活から「私もまた、心を縛られている」ということを感じる、その小さな事例をお話ししてみたいと思います。
・実は、この私にも、愛の関係からくる、心を縛られている、という現象があります。
それは一つや二つではありません。小さいものばかりですが、たくさんあります。
・両親はもうおりませんが・・我が妻との関係から・・孫たちとの関係から・・嬉しい心の縛りがあります。
・たとえば、私は朝起きますと、近所のごみ収集場にごみを捨てに行った後、家に帰り、エアコンやその他の温度調整をし、そして、朝食を作り始めます。
・超働き者の妻に、「せめて朝食だけでも、私が作らなければ・・」そう思って始めたことです。
・料理などの家事をするのは、まったく好きではありませんからこれは趣味でもありません。
またそういうことをしてゆく義務感や責任感もありません。また、本当は奥さんが怖くて、その恐怖感でやってるのではないかと疑う人がいるかもしれませんが大間違いです。
・朝起きると・・私には、なぜか・・、そうせずにはいられなくさせている、そういう力が働いてくる・・ としか言いようがないのです。
これが、妻を思う、私の、小さな心の縛りです。
・まあ、私たち夫婦のことなど、どうでもいい話ですが・・
・ここで、使徒パウロは、主イエス・キリストの圧倒的なその愛に包まれている者として・・私は、その御心に従って生きてゆく・・そうせずにはいられない、そういう力・・聖霊の力が私に働いている・・。 私の心は、その愛の力に縛られているのです・・。
使徒パウロはそういっているわけです。
⑤私は、この聖書個所から、使徒パウロの心の叫びが聞こえてくるのです。
・そうです。使徒パウロは、ここで当時の教会の長老たちへ・・そして、現代の教会で礼拝している私たちへ・・心の中でこう叫んでいるのです。
・「私の様に、主イエス・キリストの愛により心が縛られている、そういう者は、死の恐れさえも二の次の事になるのです。」
・「自ら十字架に掛かり、私の罪を赦し、私たちに真のいのちを与えてくださった、愛する主イエスの、御心に従うことの方が、私の地上での命のことなどよりも、はるかはるかに大切な事だからです。」
・「主イエス・キリストと、そういう特別な愛の関係にある自分は、何と幸いな人間でしょう!」
「皆さんも、私と同じように、幸いな人間になってください!」
・私は、使徒パウロが、ここまで、主イエス・キリストを愛していたこと・・
ここまで、主イエスの愛を信じていたことに驚き・・そして、本当に羨ましく思うのです。
・<愛する方のために、そうせずにはいられない・・> そういう信仰者へ・・
今年も、一歩一歩、信仰から信仰へと、前進してまいりましょう・・。
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