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今日は、宗教改革の「五つのソラ」についての第3回目のメッセージです。
先月は、ラテン語で「信仰のみによって」という意味の「ソラ・フィデ(sola fide)」についてお話ししました。私たちは、自分の行う良い行いによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われます。
しかし、その信仰はどこから来るのでしょうか。信仰は、私たち自身の選択や努力によって生まれるものなのでしょうか。
この問いに答えるのが、「ソラ・グラティア(sola gratia)」です。「ソラ・グラティア」とは、「恵みのみによって」という意味です。この教えによれば、私たちがイエスを信じる信仰そのものも、神の恵みによるものです。信仰は神からの賜物であり、私たちが自分の力で生み出したり、自分の力だけで選び取ったりできるものではありません。このことについて、エペソ人への手紙2章1節から10節を読んでみましょう。
まずお祈りして始めましょう。
【聖書朗読:エペソ人への手紙2章1~10節】
<救いについての異なる考え方>
以前、欧米で広がっている一つの傾向についてお話ししました。それは、福音派のキリスト者の中で、ローマ・カトリック教会や東方正教会に改宗する人が増えているという傾向です。この傾向について、キリスト教のメジャーな雑誌『クリスチャニティ・トゥデイ』にこのような記事が載っていました。
「多くのプロテスタント信者は、自分たちが何を信じているのか、また、なぜ宗教改革が不可欠な改革であったのかを、十分に理解していないのではないか。……もしプロテスタントの本来の教えから離れてしまったら、救いは人間の功績によらず、神の恵みによるものだという聖書の教えは、失われてしまうのではないか。」
つまり、プロテスタントの教えを捨てることは、救いの確信を失うことにつながるのではないかと、この記事の著者は懸念していました。
プロテスタント、カトリック、東方正教会のいずれであっても、すべてのキリスト教は、神の恵みという考え方を信じています。しかし、救いはただ恵みによるものであり、それ以外に何も付け加える必要がない、と教えるのはプロテスタントだけです。プロテスタントにとって、救いは最初から最後まで、100パーセント神の恵みによる御業なのです。
それに対して、カトリック教会や正教会は、救いは神の恵みだけによるものではなく、人間が神に協力し、応答することも必要であると考えています。
なぜプロテスタントは、救いや恵みについて異なる考え方を持つようになったのでしょうか。その答えを知るために、500年前のマルティン・ルターの時代だけでなく、千年以上前の聖アウグスティヌスの時代まで歴史をさかのぼってみましょう。
<聖アウグスティヌスの考え方>
聖アウグスティヌスは、紀元5世紀の神学者でした。彼は、有名な著書「告白」の中で、自分自身を変えたいと強く願いながらも、どうしても変えることができなかった経験を語っています。彼は、快楽や社会的な地位、その他さまざまなものを求める欲望に縛られていました。そして、このような自分の状態は、「原罪」によるものだと考えました。
原罪とは、最初の人間であるアダムとエバが罪を犯したとき、その罪によって、人間の本性そのものが変わってしまった、という考え方です。その結果、アダムの子孫である私たちの心は、生まれながらにして、創造主である神から離れてしまいました。私たちには、今でも良いことを行う能力があります。しかし、神を愛することを自分から選び取るという、生まれながらの能力は原罪により失われてしまったのです。
この世界には、たくさんの「良い人」がいます。神を信じていなかったり、特定の宗教を持っていなかったりしても、すばらしく親切で、道徳的に正しい生き方をしている人は大勢います。しかし、キリスト教の観点から見ると、最も大切なのは、そのような意味でどれほど「良い人」であるかではありません。最も大切なのは、私たちを造られた神との関係です。神との関係は、私たちの存在にとって、最も根本的で大切なものです。ところが、原罪のために、私たちは生まれながらにして、その最も大切な神との関係を拒んでいる現実があります。考えてみれば、アダムとエバが最初に犯した罪は、本質的には、神の言葉に「従わない」と決めたことでした。
このように、私たちは良い行いをすることはあっても、罪の力のために、神を愛することを自分の力で選ぶことはできません。神がそれを可能にしてくださらない限り、できないのです。ですから、アウグスティヌスは、「あなたが命じられることを、行えるようにしてください。」と祈りました。 言い換えれば、「神様、あなたが命じられることを行えるように、私に恵みをお与えください。」という祈りです。何が正しいかを知っているだけでは十分ではありません。それを実行する力も必要なのです。そして、私たち人間は、創造主である神を認め、愛することが、自分自身の力ではできないのです。
しかし、ペラギウスというイギリス出身の修道士は、アウグスティヌスの教えに反対しました。彼は、その教えによって、キリスト者が受け身になってしまうことを懸念しました。ペラギウスは、「もし神がその力を与えてくれなければ、私たちが神に従うことができないのだとしたら、そもそも私たちは努力する意味があるのだろうか。」と主張しました。
アウグスティヌスとは違い、ペラギウスは、アダムの罪は悪い手本を示しただけで、人間の本性そのものを堕落させたわけではない、そして人間には神に従うことを選ぶ、生まれながらの自由が今も備わっていると考えたのです。そして、神の恵みは、私たちが良い人間になろうと努力するときに、その努力を助けてくれる、補助的なものにすぎないと主張しました。
やがて教会は、ペラギウスの教えを退けました。そして、神の恵みは単なる補助ではなく、私たちにとって必要不可欠なものであると認めました。しかし、その後も教会は、何世紀にもわたって、「神の恵みは、実際に私たちの中で何をするのか。」「救いの過程において、人間の選択の役割は何か。」というような問題について考え続けることになりました。
ここで登場するのが、宗教改革で最もよく知られている人物、マルティン・ルターです。
<マルティン・ルターの考え方>
ルターは16世紀の修道士で、アウグスティヌスの著作を深く研究していました。当時の宗教制度について、ルターは大きな疑問を感じ、苦しんでいました。カトリック教会は、救いは神の恵みによるものだと教えていました。しかし、教会は人々に多くの義務を課していたので、恵みがその下に埋もれてしまっていると、ルターは感じました。当時の教会では、罪を正しく告白し、十分に償いの行為をして、定期的に聖餐式のような儀式を受けるなどしなければ、救われないと教えていました。そして、それらを十分に行わなければ、救いを失うことさえあると教えていたのです。
では、自分の罪に苦しむ人は、どこに慰めと救いの確信を見いだせばよいのか。
ルターは、その答えを二つのところに再発見しました。一つはアウグスティヌスの著作であり、もう一つは聖書、特にパウロの手紙でした。
ルターは、神が何を望んでおられるかがわからないことが人間の問題ではないと、アウグスティヌスから学びました。むしろ、神が何を望んでおられるかを知っていながら、それを行うことができないことこそが、私たちの問題だと考えました。私たちは、神によって変えていただくことが必要なのです。そしてルターは、パウロの教えから、ただイエスを信じる信仰だけが、神の御前で私たちを義とすることができると学びました。
しかし、ここでもう一つの疑問が生まれます。その信仰は、どこから来るのでしょうか。
信仰は、私たち自身の選択によるものなのでしょうか。神が救いを用意してくださり、私たちが信仰を差し出すのでしょうか。
ルターの答えは、「いいえ」でした。ルターは、『奴隷意志論』という著書の中で、罪のゆえに、人間は自分の意志で神に向かうことができない、と主張しました。私たちは、自分自身の意志の力によって、イエスを信じることはできないとルターは考えたのです。
これはまさに、パウロがエペソ人への手紙2章1節で語っていることです。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって…」。そして4~5節の素晴らしいみことばに続きます。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、—あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」
病気の人であれば、ある程度は自分で何とかできるかもしれません。しかし、死んでしまったら、どうにもできません。私たちは、単に霊的な病気にかかっていたのではなく、霊的に死んでいました。神の恵みは、私たちを少し助けるだけのものではありませんでした。神の恵みによって、私たちは死からよみがえる必要があったのです。
パウロは、8節と9節でも、このことを改めて強調しています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
これこそが、「ソラ・グラティア」の中心となる教えです。私たちがイエスを信じる信仰は、神からの賜物として与えられるものなのです。救いは、最初から最後まで、すべて神が私たちのためになしてくださることです。私たちが神のために何をするかによるのではありません。
<「ソラ・フィデ」と「ソラ・グラティア」の違い>
前回の「ソラ・フィデ」についてのメッセージを聞かれた方は、「ソラ・フィデ」と「ソラ・グラティア」は、同じことを言っているように感じるかもしれません。確かに、どちらも、私たち自身の努力によって救いを得ることはできないと教えています。しかし、この二つには違いがあります。
「ソラ・フィデ」信仰のみによって、はどうしたら救われるかという救いの方法についての教えです。一方、「ソラ・グラティア」恵みのみによって、は救いの源についての教えです。「ソラ・フィデ」は、私たちがイエスを信じる信仰によって救われることを教えています。それは、信仰によって私たちがキリストと結ばれ、キリストの義を受け取るからです。一方、「ソラ・グラティア」は、私たちが神の恵みによって、そして神の選びによって救われることを教えています。イエスを信じることは、確かに私たち自身が行う選択です。しかし、神の恵みによって、私たちはイエスを信じる選択ができるのであって、自分の力ではその選択をすることができません。神の恵みなしには、私たちは自分の救いのために何一つできないのです。
ここで、子どもが父親に、「パパ、抱っこして!」と言っている場面を想像してみてください。「ソラ・フィデ」が教えているのは、私たちは自分の力で地面から神の腕の中へと上がることはできない、ということです。神ご自身の力で、私たちを抱き上げていただく必要があるのです。
では、今度は、子どもが父親に「あなた、だれ? ママがいい!」と言っている場面を想像してみてください。「ソラ・グラティア」は、私たちもこの子どものような存在だと教えています。初めのうちは、私たちは天の父なる神を求めようとしません。
しかし、神のほうから先に働きかけ、私たちを抱きしめようとしてくださるのです。そして、天の父を求める思いを、私たちの心に与えてくださいます。私たちが神を愛する心も、神からの賜物なのです。もちろん、その後の私たちがどういう選択をしていくかによって、神への愛を深めることもあれば、反対に、その愛を弱めてしまうこともあるでしょう。
<恵みがあるからといって、罪を犯してもよいのか>
ここまで、信仰によってのみ「ソラ・フィデ」と恵みによってのみ「ソラ・グラティア」について説明してきました。ここで、この二つのプロテスタントの教えに対して、カトリックの人々が抱く二つの懸念についてお話ししたいと思います。
一つ目の懸念は、次のようなものです。「私たちが良い行いをしたとしても、救いに何のメリットももたらさないというなら、罪を犯してもかまわないんじゃないか。だって、神の恵みがあるのだから。」という考えも出てくるのではということです。
これは、確かに深刻な問題です。実際に、プロテスタントの教会の中には、過度に恵みを強調する教会があります。この教えでは、私たちの罪はすでに赦されているのだから、キリスト者が悔い改め、罪の告白をし、神に従うことは、もはや大事なことではないとされます。
しかし、これは聖書が教える恵みではありません。ローマ人への手紙6章1~2節で、パウロは次のように語っています。「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。」
神の恵みは、単に私たちの罪を赦し、その後は何も変えずに放っておくものではありません。神の恵みは、私たちを義とするだけでなく、時間をかけて少しずつ私たちを変えていくのです。
パウロは、ピリピ人への手紙2章12~13節でも、次のように語っています。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」
ここで注目したいことは、パウロは 「救いを得るために励みなさい」と言っているのではなく「すでに与えられた救いを成し遂げなさい」と言っている点です。私たちはキリストに似た者へと成長していくために、自発的に神に従うことを選び取っていくのです。その成長も神の恵みによって可能とされるのです。
<洗礼と聖餐は必要なのか>
カトリックの人々が抱くもう一つの懸念は、プロテスタントが洗礼や聖餐などの儀式を十分に大切にしていないのではないか、ということです。もし洗礼や聖餐によって救われるわけではないのなら、なぜそれらをわざわざ受ける必要があるのでしょうか。
これも、確かに考えるべき問題です。というのも、教会の中には、洗礼や聖餐は単なる象徴にすぎないと教えるところがあるからです。言い換えれば、私たちが洗礼や聖餐を受けるのは、ただイエスがそうするように命じられたからであって、それらを通して霊的に何かを受け取るわけではない、という考え方です。
しかし、これは従来のプロテスタントの考え方ではありません。マルティン・ルターのような宗教改革者たちは、洗礼や聖餐を重要ではないと考えていたわけではありません。彼らが主張したのは、洗礼や聖餐によって、自分の力で救われることはないというものでした。
むしろ宗教改革者たちは、洗礼や聖餐を、神の恵みを受けるための通常の手段であると考えていました。つまり、神がそれらを通して、私たちに恵みを与え、また、その恵みを私たちの内に強めてくださるということです。これは、洗礼や聖餐が、単に私たちが神のために行うことではない、という意味です。それらは同時に、神が私たちのためになしてくださることでもあるのです。
例えば、洗礼と聖餐について語られたイエスの言葉を、ルターは、非常に真剣に受け止めていました。洗礼は、単にすでに起こったことを象徴するものではありません。神は洗礼を用いて、罪の赦しと新しいいのちを与えてくださるのです(使徒の働き2章38節、ペテロの手紙第一3章21節)。同じように、聖餐も、単にイエスの死を思い起こすためだけのものではありません。パンとぶどう酒をいただくときに、私たちは、キリストが本当に私たちと共におられることを経験し、キリストご自身を受け、キリストによって信仰を強めていただくのです。
洗礼と聖餐は、神の約束が、目に見え、手で触れることのできる形で示されたものです。
これは特に、疑いや不安に苦しんでいるキリスト者にとって重要なことです。神は、ただ言葉で「あなたを赦します」と語られるだけではありません。その赦しを目に見える形で示し、約束するしるしとして、洗礼を与えてくださるのです。だからこそルターは、自分の罪に苦しんでいるキリスト者たちに、自分が受けた洗礼を思い起こすよう勧めました。私たちは、自分の洗礼を振り返り、「神は、私の罪が赦されていることを約束してくださったのだ。」と思い起こすことができます。
ここまでの話をまとめましょう。「ソラ・グラティア」(恵みのみによって)は、洗礼や聖餐が必要ないという意味ではありません。確かに、救いは恵みのみによるものです。しかし神は、その恵みを私たちに与えるために、洗礼や聖餐という特別な方法を選びました。そして、もう一つ、恵みを受ける方法が、神の御言葉です。ローマ人への手紙10章17節には「信仰は聞くことから始まり…」とあります。神の御言葉が宣べ伝えられるとき、神はその御言葉を用いて、私たちの内に信仰を生み出し、また、その信仰を強めてくださるのです。
さて、このメッセージも終わりに近づいてきたので、プロテスタントとカトリックの考え方の違いをまとめたいと思います。
カトリックでは、救いのためには、神の恵みと人間の協力の両方が必要であると教えています。そして、キリスト者であっても、救いが必ず保証されているわけではないと考えています。一方、プロテスタントでは、神の恵みだけが救いに必要で、その恵みだけで私たちは救われると教えています。もちろん、人間は神に従うことで、神の働きに協力すべきです。しかし、神への従順は救われるための条件ではありません。むしろ、神への従順は、すでに救われていることの証しなのです。
<伝道における意味>
最後に、もう一つ質問をしたいと思います。もし信仰が、完全に神からの賜物であるならば、私たちは、まだイエスを信じていない人々に、イエスの福音を伝える必要があるのでしょうか。私たちには、その人たちの心を変えることはできないのに、それでも福音を伝える必要があるのでしょうか。
答えは、「はい」です。私たちは、福音を伝えるべきです。確かに、人の心に信仰を生み出すことができるのは、神だけです。
イエスは、ヨハネの福音書6章44節で「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」と言っています。
しかしイエスは同時に、マタイの福音書28章19節で「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命じました。神は、この働きを私たちと共に進めたいと願っておられるのです。思い出してみてください。私たち一人ひとりがイエスを知るようになったのは、だれかが私たちにイエスのことを伝えてくれたからです。たとえ最初に夢や幻を通してイエスと出会った人であっても、その後、ほかのキリスト者を通して、イエスについてさらに学ぶ必要がありました。
ですから、私たちは、イエスの「行って、弟子としなさい」という言葉を、人生における自分たちの使命の一つとして受け止めるべきです。そのためには、人々との関係を築き、その人たちのことをもっとよく理解し、悩みや心配事に耳を傾ける必要があります。
そして、その人たちがイエスと出会うために、どのような形で助けることができるのかを考え、ふさわしい方法が与えられるように祈ることが大切です。
同時に、私たちは安心することもできます。なぜなら、人を信仰へと導くことができるのは神だけであり、神にはそれを実現する力があるからです。その結果は、神にお委ねすることができるのです。ですから、あきらめないでください。そして、だれかが救われるかどうかは、自分にかかっているのだと思わないでください。ただ、忠実にイエスの証人として歩んでください。そして、神にしかできないことを、神がなしてくださるように祈りましょう。
<結び>
「ソラ・グラティア」は、神の恵みがなければ、私たちは神を知ることも、神を求めることも、神を選ぶことも、そして救われることも、できないと教えています。神は、どれほど深く私たちを愛してくださっていることでしょうか。神のほうから最初の一歩を踏み出し、私たちを抱きしめようとしてくださったのです。
神は私たちを選んでくださいました。そして、私たちが何をしたとしても、神から私たちを引き離すことはないのです。
最後に、お祈りしましょう。
神様、あなたの助けがなければ、私たちはあなたに喜ばれることを何一つ行うことができません。どうか聖霊が、あらゆることにおいて私たちの心を導き、治めてくださいますように。聖霊とともに、唯一の神として今もとこしえに生きて治められる、あなたの御子、私たちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。
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