(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)
ニケア信条についてのシリーズも、今日が最後のメッセージになります。
この半年のあいだ、私たちは信条にまとめられている信仰の大切な真理、つまり神がどのようなお方か、キリストが何をしてくださったのか、そして教会として私たちが何を信じているのかなどについて一緒に見てきました。
ニケア信条の最後には、こう書かれています。
「私たちは、死人のよみがえりと、来るべき世のいのちを待ち望みます。」
今日のメッセージは、この「よみがえり」と「来るべきいのち」の二つについてです。そして最後に、今私たちが経験している苦しみ、特に病について少し分かち合いたいと思います。
まず祈りましょう。その後で立って、一緒に信条を唱えましょう。
(ニケア信条の唱和)
<信仰の要 復活>
死者の復活は、キリスト教において決して小さな教えではなく、信仰の土台となる大切な真理です。使徒パウロは、このことを第一コリント15章14節ではっきりと語っています。 「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」
もし復活がないのなら、イエスが神の子であるなどの主張を、信じる理由がなくなってしまいます。同じ章でパウロはさらにこう書いています。「アダムによってすべての人が死んだように、キリストによってすべての人が生かされるのです」(15章22節)。 つまり、死はアダムの罪を通して人類に入りましたが、復活はアダムの子孫であるイエス・キリストを通してもたらされるということです。
また別の手紙でパウロはこう言っています。 「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです」(第二コリント4章14節)。 イエスは、復活して栄光のからだを受けた最初の方なのです。
<私たちもよみがえる>
そうです。私たちもいつの日か、よみがえり、からだが新しくされます。クリスチャンはよく、「救いとは罪の赦しであり、魂が天に行くこと」と説明します。しかし私たちのからだの復活もまた、神の救いのご計画の一部なのです。
神学について語るポッドキャスト(インターネットの音声配信)を私は聞くことがあるのですが、そこである教授がこんな問いを投げかけていました。 「もし罪の赦しだけでよいのなら、キリストが十字架で死なれただけで十分だったのではないだろうか。なぜわざわざ“キリストはからだをもって、”復活する必要があったのだろうか?」
その答えとして、13世紀の哲学者 トマス・アキナス の考えが紹介されていました。アキナスは、復活についてのパウロの教えをこう説明しています。 「人は死ぬとき、魂はからだから離れる。しかし、それは“あなた全体”ではなく、“あなたの一部”にすぎない。魂が再びからだと一つになる復活の日にこそ、あなたは完全なあなたになるのだ。」
キリスト教は、実はとてもからだを大切にする信仰です。聖書の最初の書である創世記には、神が人間のからだをご覧になり、とてもよいと喜ばれたと書かれています(創世記1:31)。
これは、古代の多くの考え方とは対照的です。昔の思想の中には、「からだは悪いものだ」「重荷だ」「魂を閉じ込める牢屋のようなものだ」と考えるものもありました。しかし神は、魂だけでなく、からだも救おうとしておられます。からだは悪いものではありません。神ご自身が人となり、私たちのあいだに住まわれました。(ヨハネ1:14)。そしてイエスが復活されたとき、それはただの霊ではなく、肉と骨を持ったからだとしての復活でした(ルカ24:39)。
イエスは、魂の問題である罪や、神から切り離されてしまうことから私たちを救い出してくださるだけでなく、物理的な問題である死からも救いだしてくださいます。罪は、いのちの源である神と私たちとの関係を断ち切りました(イザヤ59:2)。 その結果が死です。ですからローマ6章23節に「罪の報酬は死です」とあります。しかし、イエスの復活によって、神は死を打ち破り、朽ちることのないいのちを明らかにしてくださいました(第二テモテ1:10)。
<復活のからだはどのようなものか>
では、私たちの復活のからだは、どのようなものなのでしょうか。聖書は、それはキリストの復活のからだに似たものになると教えています。 ピリピ3章21節にはこうあります。「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
コリント人への第一の手紙15章には、このことについてさらに詳しく書かれています。
その中から、2か所読みます。 第一コリント15章42節から44節には、「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。」
そして54節にはこうあります。「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。」
つまり、こういうことです。復活のからだは、決して朽ちることがなく、決して死ぬこともありません。それは、終わることのないいのちにふさわしいからだとなるのです。
同時に、今のからだと復活のからだには、継続性があります。ヨハネの福音書20章を見ると、復活されたイエスの手には、十字架で打たれた釘の跡が残っていました。 またパウロは、コリント第一15章で「種」のたとえを用いています。ですから、
今の私たちのからだは“種”のようなもので、復活のからだは“花”のようなものなのかもしれません。DNAは同類でも、花は種よりも、はるかに美しく、栄光に満ちています。
<永遠のいのちとは何か>
では次に、こうして新しくされたからだをもって、私たちはどのようないのちを生きるのかについて考えてみましょう。
古代の哲学者、たとえば プラトン の流れをくむ人たちは、輪廻転生(りんねてんせい)のような考えを持っていました。ヒンドゥー教や仏教にも、そのような考えがあります。 しかし、クリスチャンの希望は、
輪廻転生や苦しみのサイクルから逃れることではありません。私たちが望むものはそうではなく、真実で完全で神と共にある永遠のいのちです。ここで大切なのは、それが「神とともにあるいのち」だということです。なぜなら、神こそが、すべての良いものの源だからです。
イエスは、永遠のいのちについて、ヨハネ17章3節でこのように語りました。 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」ここで興味深いのは、永遠のいのちがただ長く生きることとしてではなく、「ある方を知ること」として語られていることです。つまり、永遠のいのちとは、神との親しい交わりそのものなのです。
私たちは、この神との関係を、すでに今、少し経験することができますが、それが完全に与えられるのは、来るべきいのちにおいてです。パウロは第一コリント13章12節でこう書いています。「…その時には顔を顔とを合わせて見ることになります。」。 またヨハネは、第一ヨハネ3章2節で、「しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」と書いています。神と完全に出会うとき、私たちは更に神に似た者へと変えられていくのです。
<新しい天と地はどのようなものか>
では、「新しい天と地」はどのようなものなのでしょうか。黙示録21章には、来るべきいのちについて多くのことが書かれています。
たとえば1節と2節を見ると、これまでのように「天」と「地」が別々のものではなくなることが示されています。 私たちが地上を離れて神がおられる天に行く、というよりも、天のほうが地に降りてくるのです。そして神は、この世界をいったん消してゼロから作り直すのではなく、この世界を癒し、新しくし、完全なものとして回復してくださると、私は理解しています。
3節と4節には、こう書かれています。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」そこには、もはや混乱も、苦しみもありません。
この新しい天と地については、旧約聖書にも語られています。時間があれば、イザヤ書65章もぜひ読んでみてください。ここでは、2つだけご紹介します。
22節にはこうあります。「わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。」(口語訳: わが選んだ者は、その手のわざを長く楽しむからである。)
今の私たちの世界では、一生懸命働いても、その実りを十分に味わえないことがあります。生活のために働きながらも、その「生活」を楽しむ余裕がないこともあります。また、仕事がむなしく感じられたり、必要以上に大変だったり、報われないと感じることもあります。これは、創世記3章でアダムとイブが罪を犯したあとに与えられた神の裁きが一つの理由です。
しかし、来るべきいのちにおいては、私たちは満たされるのです。
もう一つは、イザヤ65章25節です。「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない、と主は仰せられる。」 そこには、すべてのものが調和し、完全な平和が満ちています。
これは、ただ一時的に苦しみが和らぐということではありません。すべてのものが完全に変えられる、永遠の回復です。パウロはローマ8章18節でこう語っています。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」 さらに21節では、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」と言っています。
そして、このすばらしいいのちにあずかる道は、神が遣わしてくださったお方、イエスに耳を傾けることです。イエスはこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)。
<「すでに」と「まだ」>
もしあなたがイエスに向かって、「あなたを信じます。あなたが約束してくださったいのちを求めます」と言うなら、永遠のいのちは、もう今ここから始まります。 神を知り始め、神があなたを少しずつ変えてくださり、そしてキリストが再び来られるときに、そのいのちのさらなる希望を持つことができます。
今、私たちはイエスの最初の来臨と再臨の間の時代に生きています。神学ではこの時期を「すでに、神の国が到来しているが、まだ完成していない」過渡期の時代としています。「すでに」と言われるのは、キリストがすでに罪と死に勝利されたからです。同時に「まだ」と言われるのは、私たちが今もなお、罪や苦しみ、病、そして死を経験しているからです。完全な癒しは、まだ来ていないのです。
先月、我が家では家族全員が順番に胃腸炎にかかってしまい、3週間も続きました。 家族4人が入れ替わり立ち替わりで体調を崩してしまったのです。私は立ち上がると吐き気があり、一日中ベッドに伏せる日もありました。10分おきに激しい腹痛があり、うんうんとうなっていたら、妻からは「まるで女性の出産みたいなうなり声だね」と言われました。その冗談で、具合がさらにひどくなった気がしました。それに私のベッドの周りで子どもたちは悪気なく遊び、私のお腹にぶつかってくるので、胃腸炎で痛むお腹が余計に痛みました。
そんなとき、詩篇77篇のことばが慰めになりました。この詩の作者はこう言っています。
「苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。あなたは、私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、もの言うこともできない。」(2〜4節) この苦しみはいつ終わるのだろうか、と作者は問いかけます。 しかし5節には、「私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。」 とあり、神がこれまでどのように助けてくださったかを思い出していくのです。
苦しみの中にあるとき、私たちは「過去・現在・未来」に目を向けてみましょう。まず過去を振り返り、私たちが苦しみの中にあるとき、神がこれまでどのように助けてくださったかを思い出します。そして今このときも、神が私たちのそばにおられることを覚えます。
イエスご自身も十字架の上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27:46)。 神は、苦しみや孤独がどのようなものかをご存じです。
そして最後に、未来に目を向けましょう。 ニケア信条はこう告白しています。「私たちは、死者の復活と、来るべき世のいのちを待ち望みます。」
家族で胃腸炎にかかったとき、理学療法士の友人がこう祈ってくれました。 「父なる神、あなたの恵みに感謝します。私たちは、壊れた罪の世に生きていることを知っています。どうか癒しと休息をお与えください。そして、あなたの新しい創造の中で、病が消え去るその日を待ち望みます。」
友人の理学療法士の女性は、毎日痛みの中にいる人々と向き合い その人たちがすぐには良くならない現実も、よく知っています。だからこそ、「信じれば今すぐ癒されます」とは祈りませんでした。彼女の祈りの中心は、「今すぐ良くなること」ではなかったのです。それは、たとえ今苦しみが続いていたとしても、新しい天と地において、私たちの苦しみは、やがて必ず終わるのだという希望を思い起こさせてくれる祈りでした。
<神は私たちを癒してくださるか>
はい、神は私たちを癒すことがおできになります。では、それは「今この時代に必ず与えられる約束」なのでしょうか。それとも「来るべきいのちにおいての約束」なのでしょうか。
たとえばイザヤ書53章5節には、「彼の打ち傷によって、私たちは癒された」とあります。
しかし、それが「今すぐ肉体が癒される約束」だと断言する前に、文脈をよく見ることが大切です。 この場合、イザヤが語っているのは、肉体の癒しではなく、罪からの霊的な癒しです。 また、人々を癒したときでさえ、イエスは「霊的な癒し」という、より大切なものに人々の関心を向けるようになさいました。使徒パウロ自身も、何らかの病を癒されることはありませんでした。彼は何度も祈りましたが、神の最終的な答えはこうでした。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである 」(第二コリント12:9)。 神は、私たちの苦しみさえも、良いものへと用いることがおできになるのです。
時には、神は癒さないし、また救わないように見えることもあります。もし「十分な信仰があれば、すべての信者は今すぐ癒される」というなら、同じように「十分な信仰があれば、誰も死なない」といえるのでしょうか。
しかし現実には、多くの人が若くして命を落としています。たとえば、ディートリヒ・ボンヘッファー というドイツの牧師がいました。彼は アドルフ・ヒトラー の時代に生き、教会の指導者たちが政権に従うよう圧力を受ける中で、それに抵抗しました。 その結果、反ナチスの人物として、39歳という若さで処刑されました。私自身も今年39歳になるので、彼がどれほど若くして亡くなったのかを思うと、心に迫るものがあります。しかし、そのような中にあっても、彼の人生観は驚くほど確かなものでした。
絞首刑のために呼び出され、牢から出る時、彼は他の囚人にこう語ったと言われています。「これで終わりです。しかし私にとっては、いのちの始まりです。」
<結び>
ニケア信条を最後まで見てきてわかるのは、キリスト教の信仰は、単に罪の赦しだけではないということです。私たちの信仰は、復活と永遠のいのちを信じることであり、それは神を知り、新しい天と地において、神とともに生きることです。今の世界には、苦しみもあり、戦争も起こっています。しかし、キリストはすでに勝利され、神は真実なお方です。いつの日か神は死者をよみがえらせ、すべてを新しくしてくださいます。これこそ私たちの希望です。私たちが告白する信仰です。
<祈り>
全能の神よ、あなたはひとり子イエス・キリストによって死に打ち勝ち、私たちに永遠のいのちへの門を開いてくださいました。主のよみがえりの日を喜び祝う私たちが、いのちを与える御霊によって、罪の死からよみがえるという希望を持って、生きていくことができますように。私たちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。



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