キリスト教シオニズムとは何か?(イスラエルと教会について)

(メッセージの音声は礼拝後に載せる予定です。)

今年、私たちは中東で起きている出来事に心を痛めています。イスラエル、イラン、そしてアメリカを巡る衝突によって、クリスチャンたちは深刻な問いを抱くようになっています。たとえば、「クリスチャンとして、現代のイスラエルをどのように見るべきなのか?」「“イスラエルのために祈るべきだ”と言われたら、具体的には何を祈ればよいのか?」――ユダヤ人がイエスを信じるように祈るべきなのか。それとも、イスラエル国家が敵から守られるよう祈るべきなのか。

皆さんも想像できるように、イスラエルというテーマは広く、複雑で、また物議をかもすテーマです。今日のメッセージでは、その大きなテーマの一部分――「キリスト教シオニズム」に焦点を当てます。キリスト教シオニズムとは、ユダヤ人が中東の先祖伝来の地へ帰還することを支持するクリスチャンの運動です。

今日は、キリスト教シオニズムの主張と、それに反対する人々の考えを簡潔にまとめます。また、それぞれの立場を擁護するために、よく使われる聖書箇所も見ていきたいと思います。

まず祈りましょう。主よ、あなたの平和と正義がこの世界に実現しますように。私たちの中で意見の違いがあっても、キリストにあって兄弟姉妹として一致していくことができるよう、どうぞ助けてください。アーメン

<キリスト教シオニズムとは何か?>

キリスト教シオニストたちは皆が同じ信念を持っているわけではありませんが、ユダヤ人が中東へ帰還することを支持している点では一致しています。

特にアメリカにおける彼らの影響力は、中東に住む人々の生活に大きな影響を与えてきました。この運動は日本にも存在していますし、聖書に照らして理解し、吟味するべきものだと思います。

キリスト教シオニズムのルーツの一つに「ディスペンセーション主義」と呼ばれる神学があります。もっとも、今日(こんにち)のキリスト教シオニスト全員がこの考えに同意しているわけではありません。

ディスペンセーション主義では、神の民はイスラエルと教会の二つであり、イスラエルと教会は神のご計画における役割が違うとして、明確に区別されています。

神はイスラエルに対して、「ユダヤ人の土地は回復される」というような特別な約束を与えているけれども、それは教会には与えられていないとディスペンセーション主義は言っています。

この考えは教会史の中では比較的新しいもので、19世紀に形成されました。

聖書的根拠という点では、キリスト教シオニズムは、古代イスラエルの父祖アブラハムに対する神の約束に基づいています。

創世記12章2節で、神はアブラハムにこう言われました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、……」3節では、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福されます。」さらに7節では、「…あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。…」

と言われています。現代の地図で言えば、この土地には、今のイスラエル、パレスチナ自治区、ヨルダン、さらにエジプト、レバノン、シリア、サウジアラビア、イラクの一部が含まれます。

創世記や聖書の他の箇所から、キリスト教シオニストたちは次のように考えています。第一に、「土地」の約束は、今日(こんにち)もイスラエル国家に与えられているということ。第二に、ユダヤ人は今日(こんにち)においても神のご計画の中で特別な役割を持っているということ。第三に、全部とはいわないけれども、多くのキリスト教シオニストは、イスラエルと教会に対して、神はそれぞれ別のご計画を持っておられると考えているということ。第四に、1948年に建国された現代のイスラエル国家は、終末に関する聖書預言が成就したと考えられているということ。第五に、クリスチャンはイスラエルを祝福すべきであるということです。

では、「イスラエルを祝福する」とはどういう意味でしょうか。それはユダヤ人のために祈ることを意味する場合もあります。しかし多くの場合、イスラエル国家を経済的あるいは政治的に支援することも含まれます。

これは特にアメリカで顕著に見られます。政府内にいるキリスト教シオニストたちは、アメリカの中東政策に影響を与えてきました。

たとえば、アメリカ国防長官の Pete Hegseth は、国防総省で祈祷会を開き、ある聖書研究会に参加しました。その研究会の説教者は「神はアメリカにイスラエルを支援するよう命じている」と語ったそうです。また、一部のアメリカ軍関係者は、指導者たちが最近のイランとの戦争を、単なる戦争ではなく、黙示録そのものを成就する行為と見なしていることに懸念を表明しています。

今日のキリスト教シオニズムについてのメッセージは、日曜礼拝の説教としては政治的に聞こえるかもしれません。しかし、こうした政治的立場は、神学的な信念に深く根ざしているということを知ってほしいと思います。

<イスラエルを支持する理由>

さて、キリスト教シオニストたちが皆、同じ理由でイスラエルや、ユダヤ人の祖国帰還を支持しているわけではありません。様々な理由があるのですが、ここでは三つだけ紹介します。

第一の理由は、創世記12章3節です。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福されます。」

多くのキリスト教シオニストは、もしイスラエル、特に現代のイスラエル国家を支持するなら、神によって霊的に、物質的に、あるいは政治的に祝福されると考えています。

イスラエル支持の第二の理由は、古代の祖国の回復を含めて、神がユダヤ人に対して特別な目的を持っておられると信じられていることです。

第三の理由は、ユダヤ人が先祖から受け継いだ地へ帰還することが、イエスの再臨の前提条件であると考えられていることです。もしイエスの再臨を望むなら、ユダヤ人が故郷へ帰るのを助けるべきだというのです。

<二つの重要な問い>

では次に、キリスト教シオニズムの土台となっている聖書箇所を見ていきましょう。同時に、キリスト教シオニズムに反対する人々の意見も見ていきましょう。ここでは、二つの問いを立てながら考えてみたいと思います。

一つ目の問いは、「神の民は二つ存在するのか、それとも一つなのか。」二つ目の問いは、「神はイスラエルへの約束、特に“土地”に関する約束をどのように成就なさるのか。」

<神の民は二つ存在するのか、それとも一つなのか?>

まず、「神の民は二つ存在するのか、それとも一つなのか」という問いについて考えましょう。多くのキリスト教シオニストは、神の民は「イスラエル」と「教会」の二つあると考えています。イスラエルは地上的・民族的な民であり、教会は多民族から成る霊的な民であると理解されています。

この考えを擁護するためによく使われるのが、ローマ人への手紙9〜11章です。

特に重要な箇所はローマ11章25〜26節で、パウロはこう語っています。「…イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる。…」

この考えからすると、異邦人(つまり教会)に対する神のご計画は、いわば神の本来のご計画の「中断期間」のようなもので、神のご計画の中心は、民族としてのイスラエルを回復すること、その後イスラエルの民がメシアを信じるようになることだと主張します。

これに対してキリスト教シオニズムを批判する人たちもまた、ローマ9〜11章を根拠として反論します。ローマ9章6節でパウロは、「…イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく…」と言っています。

ここでパウロは、「民族としてのイスラエル」と、「メシアを通して神に属する真のイスラエル」とを区別しています。さらにローマ11章では、パウロはオリーブの木のたとえを用いています。自然の枝の一部は不信仰のために切り落とされ、一方で異邦人の信者たちは接ぎ木された。イエスへの信仰を持たない者はこの木に属しておらず、ユダヤ人であれ異邦人であれ、信じる者たちがキリストにあって共に一つの神の民を形成する、というのです。

また、ローマ2章やガラテヤ3章でも、神の民に属するかどうかを決めるのは民族性ではなく信仰であることを、パウロは強調しています。この観点からすると、現代のイスラエル国家は、これらの箇所に出てくる「真のイスラエル」とは言えません。

したがって、民族性だけを理由にクリスチャンが現代イスラエルを支持する義務はない、と主張します。

これに対してキリスト教シオニストたちは、この立場を「置換(ちかん)神学」と呼び、反ユダヤ的だとみなしています。つまり、神はイスラエルへの約束を放棄したと言っているように見える、というのです。

しかしキリスト教シオニズムに反対する人々は、教会がイスラエルに取って代わったわけではない、そうではなく、イスラエルから始まった一つの家族に異邦人が加えられることで、神の民が完成へと導かれていると主張します。

また新約聖書で、もともとイスラエルを表していた言葉が、教会に適用されていることにも注目します。たとえば第一ペテロ2章9節では、信者たちは「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。…」と呼ばれています。

同様にエペソ2章12〜19節では、異邦人はかつて「イスラエルの国籍」から除外されていたが、今では近い者とされ、同じ国の民となった、と書かれていています。これらは、「置き換え」ではなく「連続性」を示しているのであり、今や神の民はキリストを中心として一つとされていると主張します。

<神はイスラエルへの約束をどのように成就なさるのか?>

キリスト教シオニストたちも、その批判者たちも、神は真実なお方であり、旧約聖書におけるご自身の約束を必ず実現するという点では一致しています。しかし、神がアブラハムへの約束、特に「土地」に関する約束をどのように成就なさるのかについては、意見が分かれています。

ここで、「神はアブラハムへの約束をどのように成就なさるのか?」という第二の重要な問いに進みましょう。キリスト教シオニストたちは、しばしば創世記17章8節を引用します。そこでは神がこう語っておられます。「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。」また、ローマ11章28〜29節も引用されます。「彼らは、…選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。」

キリスト教シオニストたちは、これらの箇所から土地の約束を含めて、神の約束は今日(こんにち)のユダヤ人にもなお有効であり、ユダヤ人がイエスにどう応答するかは関係がないと結論づけます。

最大のキリスト教シオニスト団体であるインターナショナル・クリスチャン・エンバシー・オブ・エルサレムは、中東の紛争について次のように述べています。「これらの争いは単なる地政学的問題ではない。そこには霊的側面がある。それは、神がご自身の民をその地へ帰還させ、最終的にはメシアを通してご自身へと導くという継続的な神の恵みが反映されている…神は栄光に満ちた結末へ向けて働いておられる。……それは世界を救おうとする、神の変わることのないご計画である。」

言い換えれば、神はご自身の約束を文字通りに成就なさる――すなわち、中東における地上的国家イスラエルの回復を通して成就なさると、キリスト教シオニストは主張しています。

一方、キリスト教シオニズムを批判する人々は、神の約束は文字通り成就されるのではなく、イエスにおいて成就されるのだ、と主張します。ローマ11章において、パウロは、ユダヤ人は神に愛されており、神の召命は「取り消されることがない」と述べていますが、これは、ユダヤ人を救いへ導こうとしておられる神の継続的なご計画を言っているのであって、キリストへの信仰なしに契約の祝福は保証されないとしています。

そもそも神は、レビ記18章や申命記28〜30章などで、イスラエルが罪の中に歩み続けるなら、その地から追い出されると警告しておられました。土地を含む契約は、契約への忠実さが求められ、イスラエルの回復には悔い改めが必要だと神は言っておられたのです。

そして新約聖書においては、その契約への忠実さは、イスラエルのメシアであるイエスに正しく応答するかどうかで試されます。イエスを拒むなら、単にユダヤ人であるという理由で、神との約束を主張することはできません。なぜなら、その約束はキリストにおいて成就され、信仰によって受け取られるものだからです。

もしそうであるなら、神のアブラハムへの約束が、どのようにキリストにおいて成就されるのかを考えなければなりません。神の約束は取り消されず、キリストにおける真の意味へと拡大され導かれると、教会はずっと信じてきました。

神のアブラハムへの約束がどのようにキリストにおいて成就されるのか。第一に、「あなたを大いなる国民とする」という約束です。旧約聖書において、古代イスラエルは確かに大いなる国となりました。そしてキリストにおいて、この約束はさらに拡大されます。ガラテヤ3章7節にはこうあります。「信仰による人々こそアブラハムの子であることを知りなさい。」また3章16節では、「約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。」

イエスこそ真のアブラハムの子であり、イエスを信じる者たちがアブラハムの子とされ、約束された「大いなる国民」を形成するのです。

第二に、「土地」の約束はキリストにおいて拡大されます。ローマ4章13節にはこうあります。「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。」この約束は、もはや特定の土地だけに限定されるものではなく、新しい創造全てを指し示しています。

第三に、「地上のすべての民族が祝福される」という約束も、キリストにおいて成就されます。ガラテヤ3章14節はこう語ります。「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」

イエスの死と復活を通して、イエスを信じるすべての人が、アブラハムの祝福を受けるのです。それには、罪の赦し、聖霊、そして永遠のいのちが含まれます。

第二コリント1章20節で、パウロは、神の約束はイエスにおいて成就すると教えています。実際、イエスご自身もルカ24章27節でこう語られました。「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。」

ですから、旧約聖書の約束は、キリストを抜きにしてではなく、キリストに照らして読まれなければなりません。

さらに、イスラエルの物語は、人類全体の物語を映し出しています。古代イスラエルと同じように、すべての人は神の道を生きることに失敗し、救い主を必要としています。

神は、イスラエルが果たせなかったことを、イスラエルの代わりに成し遂げるためにイエスを遣わしました。イエスは完全に神に従い、神の祝福を受け継ぎました。その意味で、イエスこそ真の、そして完全なイスラエルなのです。そして、民族に関係なく、イエスと結ばれるすべての人が、真のイスラエルの一部となります。

さて、これで皆さんは、キリスト教シオニストたちが何を信じているのか、また、それに反対する人々がどのように反論しているのかを大まかに理解できたと思います。

まとめると、キリスト教シオニストは、神の約束は地上的に回復されたイスラエル国家を通して成就されると考えています。一方で、2000年にわたる教会史を通して多くのクリスチャンたちは、その約束はキリストにおいて成就され、キリストへの信仰によって果たされる、と理解してきました。

今日は非常に大きなテーマを短い時間で話したので、十分に説明しきれていなかったらお許しください。もっと話したい方は、あとでぜひ気軽に声をかけてください。

<論争のあるテーマを扱うときに>

兄弟姉妹の皆さん、この問題に限らず、たとえ意見が違ったとしても、互いを「愚かだ」とか「本当のクリスチャンではない」などと決めつけることなく、愛をもってお互いに語り合っていきましょう。聖書について意見が違うとき、多くの場合、双方とも聖書に従おうとしているのだけれども、その理解の仕方が異なっているだけなのです。

一つの視点だけではなく、複数の視点に耳を傾け、反対意見の中で最も説得力のある意見も進んで聞いてみましょう。もし一つの見方しか知らないなら、どうして自分が正しいと確信できるでしょうか。私たちは、時代を超え、また異なる教派のクリスチャンたちから学ぶことができます。

私たちは、最初に教えられたことを、そのまま受け入れてしまいやすいものです。私がアメリカで学んでいたとき、最初に定期的に通った教会は、海外のユダヤ人のイスラエルへの帰還を支援する働きに献金を送っていました。若い信者だった私は、「忠実なクリスチャンは皆、イスラエル国家やユダヤ人の祖国への帰還を支持しているんだなぁ」と当然のように思っていました。

しかしここ数年、私はパレスチナ人のキリスト教徒のような、少数派の声にも耳を傾けるようになりました。すべてのパレスチナ人がアラブ系イスラム教徒というわけではありません。ペンテコステの日に教会が始まった1世紀に、祖先をさかのぼることのできるパレスチナ人のキリスト教徒もいます。

しかし、パレスチナ人のキリスト教徒は、イスラエル人入植者に徐々に土地を奪われ、イスラエル兵士による移動の制限も受けています。ガザ地区のキリスト教会はイスラエル軍の空爆を受けました。パレスチナ人のキリスト教徒たちは、自分たちが故郷において、まるでよそ者、あるいは敵のように扱われていると感じています。また、海外のキリスト教徒たちに傷つけられているとも感じています。

キリスト教シオニズムの考え方によって、パレスチナ人のキリスト教徒は「神のストーリーの中に自分たちの居場所はない」と感じているのです。神の目的が成就するためには、彼らは本当に自分たちの家を手放さなければならないのでしょうか。

パレスチナ人のキリスト教徒の声を聞く中で、私はこう考えるようになりました。「ある集団を支持することが、別の集団の苦しみを正当化することになっているとしたら、それはキリストの心に従っていると言えるのだろうか。」とはいえ、すべてのキリスト教シオニストがパレスチナ人の苦しみを無視しているわけではありません。中には、イスラエルを支持しつつも、不正義に対して声を上げようとしている人たちもいます。それによる緊張感も生まれています。

ここでクリアにしておきたいのですが、キリスト教シオニズムに疑問を呈することは、歴史を通してユダヤ人が受けてきた苦しみを軽んじることではありません。また、キリスト教シオニズムの考えに疑問を持つことが自動的に「イスラエルに反対だ」とか「ハマスを支持する」ということを意味するわけでもありません。私たちは、テロの現実や、イスラエル市民が抱えている恐れを否定するべきではありません。

クリスチャンが悲しむべきなのは、暴力と不正義です。問題は、「ユダヤ人が大切かどうか」ではなく、「神の約束が聖書の中でどのように成就されるのか」ということなのです。

<結論>

結論として、歴史を通してクリスチャンたちは、聖書を用いて自分たちの政治的立場を擁護してきました。私たちはこう自問すべきです。私たちは、キリストに焦点を当てて聖書を読んでいるだろうか。ただ一つの集団だけではなく、すべての人を愛することに繋がっているだろうか。私たちの選択は、いのちと平和を生み出しているだろうか。それとも、暴力と死を生み出してはいないだろうかと。

祈りましょう。

主よ、私たちがユダヤ人を愛そうとするとき、彼らについて聖書が何を語っているのかを正しく理解できるよう助けてください。また、イスラエル人であれパレスチナ人であれ、ユダヤ教徒であれクリスチャンであれイスラム教徒であれ、すべての人の益を求めることができますように。反ユダヤ主義を含む、あらゆる憎しみが退けられますように。そして、誰かの苦しみを見過ごすことのない者としてください。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

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