「歓声響くその日に」 ヨハネ5:1-15

Pastor Kitazawa

(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)

①今朝は、ヨハネの福音書5章を皆さんと一緒に読んでゆきたいと思っています。

・ヨハネの福音書5章1節の所を見ますと、ここにこのように書かれています。「その後ユダヤの祭りがあって・・」

・しかしここには、それが、何の祭りであったのかについては明記されていません・・そうです。ここでは、それが何の祭りであったのかは大事なことではないからです。

・ユダヤの祭り、それは、どの祭りも、みな、「神に感謝をささげるお祝いの日でした。
しかしそれは、彼らにとって、勿論、大事な宗教行事でありましたが・・祭りには、もう一つの面があったのです。 

・日頃、食事とはいえないような質素なものしか食べていない、貧しい者たちも、祭りの時だけは違っていました。 

・人々は、家族、親族、友人たちなどが集まり、精一杯のごちそうを作り、食卓を囲んだのでした。ですから祭りの日、ユダヤ街は、人々の嬉しそうな歓声があちらこちらで響いていたでありましょう。
 
・つまり祭りの日に、彼らは、単に宗教行事をこなすだけではなく・・人々は集まり、互いに喜び合い、互いに励まし合い、リフレッシュし、人々はその先の生きる力を得ていったのでした。

・しかし、主イエスが、この日向かっていた所・・そこは、人々の歓声が響く、そういう喜びの場とは対照的な、ものさびしく、そして重苦しい場所でありました。 

・2節には、こうあります。「羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれている池があり、五つの廊下がついていた。 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人達が大勢、横になっていた。

・ここにあったベテスダという名の池は、時々泡立ち、動くのでした。つまり、この池は、日本の温泉地にもよくある「間欠泉」であったのです。

・この神秘的な水の動きから、いつの間にか、こういううわさが広まっていました。

・「水が動くのは、天使が動かしているのだ。 だからその水が動いたら、その時に一番最初にその池に入っていくことができたら、その病の者はきっと癒されるに違いないのだ・・」

・このような話は現代でも、世界中にどこにでもあります。
そうです。それはたわいのないうわさ話・・いわゆる迷信でした。
しかし、ここに集まっていた病人たちは結構真剣で、また必死でもあったようです。

②若かりし日、洗礼を受け、それなりに、真面目に聖書を読み始めた私は・・この箇所を、始めて読みました時・・生意気にもこのように思ったのでした。 

・「これは笑い話だ。」 池の水が動いたのを見て・・それに直ぐ反応してダッシュして、池に飛び込める人のことを考えてみれば・・そういう人は、病人たちの中でも元気な人に決まっている・・

・もしかするとその人は、もう病人とはいえない状態の人かもしれない・・ 

・だから、その人が、その後元気いっぱいになたって、それは当たり前だ。つまり、この話は奇跡でもなければ、マジックでもない・・「昔の人は、こういう話にすぐ騙されてしまうのだなあ・・」

○しかし今は、そのように古代人を軽蔑しながら聖書を読むということはしていません。

・考えてみれば・・当時のユダヤの医療事情は極めて劣悪だったでありましょう。

・勿論、医者がいたかもしれません。薬もあったでしょう・・しかし、医者なのか、祈祷師なのか、詐欺師なのかわからないような人もたくさんいたようですし・・また、怪しい薬もたくさんあったようです。

・また、医療の問題と同時に、貧困問題も深刻でした。ですから庶民は、なかなか良い医療を受けるというようなことにはならなかったようです。

・ですから・・「あの池に、もし一番に飛び込めることができれば、この病気は治るかもしれない!」と期待して・・、多くの人はそれが迷信だとうすうす感じていても、このような所に来るしか、すべがなかったのではないか・・私はそう想像するのです。
 
・ですから、他でもない、この私自身が、この時代、この社会に生きていて、重い病気にかかっていたとしたら、やはり、この私も彼らと同じようにここに来て、この池のほとりに寝込んでいたのではないだろうか・・そう思えてなりません・・。

・そうです。この日は祭りがあって・・、人々の歓声が街中に響いていた日でしたが・・主イエスは、人々の中でも、最も弱い立場に追い込まれていた、人々が集まっている、その場所に行かれたのでありました。

③主イエスがそこに行ってみると・・そこに、38年もの間、病気にかかったまま、毎日、この池のそばに来ては、横になっていた人がいました。
イエスさまは、その男の人に近づいていきます。 

・そして、その人にこう言われたのでした。→・・「よくなりたいか」・・

・「これって、変な問いかけではないか・・」そう思われる方がおられるかもしれません・・病人に「よくなりたいのかと聞いている・・」

・病気の人は、みんな病気がよくなりたいと思っているにきまっている・・その病人に、「よくなりたいか」と問われるのはおかしな問いではないか・・そう思う方がおられるかもしれません。 

・しかし、です・・。この38年という歳月がどれだけ長いものか・・そのことを深く考えてみますと・・38年間、来る日も来る日も、よくなりたい、という・・病気回復の意欲を持ち続けて、ここまで生きてきた・・というのは・・これまた大変難しいのではないでしょうか・・。

・始めの何年かは、「よくなりたい」と毎日思っていたかもしれません・・しかし、10年経ち、20年を超え、30年を超え・・40年近く経った彼の心の中は・・「よくなりたい」という思いがはたして残っていたのか・・それは微妙です。

・「いや、そういう意志は、ずっと前に・・失せてしまっていた。」こちらの方が、可能性としては大きいのではないでしょうか・・ 私は、そう思えてなりません。

・私は・・このイエスさまの・・「よくなりたいか」という問いかけは・・・人間にとって、最も大事で、最も基本的な問いかけであると思います。

・また、この、「あなたは・・まだ、生きるという意欲を失っておられませんか・・」という問いかけは、同時に、ここにいる私たち一人一人への問いかけでもある・・私はそう思うのです。

・この人はこの時どのように答えたのか、といいますと・・この人は、この問いかけに・・「はい、よくなりたいです。」とは答えませんでした。

・私の推測では・・彼は、ほとんど諦めていたと思うのです。ですから、彼は、このとき・・まだよくなりたいと思っているのか・・思っていないのか・・については答えずに・・その、ほとんど諦めてしまっている・・その理由をイエスさまに打ち明けるのでした。
 
・→ :7「病人は答えた。「水がかきまわされたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、他の人が先に降りてゆきます。」

④この池のほとりに38年間もいるこの人は・・その彼の答えからもやはり、ほとんど諦めていたのだと思います・・では、ほとんど諦めていたのになぜ彼はこの池のほとりに尚やって来ていたのでしょうか・・

・ほとんど諦めていたのに尚、ここに来続けていた理由・・それは・・私は・・ここに来ることが・・彼の「気休めになっていたからではないか・・」そう思うのです・・。

・つまり、この人は、「諦め」と、そして「気休めに」心が支配されていた・・そういう状態にあった・・そう思うのです。
 
・このように「諦め」と、「気休め」に支配されている、このような人を見るときに、皆さんはどのような思いになられるでしょうか・・。

・ある方は・・「こんな男、もう立ち直ることはできないのでないか・・」そう思われるかもしれません。

・ある方は・・「何てダメな人なのでしょう。」そう思うかもしれません。

・少し厳しめの方は・・「何とかならないのか」と思われる方もおられるかもしれません。」

○しかし・・そんな彼を・・イスさまはお見捨てにならなかったのでした。

・見捨てるどころか・・彼に近づき、そして、彼の魂の奥底に、このように語り掛けたのでした。
  →「良くなりたいか」

・これは、彼のいのちを再生させるための愛の起爆剤のような御言葉だと私は思います。

・そして、続けてイエスさまは、彼にこう語られました。
 8節「起きて、床を取り上げ、歩きなさい」

・私はこの御言葉にはこのような意味があったと思います。

・「起きて、床を取り上げ、歩きなさい」 あなたは良くなったのです。 38年いたその床を、あなたの手で取りあげなさい! そして、あなたは、新しい生き方を始めるのです。
そして、あなたは、きょうを、明日を生きて行くのです。

⑤私は、きょうのこの礼拝のために、もう一度新たな思いを持って、きょうの聖書個所を読み直してみました。

・そこで、「はた」と気が付かされたことがありました。

・それは、このイエスさまの語られた御言葉は、単にこの男に語られた御言葉ではない、ということでした。

・この「あなたは良くなりたいか」 そして、「起きて、床を取り上げて、歩きなさい」この二つの御言葉は、他でもない、この小さな信仰者である、私自身にも語っておられる御言葉なのだ‥ということにもう一度気が付かされたのでした。

・皆さんはこの二つの御言葉を、きょうあらためて、お聞きになって・・どのようにお受け止めになられたでしょうか・・。

・神さまが期待されているのは・・そうです。この聖書に出て来る男の人だけではなく・・私たちもまた、このイエスさまの御言葉に鋭く反応して・、古ぼけてしまった・・諦めとか、気休めに横になっているのではなく・・

・立ち上がり・・その古ぼけた寝床を大胆に捨ててしまい・・
新しい週こそ、私たちを愛してくださっている、その主の御言葉を心に響かせながら、力強く歩み始めること、ではないでしょうか・・

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