「信じます。主よ。」 ヨハネ9:35-41

Pastor Kitazawa

(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)

①三回連続になりますが・・きょうも皆さんとご一緒に、ヨハネの福音書9章から、神さまのその、深いご愛に触れてゆきたいと思っています。

・このヨハネ9章には・・道端に座っていた生まれつき目の不自由な人が、主イエス・キリストと出会うこととなり・・その人は、その目が癒されただけでなく、その後の彼の人生は神に仕え、救いの喜びに溢れ、神のすばらしさを人々に伝えてゆくという、全く新しい人生へと変えられていった・・そのような希望に満ちた出来事が記されています。

・ヨハネはこの出来事をとても詳しく伝えました。ですからある人は、これを読んで「これは、長い年月を費やした出来事であったのではないか」と錯覚してしまうかもしれません。

・しかし、落ち着いて、この9章を読んでゆきますと・・、この9章は、どうやら、たった一日に起こった出来事であったようです。

・ところで、この9章に出てくるこの目の見えなかった人物ですが・・なぜか、彼の名前がどこにも出てきません。少し不思議に感じます。

・しかしよくよく考えてみますと・・そこにも神さまからの大事なメッセージが隠されていように、私は感じるのです。

・そうです。このヨハネの9章に記されているこの出来事は、この男の人の個人的な経験と言うよりも・・人がキリスト者へと導かれてゆく、その普遍的な流れ、普遍的なプロセスが語られている・・そのような聖書個所なのです。

・つまり、私たちは、ここを読みます時に、人は誰も、この人のようにして、神さまのご臨在を知り、神さまの深いご愛に触れ・・そして、神さまに仕えるすばらしい人生へと導かれてゆく・・そのプロセスを知ることができるのです。

➁このことはさておきまして・・さっそく今日の聖書箇所を見てまいりましょう・・

・この名もなき盲人であったこの人は・・主イエスとの劇的な出会いを果たした後、いったいどうなったのでありましょうか・・。

・あろうことか・・彼は、この後、パリサイ人たちによってこの街を追放されてしまうのでした。 そうです。このパリサイ人たちの非人道的行為をこの街の人たちは止められなかったのでした。

・では、彼の両親はどうしたかと申しますと・・自己保身からでしょう・・彼等もまた、結局はそのパリサイ人たちのやりくちにまかせてしまい、彼の両親もまた彼を見捨てたのと同然の態度をとってしまうのでした。
〇皆さんは、見捨てられた、という経験がおありでしょうか? そういう経験をなさった方は、もしかすると・・私たちの教会にはおられないのかもしれません。

・しかし、社会から見捨てられてしまう人は、日本の社会ではちょっとわかりにくいのですが、、確かにおられるのです。いや意外に多い、これが人間社会の現実です。牧師をしておりまとそれがわかります。

・体の病いのために・・精神の病いのために・・事故に遭ってしまったために・・、家庭の事情のために、などなど。私たちが、社会から追放されてしまうきっかけは意外に多いのです。

・もう何年も前になりますが・・教会に訪ねて来られた方から、ご自分の中に起こって、止めることのできない性同一性障害の衝動について、相談を受けたことがありました。

・その方のお話ですと・・彼は、思いつめて、思いつめて、そして一大決心をして、そのことを母親に打ち明けたのだそうですが・・、ところがその一番理解してくれていると思っていた母親に、「お前は、私の子なんかじゃない」と言われてしまったのだそうです。

・このことがあって、この方は、この性同一性障害だけではなく、この母親からの一言から、今度は重いうつ病を発症することになり・・仕事は続けられなくなり、社会生活からどんどん追い出されていくことになったのでした。

③では、ヨハネ9章に出て来るこの人は、この街から追放された後、どうなったのでしょうか・・

・35節の記事をよく見ますとこうあります。 →この人々に捨てられた人を、・・イエスさまは、見つけて・・ではありませんで・・見つけ出して・・、このように書かれてあります。

・つまり・・この人が、イエスキリストを必要としていたとか・・、この人が、イエスキリストを探していたというのではありませんでした。

・そうではなく・・イエスさまが、彼を、探しておられたのでした。そして、ついに彼を探し出したのでした。イエス・キリストとはそのようなお方なのです。

・そして、イエスさまは、彼を見つけ出したとき、このように聞かれたのでした。
→ 「あなたは人の子を信じますか?」

・この「人の子」といいますのは・・イエスさまは、ご自分のことを「人の子」と言われておりましたことから、これは、「あなたは、人の子となったこの救い主であるわたしを信じますか」という意味でした。

・するとこの人は、イエスさまの問いかけにまっすぐに答えます。私は、この人のこの応答に感動させられます。

・この人は、この時、オウム返しのように「はい信じます。」そのようには答えなかったのでした。

・この人は、相手の様子や周りの空気を読んで相手の喜ぶ返事をしよう、などと考えていませんでした。そうではなく、彼は自分の心の中にあるその思いを本当に素直に表現したのです。

・「主よ。その方はどなたでしょうか?」 「私が、その方を信じることができますように・・」

・これに対して、イエスさまは彼に、このように語られます。 37節 「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」

・多くの聖書学者たちは、この二人のやりとりの場面について・・使徒たちがまだ生きていた、初代教会当時の洗礼式を思い浮かべることが出来ると言っています。

・当時の洗礼式の前には、このような応答が あって・・それから、洗礼が施されていったのではないか、と聖書学者たちは、想像している訳です。

④私は、この時、イエスさまが語られた「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」と語られているこの御言葉に私たち注目すべきだと思うのです。

○私は信仰生活が50年を過ぎたころから、自分の信仰の原点・・自分の信仰のそのエネルギーの元となっていることは何か・・そういうことをよく考えるようになりました。

・すると・・先ず心に浮かんだことは、・・初めて教会を訪れ、文字通り魂を込めて、一生懸命・・イエスさまの愛を語っておられた、あの宣教師の先生の姿でした。

・勿論、その隣にイエス・キリストが立っておられたというわけではありませんが、しかし・・その説教者の背後に主イエス・キリストのお姿をいつも感じ取ることができたのでした。

・その説教者だけではありません・・その後も・・熟した信仰者の背後におられる主イエス・キリストを見させていただいてきたのです。これが、私の決心の決め手になったにちがいありません。

・もし、どのくらいの人に、キリストの姿を見たのですか?と聞かれれば、私の場合・・ざっと、100人くらいの方に見た、と言うことができます。

・先日も、今、ヨーロッパに押し寄せている、難民の方々のお世話をしている、婦人宣教師からの手紙がありました。

・その難民のお世話をしているシスターたちはもうみんな80を過ぎて90に近い高齢になっているはずですが・・彼女たちは、きょうも難民の方々の生活をささえることをやめません。わたしには、そこで、きょうも懸命に働いているシスターたちの姿が目に浮かぶのです。
そして、彼女たちの背後におられる主イエス・キリストの姿を思い浮かべるのです。

⑤聖書記事に話を戻しますが・・ヨハネ9章の、この生まれながら盲人であった人は、単に物質が見える、その視力が与えられた、というだけではありませんでした。そうです。彼は、神さまのご臨在がわかる。神さまの愛が見て取れる、そういう・・人間にとって最も大切な、霊的視力が徐々に回復していったのでした。

・しかしここを丁寧に読んでまいりますと、それは、瞬間的な回復ではなかったことがわかります。

・最初、彼は、こう証言しています。→ :11で彼は、「イエスという方が」つまり、「イエスという人が」、と言っています。

・:17では「あの人は預言者です。」と証言し、 そして、:33に至っては、「神から出た方」と言うのでした・・。

・このように徐々に見えるようになっていった彼は、38節で、イエスさまに向かって、「主よ」と、呼び・・拝した・・つまり、「ひざまずいた」のでありました・・。

・熟した信仰者は・・このように、「ひざまずく信仰者となる・・」というのです・・。

・見え始めの信仰は・・自分に「こうしてください、ああしてください」という事をお願いすることが信仰だと思ってしまうかもしれません・・。しかし、そういう信仰者も、次第に霊的視力が付いてくると・・

・神さまが、何をしてくれるのか、より、・・もっと、祈らなければならないことがあることに気付いてまいります・・。祈りが変わってゆくわけです。 神さまが自分に何をしてくれるのか・・そんなことはいつの間にか、大事なことではなくなってゆくのです。

・祈りの質が自己本位から、神本位に変化してゆくわけです。 私たちの満足を求める祈りは、なくなり、どんなことがあっても神さまを信頼しつづけてゆく、その信仰そのものに力がそそがれるようになってゆかれるのです。

・つまり、神さまにお願いする信仰者から・・神さまにひざまずく信仰者へと熟してゆくわけです・・。

・この様に、神さまの救いの確かさ。その偉大なご愛。神さまのあわれみ。神さまの大きなご計画が見えるそういう信仰者になってゆくのは・・一歩一歩なわけです。

・私たちも、すばらしい主イエスの弟子たちの、その背後の見える主を感じさせながら・・
一歩一歩、 主イエス・キリストにひざまづいてゆく、そういう信仰者へと成長させられてゆきたいと思います。

<通訳者のために、当日用意している祈りの内容を参考までに記しました>

憐み深い天の父なる神さま

・私たちは、きょう、約2000年前、あの、主イエスキリストによって、見つけ出され・・そして、「信じます。主よ。」と、ひざまずいていった、その幸いな人の記事を見てゆきました。

・そして、そこでそそがれた、あなたの眼差しが・・私たちにも、今、そそがれている、ということを覚えさせれられております・・。

・御聖霊よ。どうぞ、今週も私たちに、信仰の力をお注ぎください・・。

・そして、もし、あなたの御業がなされる為に、私たちが用いられることがありましたら・・どうそ、ご自由におもちくださいますように・・。

我らの主、イエスキリストの御名により、祈ります。 アーメン。

タイトルとURLをコピーしました