五つのソラ(第2回) Sola fide ―「信仰によってのみ」

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おはようございます、兄弟姉妹の皆さん。

私の家族はこの夏、マレーシアに帰っていました。マレーシアでは、日本での私たちの働きについて多くの方にお話しする機会があり、とても実りある時を過ごすことができました。

さて、前回のメッセージでは、宗教改革がどのように始まったのか、また最も有名な宗教改革者であるマルティン・ルターがどのような貢献をしたのかなども含めて、宗教改革全般についてお話しました。今日からは、宗教改革における五つの重要な教え、いわゆる「五つのソラ」について学んでいきたいと思います。

今日のメッセージは、sola fide(ソラ・フィデ)についてです。これはラテン語で、「信仰のみ」という意味です。プロテスタントが「私たちは信仰のみによって義とされる」と言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。聖書のどこに、sola fide、すなわち「信仰のみ」という考えを裏づける箇所があるのでしょうか。また、この教えは、16世紀の宗教改革以前の教会が信じていたことと、どのように違っているのでしょうか。

まずお祈りしてから、始めたいと思います。 (祈り)

<中世カトリックにおける「義」の考え方>

6月にお話ししましたが、マルティン・ルターは若い修道士だった頃、神との平安を得ることができず、苦しんでいました。彼は、自分が罪深い者であり、聖なる神の御前で義と認められるために十分なことをしていない、という思いから逃れることができなかったのです。皆さんの中にも、同じように感じる方がいるかもしれません。

ルターがそのように感じた理由の一つには、当時の教会、つまり中世のカトリック教会の教えがありました。

中世のカトリック教会では、信者は神の恵みによって義とされていく、それは継続的なプロセスなのだ、と教えられていました。洗礼や聖餐などの儀式を通して、信者は神から恵みを与えられますが、もしも重大な罪を犯してしまったら、この恵みの状態を失うことがあります。しかし、罪の告白、償いの行為、司祭からの許しを受けることによって、再び恵みの状態に戻ることができるとされていました。重要なのは、天国に入るためには、「恵みの状態」にいなければならない、とされていたことです。そして、恵みの状態にあったとしても、償うべき罪が残っていたら、天国に入る前に、煉獄(れんごく)といわれる場所で罪を清めるために、しばらく苦しまなくてはならないと考えられていました。

つまり中世のカトリック教徒が義と認められて天国に行けるかどうかは、確実には保証されていませんでした。恵みの状態にとどまるためには、生涯にわたって神と「協力的な」歩みを続けなければならないと考えられていたのです。

ここで「協力的」というのは、神の助けを受けながら、自ら悔い改めることを選び、神に従い、良い行いをしなければならない、という意味です。

そのため、ルターをはじめ多くの中世のクリスチャンが、「自分は十分なことをしているのだろうか」「自分は十分に良い人間なのだろうか」と不安を抱くようになったのです。

しかし、聖書と聖アウグスティヌスの著作を学ぶ中で、ルターの考えは変わっていきました。神が信じる者を義と宣言してくださるのは、その人自身が義であるからではなく、イエス・キリストのゆえである、とルターは信じるようになったのです。中世のカトリックでは、人は継続的なプロセスを通して「義とされていく」と考えられていました。

一方、ルターは聖書を通して、神はキリストのゆえに、信じる者を一度限り、決定的に義と宣言してくださるのだと理解するようになりました。プロテスタントでは、これを「義認」と呼びます。「義とされる」とは、神によって「あなたは義である」と宣言されることです。

 <Sola fide ― 信仰のみによって義とされる>

では、これは sola fide、「信仰のみ」という考えと、どのようにつながっているのでしょうか。

宗教改革者たちが唱えた sola fide は、次のようにまとめることができます。

私たちは、イエス・キリストを信じる信仰のみによって義とされる。
イエス・キリストを信じる信仰のみによって、神から義と宣言される。

「sola」には「ただ~だけ」「~のみ」という意味があり、「fide」は「信仰」を意味します。

ここでいう fide、すなわち信仰には、イエス・キリストを信頼する、イエス・キリストに確信を置く、イエス・キリストにより頼む、という意味があります。イエスを信じるとは、イエスに信頼し、イエスにより頼むことなのです。

信仰そのものが、義と認められるための「良い行い」ではありません。そうではなく、イエスを信じる信仰は、聖霊の神秘的な働きによって、私たちをキリストと一つに結び合わせます。私たちがイエスと結ばれるとき、キリストの義が、私たちの義として認められるのです。その結果、私たちも神から義なる者と見ていただけるのです。イエスの完全な義が、私たちのものとして認められるのです。信仰とは、キリストを受け取るために、何も持っていない自分の手を差しのばすようなことです。

宗教改革者の言う「信仰のみ」という意味は、イエスの義を受け取って初めて私たちも義とされるということ、そしてそれを受け取るのは信仰によるということです。自分自身の良い行いや、教会の儀式によって、義とされるのではありません。

このように、義に対する見方は宗教改革者と中世のカトリック教会との間で大きな相違点の一つでした。

 <信仰による義認を示す重要な聖書箇所>

では、聖書のどの箇所によって、ルターはそれまでの考えを変えるようになったのでしょうか。

信仰による義認というテーマは聖書全体に流れていますが、最も明確な説明はパウロの書簡、とりわけローマ人への手紙に見られます。

人間が抱えている罪という問題と、それに対する神の解決についてパウロが説明している、ローマ人への手紙の重要な箇所をいくつか読んでみましょう。

ローマ3章20節で、パウロはまず問題を示しています。

「なぜなら、律法を行うことによっては、だれ一人神の前に義と認められないからです。律法によって、私たちは罪を自覚するようになるのです。」

律法そのものは良いものです。なぜなら、律法は神の聖なるご性質を示し、私たちの罪深さを明らかにしてくれるからです。しかし、律法そのものは、罪人を義なる者にすることはできません。

続いてパウロは、ローマ3章24節で、神が備えてくださった解決を示しています。

「人は、キリスト・イエスによる贖いを通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです。」

そして28節にはこうあります。

「人は律法の行いとは別に、信仰によって義とされるのです。」

つまり、私たちが義と認められるのは、神の命令に従うことによってではなく、イエスを信じる信仰によってなのです。

パウロはローマ4章3節で、アブラハムをその例として挙げています。

「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた。」

そして、義とされた結果について、ローマ5章1節にはこう書かれています。

「このように、私たちは信仰によって義とされたのですから、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

つまり、義認は、将来いつか与えられるものと待っているものではありません。私たちはすでに義とされており、その結果として、今、神との平和を持っているのです。

 <従順や良い行いについて>

しかし、神の律法に従うことについてはどうでしょうか。私たちは良い人間になり、良い行いをする必要はないのでしょうか。

カトリック側が「信仰のみ」に反対する際に引用する代表的な箇所の一つが、ヤコブの手紙にあります。ヤコブの手紙では、人間の行いの重要性について語られており、2章24節にはこうあります。

「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。」

これは一見すると、パウロが言ったことと正反対のように聞こえます。宗教改革者たちは、このヤコブの言葉を見落としていたわけではありません。彼らは、パウロとヤコブは、それぞれ異なる問いに答えているのだと説明しました。

パウロが問うているのは、「罪人は、どのようにして神の御前で義と宣言されるのか。」

パウロの答えは、「従順や良い行いによってではなく、信仰によって」です。

一方、ヤコブが問うているのは、「本物の信仰とは、どのようなものなのか。」です。ヤコブの答えは、「本物の信仰は、従順と良い行いを生み出す」です。

ヤコブ2章19節には、悪霊でさえ神がおられることを認め、恐れている、とあります。

それに対して、本物の信仰、つまりイエスを心から信頼する信仰が生み出すものは、愛の行いです。

15節から17節にはこうあります。

「もし兄弟または姉妹が着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとします。そのような人たちに、あなたがたの一人が、『安心して行きなさい。暖かくして、十分食べなさい』と言いながら、体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も、行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」

ヤコブは、「信仰のみによる義認」を否定しているのではありません。単に頭で「そうだ」と考えているだけでは、本物の信仰とはいえない、と言っているのです。

パウロもヤコブと同じように、良い行いについて語っています。

エペソ2章8~10節にはこうあります。

「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。それはあなたがた自身から出たものではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。その良い行いを、神は私たちが歩むようにあらかじめ備えてくださいました。」

良い行いは、神の恵みを得るための手段ではありません。良い行いは、神の恵みがその人の人生を変えていることの証しなのです。私たちを義としてくださる神は、同時に私たちを聖なる者へと変えてくださる神でもあります。つまり、私たちを義と宣言してくださった神は、同時に私たちをキリストに似た者へと造り変え続けてくださるのです。

ですから、私たちはこの世で神の律法に従い、良い行いをするべきです。救いを得るためではなく、神が私たちに用意してくださった目的を果たすために。

 <「私は十分に良い人間か?」>

先程お話ししたように、若い頃のルターはしばしば「私は十分なことをしただろうか。
私は十分に良い人間だろうか。」と考えていました。

兄弟姉妹の皆さんも、「もっと祈れば、もっと奉仕すれば、もっと福音を伝えれば、もっと愛をもって行動すれば、神はもっと私を愛してくださるのではないか」、そのように考えたことはありませんか。

ルターは、福音の中に喜びと自由を見出しました。そして、彼は、問うべきなのは、

「私は十分なことをしただろうか」ではなく、「キリストは十分なことをしてくださっただろうか」なのだと気づきました。兄弟姉妹の皆さんは、どう思われますか。神の目からあなたを義とするために、イエスは十分なことをしてくださいましたか。イエスの十字架の死は、あなたの罪を贖うために十分でしたか。

律法は、「これをしなさい。あれをしなさい。そしてこれもしなさい。そうすれば、あなたは生きる。」と言います。しかし、イエス・キリストの良い知らせはこうです。

「キリストがすでにすべてを成し遂げてくださった。キリストを信頼しなさい。そうすれば、あなたは生きる。」

福音とは、単に新しい規則の集まりではありません。「もっと頑張って良い人になりなさい」と言っているのでもありません。そうではなく、キリストが私たちの救いに必要なすべてをすでに成し遂げてくださった、それが福音なのです。

キリストは、完全な生涯を歩まれ、罪を贖うために死なれ、そして勝利のうちによみがえられました。そのことによって、すべてを成し遂げてくださいました。

あなたは十分に良い人間でしょうか。いいえ。私たちは十分に良い者ではありません。

しかし、キリストは十分に良いお方です。キリストが、あなたに代わって、十分に良いお方でいてくださるのです。

 <義とされていながら、なお罪人である>

長年、主とともに歩んできたにもかかわらず、自分がいまだに罪を犯してしまうことに気づくと、落胆することがあります。

この夏に会った、年配のクリスチャンの友人が私にこう言いました。「年を重ねれば重ねるほど、もっとキリストに似た者になっていくものだと思っていたのに、実際は、前よりも気難しくなって、忍耐もなくなって、人を批判することが多くなっている気がする。本当にクリスチャンなら、今頃はもっとキリストに似た者になっているはずだろ?後戻りしているように感じるのはどういうことなんだろうねぇ。」

宗教改革者たちは、クリスチャンの人生をラテン語で、simul justus et peccator

と表しました。これは、「義人であると同時に、罪人でもある」という意味です。

キリストが再び来られるその日まで、私たちの罪との戦いは続きます。神は、キリストのゆえに私たちを義と宣言してくださいました。これが「義認」です。しかし同時に、神は今も私たちを造り変え続けておられます。これが「聖化」です。

私たちはすでに神に受け入れられ、愛されています。だからこそ、神に拒絶されるのではないかと恐れることなく、正直に自分の罪を神に告白することができるのです。

 <自分の内側を見ると同時に、上を見上げる>

キリストが成し遂げてくださった御業を見ずに、自分の罪や失敗だけを見つめているなら、私たちは絶望してしまいます。ですから、私たちは日々、自分の歩みを吟味する必要があります。特に、自分自身の心の内側を見つめることは大切です。しかし同時に、上を見上げてキリストを見ることを忘れてはいけません。

有名なイギリスの説教者チャールズ・スポルジョンは、晩年にこう語りました。

「私の記憶はほとんど失われてしまった。しかし、二つのことだけは覚えている。私は大きな罪人であり、キリストは偉大な救い主である、ということだ。」

若いルターが自分の欠点について思い悩み続けていたとき、修道院の指導者は彼にこう言いました。「イエスに目を向けなさい。そして十字架に目を向けなさい。」

神の御前における私たちの立ち位置は、私たちがどれほど立派にできたかによって決まるのではありません。それは、信仰によって私たちが受け取ったキリストの義に基いているのです。これこそ、ルターが発見した自由でした。宗教改革におけるルターの貢献は、新しい教理を発明したことではありません。使徒たちの教えり、聖書に記されている教えをもう一度取り戻したことがルターの貢献なのです。

 <現代のプロテスタントとカトリックの考え方>

最後に、今回は宗教改革についての説教ですので、現代のプロテスタントとカトリックが救いをどのように捉えているのか、その違いをまとめておきたいと思います。

まず、はっきりさせておきたいことは、プロテスタントとカトリックには、多くの共通点があるということですどちらも、救いは神の恵みから始まると教えています。どちらも、イエス・キリストが私たちの救い主であると教えています。

そしてどちらも、クリスチャンは聖さにおいて成長していくべきだと教えています。

しかし、次の問いに対する答えは異なります。「神は何に基づいて、私たちを受け入れてくださるのか。」

プロテスタントの理解では、神が私たちを受け入れてくださる根拠は、ただキリストの義だけです。そして、それは一度限り、決定的になされます。プロテスタントはこれを「義認」と呼びます。その後に「聖化」が続きます。聖化とは、神が私たちをますますキリストに似た者へと造り変えてくださる、私たちの人生における継続的な恵みの働きです。

ですから、義認と聖化は異なるものですが、決して切り離すことはできません。

プロテスタントでは、次のように言います。「私たちは信仰のみによって義とされる。しかし、人を義とする信仰は決して単独で存在するものではない。」 つまり、良い行いによって神に受け入れられるのではないのです。しかし、私たちの信仰が本物であるなら、そこから良い行いが生まれてくるのです。

一方、カトリックの理解では、神が私たちを受け入れてくださることは、キリストの義だけでなく、私たち自身の行いも関係しています。カトリック信者は、心を新しくし、救いに向けて徳となる良い行いをするために、神の恵みが必要だと考えます。カトリックでは、救いには神と信者との協力が必要なのです。

また、カトリックでは、義認と聖化をプロテスタントほど明確に区別しません。義認と聖化は、より密接に結びついています。それは、カトリックの理解においては、救いが私たちの良い行いとも関係しているからです。

この点もプロテスタントとカトリックの考え方の違いの一つです。カトリックにおいては、従順と良い行いは救いのために必要なものとされます。

一方、プロテスタントにおいては、従順と良い行いは救われていることの証しと考えられます。

 <結論>

プロテスタントである私たちは、救いについて深い確信を持つことができます。なぜなら、神に受け入れていただけるかどうかは、私たちの信仰がどれほど強いか、あるいは私たちがどれほど一貫して従順に歩めているかにかかっているのではなく、イエス・キリストがすでに成し遂げてくださった御業にかかっているからです。キリストだけが、私たちが義とされる根拠です。そして、信仰だけが、キリストとその義を受け取る手段なのです。

来月は、次のソラである sola gratia、「恵みのみ」について見ていきたいと思います。

それでは最後に、お祈りしましょう。

全能の父なる神さま. あなたは、私たちの罪のためにひとり子を与えて死に渡され、そして私たちを義とするために、そのひとり子をよみがえらせてくださいました。どうか私たちに恵みを与え、悪意と不正のパン種を捨て去らせ、常に清らかな生涯をもってお仕えさせてください。あなたとともに、また聖霊とともに、唯一の神として今もとこしえに生きて治められる、あなたの御子、私たちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。」

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