↓メッセージが聞けます。(日曜礼拝録音)
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毎朝、私は娘を幼稚園に送ります。ある日、ある親御さんが「学校の近くに、右歩け!って叫ぶおじいさんがいるから、気をつけてくださいね。一体自分を誰さまと思っているのかしら。」と教えてくれました。
その忠告通り、とうとう問題のおじいさんに会う時がやってきました。そのおじいさんは私に向かって、「右歩け、ばかやろう!」と叫んできました。
警察官に「右を歩け」と言われたら、話は別です。どちら側を歩くか法律で決まっていませんが、多分、警察官の言うことを聞くと思います。警察官の制服を着た人や、ある特定の人たちは私たちに命令する権限を持っていますね。
でも一般的に、誰かに命令されるのは嫌なものです。命令する人たちに下に見られたり、批判されたりした時には、本当に嫌な気持ちになります。そして残念ながら、聖書の神が、このおじいさんみたいだと感じる人が多いのではと感じます。つまり、聖書の神は私たちを見張っていて、何か悪いことをした時に捕まえに来るような存在だと感じる人が多いような気がします。一方で、神がいたとしても、神というのは、私たちが生きようが死のうが、何の関係もなくて、見守ってもいないし、気にしてもいないと思っている人もいます。
今年はマルコの福音書をお話してきました。マルコの福音書が伝えようとしているのは、イエスが一体どなたであるか、つまりイエスが単なる宗教上の教師ではなくて、全世界の王だということです。
今日は、イエスの権威についていろいろと考えていきたいと思います。イエスは、ご自分が全ての物、全ての人々を支配する神の権威を持っていると主張しました。今日のメッセージの中心として話したいのは、イエスの王としての権威を受け入れるよう、私たちは求められていること、けれどもイエスは恐れる方ではないということ、そしてイエスは、私たちのことを愛し、私たちと共に苦しみをも通ってくださる方であるということです。だからこそ、毎年クリスマスに私たちはイエスの誕生をお祝いします。
ではマルコの福音書11章と12章を読みましょう。ここでは当時の宗教指導者たちがイエスの権威について疑問視しています。まずお祈りします。
(マルコの福音書11章27節~12章12節まで読む)
<イエスVS宗教指導者たち>
イエスと宗教指導者たちとの間で続いていた対立は、非常に激しいものとなっていました。宗教指導者たちがイエスを嫌ったのは、律法主義的な宗教指導者の聖書観やおごりをイエスが批判したからです。また、宗教学者たちはイエスの世間での人気ぶりに脅威を感じていました。
イエスは人々に権威ある者のように教えました。その権威は、聖書研究に生涯を捧げてきた宗教学者が持つ権威とはどこか違っていたと、人々は感じたとマルコは記しています。(マルコ1:22, 27)その上、イエスは病を癒し、悪魔を追い出すことができました。更に、罪を許す権威も持っているとイエスは主張しました。
ろばの子に乗ってエルサレムに入ったイエスは、群集に畏敬をもって迎えられました。これによって、ご自分がイスラエルの王であることをイエスは暗示しましたが、宗教指導者たちに衝撃を与えることとなりました。そしてエルサレムに入城してから、イエスは会堂に行き、商売をしている商人たちを追い払いました。まるで会堂で行われていることに対する権限、権威を持っているかのように。
ですから、祭司長や律法学者、長老たちは、「誰があなたにこれらのことをする権威を授けたのですか」と尋ねました。この質問は疑問文ではありません。彼らは「ちょっと、一体自分を誰だと思っているんだ。お前はここの責任者じゃないんだよ。」と言いたいのです。
今日の聖書箇所で、イエスの権威は誰によるものなのかについて、イエスは直接には何も言っていません。しかし、イエスはぶどう園の農夫のたとえ話を使って、彼らの質問に答えました。
ぶどう園の農夫のたとえ話を簡単に説明すると、まず、ぶどう園の主人は神を表しています。邪悪な農夫たちは、イスラエルの歴史の中で神の使者を拒んだ人々のことです。そしてぶどう園の主人の息子はイエスを表しています。礎の石もイエスを意味しています。
このたとえ話で、イエスの言いたいことはこうです。「わたしの権威は神によるものです。何故なら神はわたしを送ってくださったから。神のひとり子であるわたしを、あなたたちは拒むでしょう。しかし、私の父なる神はわたしの真実を明らかにし、高きところへ引き上げてくださいます。」
イエスの答えを聞いた宗教指導者たちが、こんな者は消し去ってしまえと思うのも驚きではありません。宗教指導者たちは、イエスが自分を神と呼ぶ偽物の救い主だと思って、これ以上人々を惑わせるわけにはいかないと考えたのでしょう。
<イエスの言うことを聞くべきか?>
イエスが本当に神によって人々に語るよう遣わされたのか、その証拠をイエスは何か持っていたでしょうか。マルコの福音書は、その証拠として、イエスの言葉、イエスの行った奇跡、そして死んでから蘇(よみがえ)ったことを挙げています。イエスの言葉は真実です。イエスの奇蹟には、自然にも病にも、更には死にも打ち勝つ神の力があります。そして蘇ったイエスを目の当たりにした弟子たちは、厳しい迫害の中でも確信を持って主イエスに従い続けました。
神が本当に存在するのか、その証拠は何もないと考える人がほとんどです。特に、この世には多くの悪がはびこっていて、悪を戒める正義がないように感じます。
多分、イエスのたとえ話に出てきた農夫たちも、同じような考えだったと思います。自分の欲望に従ってどんな悪い行動も続けてかまなわいと、農夫たちは思ったのでしょう。
ぶどう園の主人の使いにひどいことをした農夫たちに、すぐに報いがなかったように、この世においても私たちが選んだことに対して、すぐに報いがなされることは、多分ないかもしれません。でも神は全世界の所有者、主でおられます。ですから、私たちのよい行いも悪い行いも全てに対する報いは、いつかあるとイエスは約束しています。
今は個人の自由が重要視される時代です。自分の選択が人に支配されたり、批判されたりしたくありませんし、誰かに自分の行いを正されたり、間違っていると言われたりするのは嫌なものです。
このことを医療の観点から考えるとわかりやすいと思います。誰も病気になりたくないし、病気だと知るのも嫌ですよね。自分の体に何か悪いところがあるなんて聞きたくなくて、医者に行きたがらない人もいます。
あなたは心臓の病気ですと告げる医者のように、イエスは、あなたの心の中にある罪は深刻な問題だと告げます。それは本当に悪い知らせで、誰もそんなことを聞きたくはありません。でもそれはよい知らせでもあります。よい知らせというのは、イエスが私たちを治すことができる方だからです。そして、今まで私がかかった医者の中にはよくない医者がいましたが、そのような医者と違って、イエスは信頼できる方です。イエスは厳しい真実を私たちに告げますが、優しく憐み深い方でもあります。イエスは私を、そしてあなたを本当に大切に思っておられるのです。
あなたも私も、イエスの言葉を聞くか聞かないかの決断をしなくてはいけません。ある医者の診断に疑問を持った時にセカンドオピニオンを求めるように、私たちはイエスの言葉をしっかりと注意深く考えていかなければいけないと思います。イエスは本当に人々に語る資格がある方なのかどうか。
<私たちのために苦しまれた王>
皆さんの中には、権力のある立場の人、例えば、両親、学校の教師、会社の上司、更には教会のリーダーなどから不当な扱いを受けたという経験を持つ方もいるかもしれません。そのような経験をされた方は、聖書が神のことを「天の父なる神」とか「私たちの主」とか、「私たちの王」などと呼んでいるのを知ると、神を受け入れるのが難しいと感じるかもしれません。
しかし、私はイエスこそ、私たちが従うのにふさわしい方であると思います。
イエスは、名声や権力、お金のために力を注いだのではなくて、イエスが愛する人々、つまり私やあなたのために恥ずべき死をお選びになりました。
イエスは離れたところで腕を組んで、ただ見ているような遠い神ではありません。イエスは私たちのところに来て、私たちと苦しみを共にしてくださる神です。ぶどう園の息子が殺されたように、私たちの罪を清めるためにイエスは十字架にかかって死んでくださいました。
イエスという王は、権威を振るって人を支配したり虐(しいた)げたりしません。権威を振るえる立場なのに、イエスは私たちに仕え、私たちのために苦しむことを選んでくださいました。イエスは貧しい者や軽蔑されている人々に仕え、尊厳をもって接しました。イエスは、弟子の足を洗いましたが、それは当時、教師がするようなことではありませんでした。
マルコ10章にはこのように書かれています。「…あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:43-45)
何故、2千年にもわたり、イエスは聞き従うべきふさわしい方だと、世界中の多くの人々が考えてきたのか、その理由をほんの一部ですがお話しました。そして、それが毎年クリスマスに私たちがイエスの誕生を祝う理由なのです。
<結び>
最後にピリピ2章1節から11節まで読みましょう。ここには、イエスがどんな方か、そしてイエスに従う者として、私たちはどうあるべきかが書かれています。
「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
祈りましょう。神さま、毎年あなたのひとり子イエス・キリストの誕生を私たちは喜びます。イエスさまを私たちの救い主として喜びをもって受け入れます。イエスさまが裁き主として再び来られる時に、どうか私たちが胸を張って、イエスさまにお会いできますように。神、聖霊と共におられ、永久(とわ)に治める私たちの主、イエスキリストのお名前によって祈ります。
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