(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)
皆さんおはようございます。今日は、ゼカリヤ書7章に入ります。前回は、6章を取り上げました。そこには、メシアの誕生の預言が語られています。6章12節と13節です。「彼に言いなさい、『万軍の主は、こう仰せられる、見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる。 すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して治める。その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある』。」とあります。この若枝であるメシアは、私たちの大祭司であり、私たちの王であることを学びました。私たち異邦人もメシアであるイエスを礼拝する民となるのです。そのようなメシアの幻を6章は私たちに見せています。私たちも宮の再建に招かれており、神を礼拝する民として生きることができるのです。
7章のテーマは断食です。しかし、断食以上のもの、断食を通して私たちは何を学ぶのか、その内容に触れてみます。それでは詳しく見てみましょう。7章2節で、ベテルの問いかけが書かれています。彼は熱心な信仰者であり、主を求め、いけにえを捧げ、神を礼拝する歩みを求めていたようです。彼の質問は、7章3節です。「私が長年やってきたように、第5の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」との問いかけです。当時、多くの信仰者はエルサレムが滅ぼされたことを覚えて、神の前に断食をして、涙を流し、祈りを捧げていたようです。第5の月には、エルサレムの神殿が破壊されたことを覚えて断食をしたようです。毎年、神殿が破壊されたことを覚え、悲しみ、神に祈りを捧げたのです。とても理にかなった断食であるように思えます。神の答えは4、5節です。「この70年の間、あなたがたが、第5の月と第7の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。」との問いかけです。続いて6節には、「あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。」と問いかけています。当時信仰の熱心な人たちは、第5の月と第7の月に断食をして嘆いたようです。では、第7の月、これは何のための断食でしょうか。エレミヤ書41章1節と2節にその背景が書かれています。バビロンによって南ユダ国の総督に任命されたゲダルヤが殺害され、国が絶望の状態に陥ったことを嘆いた断食であったようです。確かに国が絶望状態に陥る。また神殿が壊される。そのことを覚えて断食をする。それらは将来に向けて必要なことであったのでしょう。しかし、神は彼らに問いかけをします。「この70年の間、あなたがたが、第5の月と第7の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。」との問いかけです。エルサレムの陥落を悲しみ、リーダーの喪失を覚えての断食、確かにそれは必要でしょう。しかし、最も大切なこと、神に目を向けて、神の御心を求めた断食、祈りではなかったのです。断食が形骸化し、自分たちの不幸を嘆くための断食になってしまったのです。焦点を自分に向け、神に向けない、そのような断食になっていたのです。神に目を向ける。そしてあなたの御心は何なのですかと問う。これこそ断食の祈りのあるべき姿です。真実に悔い改め、神の御心を求め、正しい生き方に踏み出す。それならば健全です。信仰の実を実らせる歩みに彼らは踏み出せたはずです。
8節から、そのような指摘が始まっていきます。8節から10節に、「主の言葉が、またゼカリヤに臨んだ、 「万軍の主はこう仰せられる、真実のさばきを行い、互に相いつくしみ、相あわれみ、 やもめ、みなしご、寄留の他国人および貧しい人を、しえたげてはならない。互に人を害することを、心に図ってはならない」。」とあります。神の御心は、新しいイスラエルが愛の共同体として成長することです。愛の共同体のその姿は、以下のようです。正しい裁きを行う、互いに誠実を尽くす、あわれみ合う。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者を虐げない。互いの心の中で悪をたくらむな、とあります。信仰が熱心であること、それは間違ってはいません。しかし、神に目を向け、神の御心を求めるという姿勢を見失うと信仰者としての歩みがずれてしまうのです。それが当時のイスラエルの姿だったのでしょう。11節には、「ところが、彼らは聞くことを拒み、肩をそびやかし、耳を鈍くして聞きいれず、 その心を金剛石のようにして、万軍の主がそのみたまにより、さきの預言者によって伝えられた、律法と言葉とに聞き従わなかった。それゆえ、大いなる怒りが、万軍の主から出て、彼らに臨んだのである。」とあります。
神の御心を求めない。彼らは、これを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった、とあります。彼らの心は金剛石のように頑なになってしまったのです。さらに、先の預言者たちを通して送られた教えと御言葉を聞き入れなかった、とあり、そこで、万軍の主から大きな怒りが降ったとあります。
さて、皆さん、イエス様が安息日に弟子たちと麦畑を通られ、ある出来事が起こったことがマタイ12章に書かれています。そこには、お腹を空かした弟子たちが、穂を摘んで食べ始めたとあります。旧約の律法は素晴らしいです。空腹を満たすために麦畑の穂を手で摘んで食べることは、許されていたのです。今の状況に例えるなら、本当にお腹がすいた時、貧しい者たちが道の近くにある果樹園に入って、柿を取り、また梨を取り、また、ぶどうをとって食べる。そんなことが許されたらいいのにと思うことがあります。実は旧約聖書では貧しい者のために、その行為は許されていたのです。旅の途中の弟子たちも麦の穂をとって食べる。これは許されていたのです。しかし安息日にそのことをする。その行為をパリサイ人たちは労働であると理解したのです。そして、安息日の律法を破ったと弟子たちを責めたのです。イエスの答えは、マタイ12章7節と8節です。「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。 人の子は安息日の主である」。」とあります。イエスは、ホセア書6章6節からこの言葉を選んでいます。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。 燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」とあります。神は、私たちがいけにえを捧げることより、いつくしみや、神を知ることを願っておられるのです。そして、そして8節で、「人の子は安息日の主です。」とイエスは宣言されます。
今日私たちはキリストに仕え、主イエス・キリストを礼拝する、そのために集まっています。今日のテーマに戻りますが、断食は確かに正しい目的を持ってする時に神の祝福が伴います。しかし目的がずれてしまって、それが習慣化する時に、私たちは恵みの世界から外れて、律法主義に陥ってしまうことがあるのです。むしろ9節と10節にあるように、互いに誠実を尽くし、また哀れみ合う、貧しい者たちを大切に思う。そのような姿勢に至ること、それが本来の断食の姿であったのでしょう。
榎本先生の著書「1日1章、旧約聖書篇」の中で、先生はこのように述べています。「要するに、主のみこころは断食をするかしないかということではなくて、だれのために断食をするかということであり、神が求めておられるのは、信仰の実を結ぶこと、すなわち高い倫理性に生きることである」と述べています。そして、「主イエスも徹夜の祈りをされた。使途パウロも祈りの人であった。しかし、その祈りは、決して自分のためのものではなかった。」しかし、彼らは、自分の願いがかなえられることではなく、「そこで、みこころがなんであるかを問い、それに従い行くことのできるために祈った。」と書いています。
神は問いかけます。あなた方が断食して祈った時、この私のために断食したのかと。その断食の目的は、過去の過ちから立ち返って、悔い改めて、神のみこころを求め、新しい歩みをするためではなかったのかとの問いかけです。旧約聖書ホセア書6章6節をもう一度読んでみます。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。 燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」とあります。神を知ること、それは神の御心を知ることでもあるのです。私たちは祈りを通して、こうしてほしい、ああしてほしいとの願いから、神よ、あなたは私に何をしてほしいと願っておられるのですかと問いかける者でありたいです。
皆さん、信仰者として熱心になって歩みましょう。視点を神に向けましょう。神の御心にとどまって生きましょう。互に人を害することを、心に図ってはならない(互いの心の中で悪をたくらむな、別訳)とのみ言葉に目を注ぎましょう。それは、神を愛し、隣人を愛する生き方です。そして、この社会の中でしっかりとした証ができる人生を目指しましょう。イエスの恵みをいつも覚えて、イエスと共に歩んでまいりましょう。



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