「後の雨の時に、主に雨を求めよ。」ゼカリヤ書10章1節

Pastor Ino

(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)

今日はゼカリヤ書10章に入ります。10章の1節には、「後の雨の時に、主に雨を求めよ。」と書かれています。後の雨とは、春に降る雨で収穫期の雨です。穀物の出来、不出来はこの雨が豊かに降るかどうかにかかっています。主に雨を求めよとは、宮を建て、礼拝する民に向かって、大いに主に祝福を求めなさい、とのチャレンジに満ちた御言葉です。この10章は、背景にイスラエルの民が、神殿を立てることにより祝福される民となるとのメッセージが含まれています。

前回は、ゼカリヤ書9章9節のみ言葉を取り上げました。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。」と書かれています。彼らが造り上げる神殿に、主イエスがおいでになるのです。神殿は、イエスの贖いの業を証しするのです。彼らと同様に、大いに主に祝福を求める人生、それが私たちの本来の歩みでもあると思うのです。

ところが、かつてのイスラエルの民は、神の助けが必要な時に、真の神に目を向けずに、占いや偶像に目向けてしまったのです。それが2節の言葉です。つまらないことをしゃべる。虚しいことを語る。「それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので悩む。」と書かれています。彼らは、ソロモン王の時代に、一度は神の神殿を建て、神に目を向け、御言葉に従い、神の祝福の中に歩むことをめざしたのです。神の御心は、イスラエルの民は、聖なる国民、祭司の王国として生きることでした。残念ですが、民の羊飼いであるはずの為政者の多くは、神を愛し、民を愛すると言う神の御心からそれて行ってしまったのです。

少し歴史を振り返ります。ソロモン王の時代に神の神殿が建てられました。神は、ソロモン王の働きを祝福し、大いに用いられたのです。ソロモン王は良き羊飼いとして、民を導き、民と共に礼拝を捧げ、祈りを捧げ、神の民としての歩みを確かに始めたのです。ソロモン王の祈りをいくつか読んでみます。列王記第一8章27から30節には、「しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。 しかしわが神、主よ、しもべの祈と願いを顧みて、しもべがきょう、あなたの前にささげる叫びと祈をお聞きください。 あなたが『わたしの名をそこに置く』と言われた所、すなわち、この宮に向かって夜昼あなたの目をお開きください。しもべがこの所に向かって祈る祈をお聞きください。 しもべと、あなたの民イスラエルがこの所に向かって祈る時に、その願いをお聞きください。あなたのすみかである天で聞き、聞いておゆるしください。」とあります。神殿を完成し、民の良きリーダーとして、私たちの祈りを聞いてくださいと心から祈っています。

ところが、しばらくするとソロモン王も神の祝福から離れていきます。さらに残念なことに、その次の世代から国が2つに分かれます。北イスラエルと南ユダです。ソロモンの子供レハブアムも、もし神に聞き、自らの民を愛そうと決断ができたなら、国は2つには分裂しなかったと思われます。分裂し、離れて行った北イスラエルは、すぐに神への信仰をなくし、金の子牛を礼拝する民となってしまったのです。南ユダは何とか持ちこたえますが、しかしその国も最終的にバビロンによって滅ぼされ、民は捕囚とされていきます。ところが、今、彼らは奇跡的にエルサレムに戻ることができたのです。これも驚くことに、ソロモン王に祈りに含まれているのです。

列王記第一8章46節から50節です。「彼らがあなたに対して罪を犯すことがあって、――人は罪を犯さない者はないのです、――あなたが彼らを怒り、彼らを敵にわたし、敵が彼らを捕虜として遠近にかかわらず、敵の地に引いて行く時、 もし彼らが捕われていった地で、みずから省みて悔い、自分を捕えていった者の地で、あなたに願い、『われわれは罪を犯しました、そむいて悪を行いました』と言い、 自分を捕えていった敵の地で、心をつくし、精神をつくしてあなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた地、あなたが選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、あなたに祈るならば、 あなたのすみかである天で、彼らの祈と願いを聞いて、彼らを助け、 あなたの民が、あなたに対して犯した罪と、あなたに対して行ったすべてのあやまちをゆるし、彼らを捕えていった者の前で、彼らにあわれみを得させ、その人々が彼らをあわれむようにしてください。」と書かれています。

このソロモン王の祈りを神は覚えておられ、捕囚からの解放という神の奇跡が起こります。

今イスラエルの民は、エルサレムに戻り、そしてもう一度神殿を建てなおし、神を礼拝する民、神の御言葉に聞き従う民になろうと決断をしたのです。その彼らに、この10章は豊かな祝福を約束しているのです。

神の祝福とは、具体的に何でしょう。北イスラエルと南ユダも、もう一度神によって愛され、贖われた民となると言うことです。8節には、「わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。彼は以前のように数がふえる。」とあります。あがなう、この言葉は北イスラエルと南ユダに向かって語られています。6節には、「わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしは彼らをあわれむからだ。」とあります。ヨセフの家とは、北イスラエルを指しています。神は、北イスラエルと南ユダを神の民として回復されるのです。7節には、「エフライムは勇士のようになり、」とあります。エフライムも北イスラエルを指します。「彼らの子らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。」と書かれています。喜ぶ、楽しむという言葉は、回復された民の姿をよく表しています。彼らはもう一度、この神殿を再建し、ともに神を礼拝する民となるのです。その祝福はその子供たちに及ぶのです。

この希望を持って、さらに多くの民がこの地に戻ってくるのです。10節には、エジプトの地、そしてアッシリアから彼らを寄せ集める、とあります。そして集まった民が多くなるので、ギルアデの地とレバノンへ連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる、とあります。多くの民が戻って来て、イスラエルの民は増えていくのです。そして11節は、苦難の海を渡り、海では波を打つ、とあり、彼らは苦難から解放されていくのです。反対に、かつて彼らを奴隷としたエジプトもアッシリアも低くされます。そして12節で、「彼らの力は主にあり、彼ら主の名によって歩き回る。」とあります。この地に戻ってくる民の力は主にあるのです。

もう一度、10章の内容を振り返ります。神は神殿を立て、礼拝者になろうと決断した民を祝福します。そして、後の雨の時に、主に雨を求めよとチャレンジします。皆さん、皆さんが救われたその理由はなんでしょう。皆さんが優れていた、全て人がそうではないと思います。神の恵みのゆえに皆さんは救われたのです。キリストの愛ゆえに、私たちは救われたのです。そして私たちは、神の民として、今神を礼拝し、神をほめたたえ、神の御言葉によって生きようと決断をしています。主の祝福が注がれることを信じて、神の回復を待ち望んで、主に祝福を求めたいと思うのです。

自然の回復は、現在の私たちにとっても大きなテーマです。私たちは今、地球温暖化の影響をいろんな所で見ます。荒れ狂う天気の恐怖を持って今私たちは生きています。しかし、秩序をもたらす神がおられるのです。目を神に向けて、主に祝福の雨を求め、私たちの人生を大いに祝してくださいと祈ろうではありませんか。もう一度契約の民として生きようと決断する時に、たとえ失敗を経験した民にも回復の時が訪れます。その時は確かに来るのです。その信仰を持って主に祝福の雨を求める。これが10章のチャレンジです。

ゼカリヤ書10章1節を口語訳で読んでみます。「あなたがたは春の雨の時に、 雨を主に請い求めよ。 主はいなずまを造り、大雨を人々に賜い、 野の青草をおのおのに賜わる。」と書かれています。神の約束は、確かです。神は、「いなずまを造り、大雨を人々に賜い、 野の青草をおのおのに賜わる。」と約束しておられます。たとえ約束が遅れたとしても、まだそのようには見えなくても、私たちは目を主に向けて祈ろうではありませんか。そして、神の祝福が注がれる時を待ちましょう。収穫には時間がかかるからです。

感謝のことに、私たちはキリストを信じ、救われ、神を礼拝する民となっています。しかし、まだこの地上では、時には病気になったり、苦しんだり、不安になったり、悲しいことが私たちの人生には起こります。そんな私たちでも、祝福の雨を降らしてください、と祈ることができます。目を天に向けて、また、野の青草を見つめながら、あなたの祝福を与えてくださいと祈っていきましょう。いつの日か神は私たちの祈りに豊に答えてくださるのです。

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