(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)
きょうの礼拝の聖書個所は、ヨハネの福音書9章です。
・きょうは先ず、この聖書個所の中心テーマは何か、このことを理解するために、この記事の4つのポイントについてお話ししたいと思います。
・注目すべき第一のポイント、それは、ここに登場する一人の盲人について、聖書が冒頭でこのように説明していることです。→「イエスは道の途中で、生まれつきの、盲人を見られた」
・つまりこの人は、生まれた時には、既に盲人であったのでした。
・ですから、この人が、目が見えない、そのために、障害者への差別の強い古代イスラエルのその社会の中では、物乞いをして生きてゆくしかない、そういう人生となってしまっていた、その原因、その責任は、この人自身にはまったくなかったわけです。
・もう少し説明しますと・・たとえば・・ある人が、覚醒剤に手を出して、そして、そのいきよいで強盗を犯してしまい、結局逮捕され、刑務所に入っことになったとします。
・このような場合ですと・・、その人が犯罪者としての暗い人生を歩まなければならなくなってしまったその原因、その責任は・・やはり、この人自身の中にあった。と言わざるを得ません。
・勿論、どのような場合でも、「人の不幸の、その原因は単純に、その人だけにある」そのように言い切ることは正しいことではありません。 しかし、このような事例の場合は・・そのような暗い人生になってしまったその原因の少なくともその一旦はやはりその人にある、そう言わざるを得ません。
・しかしきょうの聖書個所に出てくる、座って物乞いをしていたこの人は、そのような人の場合とは違います。 彼自身には、彼の不幸の源(みなもと)があるわけではなかったのです。
・もし、皆さんが、気の毒な人を見かけ・・しかも、その原因が、その人にまったく見当たらないのに、・・尚、その人が不幸を負っている、そういう現実を見ました時に・・皆さんは、その人がそうなってしまっている、その因果関係をどのように考えられるのでしょうか・・
➁二番目のポイントですが・・それは、この盲人のことを・・聖書は・・「イエスがこの人を見た」と、わざわざ伝えていることです。
・イエス・キリストは、この時、この盲人を・・どのような思いをもって見られたのでしょうか?・・
わたしは、聖書がここで、・・「イエスが見た」と記している、この単純であるけれども、広がりのある言い方にとても意味深なものを感じます。
・はたして、この時のイエスさまはの眼差し、イエスの御心は、どのようなものだったのでしょう・・
・イエスさまの眼差しはさておき・・、私たちは、はたして、彼のように重い重荷を負いながら生きている人に、日頃・・どのようなまなざし・・つまり、どのような思いを持って観てゆくのでしょうか・・。
③さて、この聖書箇所の三番目のポイントですが・・
・それは、イエスの弟子たちが、ここで、主イエスにこのように質問したことです。
・2節です。→ 「弟子たちは、彼についてイエスに質問して言った。 先生、彼が盲人に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。 この人ですか。その両親ですか。」
・この彼らの質問の意味しているところをゆっくり考えてみますと・・そうです。 彼らの心の奥にある、その、人への冷たい考え方・・不幸な人へのゆがんだまなざしが見えてきます。
・そうです。彼らは・・どの弟子も皆、こう考えていたのでした。
「人間の不幸には、みな、どこかに原因がある。 もし、その人に原因がなければ、その人以外の・・例えば、両親であるとか・・先祖の誰かであるとか・・何かの因果があるに違いない。」
・どこで教えられてきたのでしょうか・・実に悲しい、まなざしです。
・これは・・日本的に言いますと・・「罰が当たったのだ」こういう考え方です。
・こういう考え方のことを・・「因果応報」の考え方と申します。
・ちょっと驚きです。 何と、何とイエスの弟子までも、・・こういう因果応報の考え方・・、
罰が当たるちとか。天罰が下るとか・・ その人の行いが悪いから、その人は不幸なことになった・・そういう実に冷酷な考え方を持っていたようなのです。
・では、この因果応報の考え方は、日本人や、古代ユダヤ人社会の人たち、だけの考え方なのでしょうか・・
○話は変わりますが・・伊野先生と初めてお会いした頃ですから、何十年も前の話ですが・・
若い神学生であった私は、ある日、神学校の校長先生であったアメリカ人のドナルド・ピーターソン先生のそのお部屋を訪ねて、こんな質問をしたことがありました。
・「日本では、この因果応報の考え方を強く持っている、そういう方が多いと思うのですが・・
アメリカの方はどうなのでしょうか・・そういう因果応報の考え方など全然しないのですか・・。
・すると、ピーターソン校長の返事は少々驚くものでした
・先生は明確にこうおっしゃいました。「あります。あります。日本人のような感じではありませんが、アメリカ人もみんな因果応報の考えの中にいます。」 先生はそうおっしゃったのでした。
・そういえば、私を信仰に導いてくれたドイツ人の宣教師の先生も同じようなことを言っておられました。 つまり、この因果応報の考え方は、国籍とか文化に関わらず、世界中の人が陥りやすい寂し考え方であるようです。
・聖書に話を戻しますが・・この時、盲人を見た弟子たちは・・気づいていませんでした。自分たちが、どれ程、今、ひどいことを言っているのか・・です。 分かりやすくいいますと、つまり、彼らはこう言っているのと同じです。→ 「イエスさま。この人が目が見えないのは・・この人に、天罰が下ったからですか?」これが弟子たちの心の内であったのです。
④四番目のポイント・・それは、言うまでもなく、この時のイエスさまの答えです。
・:3の朗読→ この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるからです。
・このイエスさまの答えを、わかりやすく言い直してみますと、こうなります。
→「天罰が下ったのではありません。 この人が、このようになっているのは・・この人に、神の力・・神の偉大さ、神の栄光が現れるためなのです・・。」
・それでも尚、まだちょっとわかりにくいと思われる方もおられるかもしれません。
そこで、もう一歩砕かれた言い方に代えてみますと・・イエスさまはここでこのようにメッセージをされている訳です。
・あなたは、今、不幸の真っただ中にいるかもしれない・・そして、多くの人が、そういうあなたに、「この人がこんな不幸な人生になっているのは・・この人の何が原因なのか」などと、冷たい視線を向けて来るかもしれません・・
・また、もしかすると、あなた自身も、「自分がこのような人生になっている、その原因は、この私自身の罪故に・・あるいは私の親族の罪故にあるのだろうか・・」などと考えてしまうことがあるかもしれません。 しかし、そのような失望は間違っています。
・まず、それは、天罰などではけしてないからです・・。そもそも、人が不幸な状況に置かれてゆくのは、必ずしも、その人自身が引き込んだものとは言い切れないのです。
・あなたが、生まれながら目が見えず、物乞いをするしかない、そういう毎日になっているのはあなたからの因果でもなく、責任でもありません。
・ではなぜか・・ 今わかります。
・この後、主イエスは、この人の目を癒されます。 するとこの噂を聞いた多くの人がこの人を一目見たいそう思ってやって来ます。・・また、この人を当時の宗教指導者をたくさん排出していたパリサイ人といわれていた人の所に連れてゆく人などが現れたのでした。
・つまり彼はちょうどビリーグラハムのように主イエスのすばらしさを伝える人となり、福音宣教に大いに用いられていったのでした。
⑤誰が見ても不幸にしか思えない、そのような状態であった人が、救い主イエス・キリストの愛に気づき、イエス・キリストを我が主とお迎えしてゆく決心をされ・・その人を通して、神さまのすばらしさがあふれ出てゆく・・そういう人生に大転換されていった、そういう事例を皆さんは沢山知っておられるのではないでしょうか・・
・へレンケラーさん 星野富弘さん この方たちはその代表的な方々ですが・・きょうは、詩人の水野源蔵さんを紹介したいと思います。
・彼は、重症心身障者ですので、目のまばたきしか自由に動かすことができません。今日の聖書個所に出て来る人よりも更に重い障害をもった方です。ですから、ある人からは不幸の代表のように思われているようですが・・クリスチャンの水野さんの書かれた詩は私だけではなく、沢山の人を励ましつづけておられます。
・彼の詩にこのような詩があります。この詩は、おそらく水野さんが家族がまだ寝静まっている未明に目を覚まし、その時にうたった詩であると思います・・。
「主よ。ここにおるのは あなたと私だけです・・。 まだ、あけぼのは遠いから 何も見えない、聞こえない・・。」
「主よ。 ここにおるのは あなたと私だけです・・。 あかりを求める心には すべてを照らす光が・・」
「主よ。 ここにおるのは あなたと私だけです・・。 やみにおののく心には やすらぎに満ちた御心が・・」
「主よ。 ここにおるのは あなたと私だけです・・。 夜露に冷えた心には 永遠(とわ)に変わらない、ご愛が・・」
○そうです。神さまは、重い障害の方々だけを見つめておられるのではありません。
私たち、一人一人を見つめておられるのです。
そして、神さまは‥ 皆さんお一人一人を通して、神さまの御業を表してくださるのです。
神さまは、そういうお方なのです。 もう一度、きょう、このことを覚えながら新しい週に踏み出してまいりましょう・・。
・伊野先生にお祈りしていただきましょう。



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