「彼は、『私がその人です。』と言った」 ヨハネ9:4-17

Pastor Kitazawa

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①先々週の礼拝では、ヨハネの福音書9章の所をみなさんとご一緒に観てゆきました。

・きょうはその癒された人が、その後どうなっていったのかについて観てゆきたいと思っています。

・生まれながらの盲人であった彼は、主イエスの御業により、目が見える様になりました。
それは、単に、一人の人の目が見えるようになった、という、そういう単純な出来事ではありませんでした。

・事は大きく動いてゆきます。 最初に、この出来事を聞いて驚き集まって来た者たちは、彼のことを日頃よく見かけていた人たちでした。 彼らはこのように驚きの言葉を発します。
「これは・・座って物乞いをしていた人ではないか・・」

・このとき・・「お前、目が見える様になったのか・・よかったなあ・・」と言って、この人と喜びを分かち合った、そういう者がいたか、と言いますと・・そのような心の温かい者は、残念ながら、一人もいなかったようです。

・このように、当時の人々の反応は、何と言いましょうか・・人への思いやりに掛けていたと言いましょうか・・この、元盲人がどうなったのかということよりも・・その御業をされたイエスという者はいったい何者なのか・・そちらの方に興味があったようなのです。

➁ところで、この騒ぎ始めた人々の中に、「この人はあそこに座っていた人ではなく、ただ似ているだけではないか・・」そのように思った者もいたようでした。 そうです。この人の変わりぶりが余りに大きかったので、そう思ってしまう人も現れたのでした。

・この時、この癒された人を取り囲んでいる、人々の、その顔を想像してみてください。
何とも不思議そうな顔が並んでいたのではないでしょうか・・。

・この時、目を癒された人は、周りの者たちから次々と質問攻めに遭います。

・「お前は、その本人なのか」「見えなかった目が、今、どうして目が明いているのか」
 「そのイエスとか言う者は今どこにいるのか・・」

・そこで、この元盲人は、ついに、人々に、はっきりとこう言います。
 →「私がその人です。」

・この彼の、この返事・・何か、ピンとこない・・一見、多くの人が見過ごしてしまうような・・そんな言葉ようですが・・

・しかしこの彼の口から出たこの言葉・・、どこかで聞いたことのある感じが致します。
・そうです。 これは、ヨハネ8:58の所で、イエスキリストが、多くの人に質問攻めに会った時に語られた、「わたしはいるのです。」という言葉と、原語ではまったく同じ言い方となっているのです。

・しかし。だからといって、勿論、この人が、自分のことを、救い主イエスキリストの分身のようになって人々の質問に答えていった。と理解するのは間違った解釈であると思います。

・ヨハネの福音書は、ここで、そういうことを伝えているのではないのです。

・そうではなく、聖書がここで伝えたいのは、この生まれながら盲人であった人が・・多くの人に取り囲まれて・・「どうなのだ、どうなのだ・・まさか、あのイエスが救い主だとでもお前は言うのではないだろうな・・」そんな感じで問い正してきたとき、彼は、あの主イエスキリストと同じように、自分の事を、隠さず、きっぱりとこう証言したというのです。
→「私が、その人です。

・若かりし日、私はここを読む度によくこんなことを思いました。 「この男が何を言ったか、そんなことは、自分たちの信仰にはあまり大事な事ではないのではないだろうか・・」

・しかし50才を過ぎ、60を過ぎ、70を過ぎ・・だんだんと、ここにある聖書の言葉のその重みがわかってきました。
 

③少し聖書記事から離れますが・・ここで、この私の小さな告白をしたいと思っています。

・皆さんはちょっと、信じられないかもしれませんが・・ 
・・実は、この私には、意外にも、内気な面があるのです。 

・牧師という立場は、けっこう目立ちます。 実は・・これが、私は、はっきりいって、あまり好きではないのです。

・牧師という立場になって、20年程したとき、一番下の子が大学生になった時でした。
 私は朝の祈りの後。ふとこう思いました。

・「子育てもひと段落下した、この機会に、牧師というような目立つところからは降ろさせてもらって・・この後は、妻と二人だけで、どこかだれも尋ねてこない、だれも知られていない小さな町に行って、ひっそりと暮らすというのははどうだろうか・・神さまはおゆるしになるだろうか・・」

・皆さんは、いかがでしょうか・・。「そんな、隠れキリシタンのような気持にはなったことはないでしょうか・・」

・聖書に話を戻します。
・この元盲人の、この人は、人々の前で自分のことを何も隠さず、「私が、その人です。」 と、きっぱりと、まるで、あの時のイエスキリストが語られた時のように、告白するのでした・・。

・当時のことを考えてみますと、重い障害者が、自分のことを公にはっきりと発言して行くというのはとても勇気がいることだったに違いありません。

・しかし彼は今、自分はどういう者か、これから自分は何を信じ、何を希望に生きてゆくことになってゆく人間なのか」彼はここで周りの人たちにきっぱりと告白したのでした。

・私は思います。「すごいなあ。立派な人だなあ・・これこそキリスト者のとるべき第一歩だなあ・・」そう思い、感動し・・心熱くなるのです。

④そういえば・・主イエスは、山上の説教という所で、このように語っておられます。

・マタイ5:13-16です。
 「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」

・「あなた方は、世界の光です。 山の上にある町は隠れることができません。
  また、あかりをつけて、それを桝の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。
  そうすれば家にいる人全部を照らします。」

・「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなた方の良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

・特にイエスさまが強調しておられるのはここです。→「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。」 

・私は時々、特に疲れを覚えている時など、無意識で、自分を隠そうとしまう不信仰なところがあるのです。

・しかしこの元盲人は・・人々に取り囲まれて、プレッシャーをかけられたその時に、はっきりとこう宣言したのでした。→ 「私が、その人です。」

・「すばらしいなあ・・強い人だなあ・・」そう思い、感動させられます。

⑤自分を隠そうとしてしまう、私の話はさしおきまして・・皆さんは、いかがでしょうか・・
 皆さんは、ご自分を、私の様に、枡の下におくようなことはけしてなさらずに、いつもご自分を燭台の上に置いて、周りの人たちに光を届けておられるでしょうか・・

・イエスさまの語られたことをもう一度申し上げます。
→あなた方は地の塩です。 あなた方の塩気があるので、この地上は腐ってゆかないのです。

・あなた方は世界の光です。 どんなに暗い出来事が続いても・・どんなに悲しい出来事がたとえあったとしても・・あなた方の放たれる、その光によって、人々は本当の希望を見出してゆくことができるのです。

・そうです。神さまにとって、あなた方キリスト者一人一人は、切り札なのです。
 主イエスは、このように語っておられるわけです。

⑥ところで、この、イエスさまから目が見えるようにさせていただいた彼は、その後どうなって行ったのか、ですが・・

・人々の前で自分を隠さず、本当の事を言った彼は、そのことで、何とこの後、町の人たちから追放させられてしまうのでした・・。

・しかし、主イエス・キリストは、町を追い出された彼を見つけ出して、このように言います。

・35節~38節です。「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言った。
 「あなたは人の子、つまり、主イエス・キリストを信じますか。」

・その人は答えた。
「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」

・イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」

・彼は言った。「主よ。私は信じます。」   そして彼はイエスを拝した。

・世界中のキリスト者がこの彼の信仰告白を聞いて、感動させられてきました。
 私もここを読む度に、力が与えられ、「もう少し、伝道をがんばってみようかな・・」
 そう思います。

・イザヤという旧約聖書の預言者を通した神さまからの御言葉を皆さんにお届けして、終わりたいと思います。イザヤ41:10です。

・恐れるな、わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け。
私の義に右の手で、あなたを守る。

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