(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)
皆さんおはようございます。初めての方もいらっしゃると思います。土谷彰彦と申します。僕は元々、IBFに16年間いましたので、馴染み深い方もいれば、今回初めての方もいらっしゃいます。僕自身はアメリカ留学中に20歳の時にイエスキリストと出会いました。その出会いは衝撃で、私は聖書の語る神が本当に私の人生に関わり、救ってくださったことを知りました。それ以来、イエスについていく道に歩んでいます。アメリカでの留学後、この教会で仕え始め、また聖契神学校で聖書を学びました。14年間の学びを通して、今年の3月に無事卒業しました。今回のメッセージは私が卒業チャペルで語ったメッセージの一部を修正して語らせて頂ければと思います。
卒業をするということで、今一度、神学校入学当初のことを思い出していました。私が神学校に入学した理由は、聖書が何を語っているのか知りたいと思ったからです。私は聖霊派の教会を通してイエス様と出会い、信仰を深めていきました。私にとってキリスト教業界は真新しいもので、歴史や背景はよくわかっていませんでした。キリスト教会の情勢を知る中で、どうもこのカリスマ派という教派と福音派という教派は神学的相違があり、お互いに壁があった時代がありました。
聖霊派の教会で育った私は、聖霊派の語ることには慣れ親しんでいましたが、実際、福音派がどのように聖書を理解して、解釈して、語っているのか、そして、聖書は一体何を語っているのか知りたかったのです。
そして、聖契神学校の学びを通して、聖書は私に重要なことを教えてくれました。それが神の国、神の王国というものでした。
聖契神学校の学びをすると、神の国ということを学びます。聖書において非常に重要なテーマだからです。神の王国とは神の支配が及ぶこと。ただ、神の王国 = 神の支配が及ぶと言われても、最初聞いた時はまだ本当の真意を理解することが出来ていませんでした。その文字の意味を理解することは非常に重要であると同時に、その言葉の理解を更に深めるためには多様な側面を見る必要がありました。
それでは、そのテーマを理解するためにはどうすれば良いのか? 神の王国を理解するには、文字の定義のみならず、聖書の点を線に繋げていく必要がありました。別の言い方をすれば、聖書を神のストーリーとして理解していった時に、私にとって神の王国という理解が深まりました。聖書を神のストーリーとして読むことで聖書は再生又は復活の物語なのだと知ることが出来たと思います。
なので、本日の聖書をもう一度読む前に聖書の最後である黙示録 21:3-5をお読みします。これは聖書が語ろうとする神様の最終ゴールです。神様は最終的に全てを新しくする。それは何を意味しているかという神の国が完成することが示されています。新しい天と新しい地が再度完全に調和して、そこには痛みや苦しみはなく、神の思いであった人と共にいるということが実現するのです。まるでエデンの園が再構築されたような姿です。そう最終的に全てが再生する。そんな復活の物語で聖書は閉じられていきます。
そのような神の将来へ向かっていきますが、一体どのようにし神は再生のプロセスを始めていくのでしょうか? 神はそのプロセスを旧約から始まり、イエスキリストを通して、再生のプロセス広げていきました。
そして、本日読んだ聖書も聖書全体を見た時に改めてその意味が浮き彫りになると神学校の学びを通して実感しました。
本日の聖書ですが、もう一度お読みします。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。 時は満ちた。この「時」というギリシャ語はカイロスという言葉です。ギリシャ語で時を表現する言葉は二つ、カイロスとクロノスがあります。クロノスは日々の時制を表しています。そう日常の時間です。カイロスは神の時、また、新しい時代の開始、時代が一変するような時ということを示しています。そのように神の時を考えた時に、出エジプトが私の心に浮かんできました。
出エジプトの時代、イスラエルの民はエジプトの奴隷として異邦の国の支配下に置かれていました。奴隷の仕事はきつく、非情に冷酷な待遇を受けていました。その処遇に耐えきれないイスラエルの民は、神様に嘆き叫びました。神様はイスラエルの民の祈りを聞き、神様はイスラエルの民の救出へ動きだします。
最終的には、神はイスラエルの民をエジプトの支配下から解放します。それだけでなく、出エジプトの物語は神のかたちを現す共同体の形成として、神の再創造を同時に描いています。元々、アダムとエバに与えられた神のかたちとしての役割を果たす使命がイスラエルに与えられていたからです。だから、イスラエルは神の共同体として新しい時代が幕をあけたのでした。暗く、長いトンネルから脱出することを描いたのが出エジプトの物語であり、カイロスの瞬間でした。
しかし、カイロスの瞬間を体験したイスラエルの民もアダム同様に、神の使命に歩むどころか、神に逆らうことを繰り返し、最終的には再度、異邦の民に支配されてしまう状況に陥ってしまいます。
イスラエルの民は約束されたメシアが救出してくれると期待しながら、待ちます。しかしながら約束されたメシアが来る前に旧約聖書はその幕を閉じてしまいます。これから、一体どうなるのであろうか、本当にメシアは現れるのだろうか? そのような疑問と疑いが民の中に間違いなく存在した考えられます。または、メシアが現れてもう一度、私たちを救い出してくれるという、期待感なのか。不安、疑い、期待と希望、色々な感情と要素が入り混じっていました。
そのような状況、情勢の中でイエス様はこの言葉を宣言をしたのです。この宣言は新しい出エジプトのように、神様がもう一度力強く働く、イスラエルの民の究極的な解放、そして、神の民とするという意味が込められていました。これが簡単な意味の神の王国、すなわち神の支配です。イエス様はこの神の国がくるという事を福音 (良い知らせ)と結びつけています。良い知らせとは、素晴らしき王がまた戻って、ご自分の民をもう一度形成する。そして、その国民は新しい人として、全世界の祝福となる。だから、イエス様は聴衆に対して、悔い改めて、王が戻ってきて、力強い働きをすることを信じなさいと語ります。
悔い改めとは方向転換、考え方を変更するという意味があります。方向転換は今までのやり方やあり方を脇に置いて、新しい方向に向かいなさいということです。それは、これから神様がなさろうとする新しいことを体験したいなら、昔のやり方を脇に置いて、新しいあり方に生きなさいとイエス様は語っています。
今までのイスラエルの民のあり方は神の律法に反する生き方。リーダーたちは弱き者を助けるどころか、弱き者たちから搾取をする。神に信頼をおくのではなく、武力、軍事力に信頼を置こうとする。イスラエルは世界の祝福になるはずなのに、自分たちを守ろうとするといったあり方などが存在しました。このようなことが結果的には自分たちの首を絞めて、最終的には自分たちが捕囚となる状況を招いてしまいます。
そのようなあり方から全く別のあり方に方向転換して、本来、神の民として歩むイスラエルが、もう一度、王なる神に立ち帰り、神の王国を治める神に信頼しなさいとイエス様は聴衆に向かって語りけたのです。そして、もう既に開始している神の王国の一員として歩んで生きなさいと聴衆を招いていたのです。実際、神の王国の一員とは神に対して忠実であり、神の心を反映して歩む者達です。
それでは、どのように神の王国の一員として歩んでいけば良いのでしょうか? 神の王国の一員として歩むために、私はここで3つの死について考えることを提案したいと思います。
1つ目は、イエスの十字架での死は古い私の死であったということです。ガラテヤ書 2:20節ではこのように書かれています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への手紙2章20節)。
2つ目は、敵である死の死です。第一コリント 15章でパウロはイエスキリストの復活を鮮やかに記述しています。「死は勝利に呑み込まれた」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」「しかし、神に感謝します。神は、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利をあたえてくださった。」。
古い自分はイエスと一緒に十字架上につけられたということです。そして、そこには身分の変化が起こったわけです。古い人から新しい人へと変えられ、そして変えられ続けるのです。
そして、3つ目は自分がこの世を去る時のことを考えるということです。実はこれは僕が最近聞いているポッドキャストの方 John Mark Comerという方が話していたことです。自分の死を常に思い起こすという実践は6世紀のベネディクト会派の修道士が行なっていたことです。だから、ベネディクト会派の修道士たちは死ぬまで黒の服を着ていました。それは、自身の死の埋葬されるための準備を常にしていたからです。実際彼らは生きている内に自分の墓も前もって掘っておき、毎日そこを通る時に自身の最後の日を思い起こしていたと言われています。John Mark Comerこの死を意識する生き方は本当の意味で生きることがギフトであると語っています。
もう一つ、自分の死を意識することで、重要なことがあります。それは、自分の最後の日を考える時に、死は自分が何に執着をしており、何を本当に重要と思っているか教えてくれるということです。私たちは生きていると、何かしらに執着して生きていると思います。それはもしかすると、地位かもしれません。お金かもしれません。力かもしれません。どのような団体に属しているかかもしれません。どのような学歴があり、InstagramやYoutubeのフォロワーを獲得したいという執着かもしれません。少なからず、私たちには自分を形成している執着が存在するわけです。別の言い方をすれば「偶像」といえるかもしれません。私たちの執着するものは死んだ後に持っていけるものではありません。そうすると、一体何が本当に大切なのかという事を考え始めるわけです。
自分の最後の日を考えることは、何が重要か見分ける力を与え、特定してくれます。今までは執着が私たちの人生を動かしていたかもしれません。しかしながら、一旦その執着が本当に重要でないとわかると、私たちは自分の人生の方向性を神中心で見直していくわけです。
今まで私たちを動かしていた執着から抜け出し行く時に、私たちはキリストにあって自由になっていくのです。最終的には、自分の人生を再構築していくことに繋がります。何に時間を費やし、何にリソースを割き、何が優先事項なのか、そこに変化が出てくるわけです。
だから、私はこう思いました。自分の死を知る者たちは本当に生きるという意味を知る者でもあると。先ほどもJohn Markさんが言った言葉を紹介しましたが、死を知ると命が与えられていることが神のギフトであり、恵みであることに気付かされるのです。それは、神の恵みによって生かされていることは、本来の人間の姿を取り戻していくことなのです。なぜなら、一度棄損した人間の姿が神の恵みによって回復していき、神の支配の中で生きていくからです。
私はみなさんにカトリックの修道士になってほしいと語っているのではありませんが、今週、自分がこの地から旅立つ時のことを思い起こして欲しいと思います。そのプロセスの中でもう一度神の恵みによって私たちは生かされていると思い起こして頂ければと思います。その時に私たちの執着は私たちから崩れ落ちていき、神が意図された人間の姿へと再生していくからです。そして、再生していく人々によって神の御心がなされていく。それが、それがイエスが語った神の国の到来であったのです。



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