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今日はゼカリヤ書11章に入ります。今日の大きなテーマが愚かで能なしの牧者です。11章16節には、「見よ。わたしはひとりの牧者をこの地に起こすから。彼は迷い出たものを尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものをいやさず、飢えているものに食べ物を与えない。かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひずめを裂く。」とあります。そして、17節には。「羊の群れを見捨てる能なしの牧者を。」とあるのです。さて、皆さんも思い浮かべるでしょう。私たちの救い主イエス・キリストは、良き羊飼いです。ですから、彼こそ、迷い出たものを尋ね、散らされたものを捜し、傷ついたものを癒し、飢えているものに食べ物を与える。そして羊の群れのために自らの命を捧げる。これこそ、私たちの救い主イエス・キリストの姿です。では、能なしの牧者とのテーマですが、今日は 11章の全体からその牧者の特色をいくつか見てみたいと思います。直接的には、イエスが生きた時代の指導者とその民を描いているように思えます
歴史を見ますと、イスラエルは国が2つに分かれ、民は捕囚とされ、そして捕囚の地で旧約聖書のみ言葉を再度学ぶようになり、イスラエルは解放され、民はエルサレムに戻ってきたのです。神の大きな憐れみの業です。そして今、神殿を再現し、新たに国づくりをしようとしています。彼らは神殿を建て、神の民となる、その大きな神の招きに応答したのです。国を失った理由それはなんでしょう。王が愚かになり、神の恵みから離れ、偶像礼拝に陥り、神のみ言葉に従うことを止めてしまったからです。北イスラエルの王は民を偶像礼拝に導き、南ユダ国ではマナセ王のような悪王が出てきます。これらのリーダーは神の御言葉から民の心を背けてしまったのです。神の預言者を迫害し、聖書の恵みから民を引き離して行ったのです。ですから今日のテーマは、神様の警告の呼びかけであると思われます。愚かな牧者がいつかまた、現れる。そのような時は、一人一人神のみ言葉から学ぶことです。歴史から学ぶことです。愚かで能なしの牧者は民に害をもたらすのです。そして、いつか神の裁きに合うのです。それがイスラエルの民が学んだ歴史です。そのような視点を持つべきです。
11章は、神の正しい裁きが臨み、特に神にそむく者には裁きがくだされる。それが隠れたメッセージであり、ゼカリヤ書全体から見た内容です。詳細を見てみましょう。1節には、「レバノンよ。お前の門をあけよ。火が、おまえの杉の木を焼き尽くそう。」とあります。レバノンは豊かな杉の名産地です。神の裁きはこのレバノンにも及ぶのです。そして3節には、「聞け。牧者たちの嘆きを。彼らのみごとな木々が荒らされたからだ。」とあるのです。この牧者は、イスラエルの偽りの指導者たちです。一時的に国は繁栄しますが、レバノンの杉のように、またバシャンの樫の木のように、たおされてしまうという神のさばきのメッセージです。指導者が堕落をするゆえに、民も同様に堕落して、神の裁きに合うのです。
7節には、「慈愛「と「結合」との表現が出てきます。8節には、「私は一月のうちに三人の牧者を消し去った。」とあります。消し去るとは解雇したとの意味です。神によって、指導者が次々と解雇されていくのです。上に立つ者が神の恵みから離れ、独裁的になると民は本当に苦しみます。ちょうどそれは慈愛と結合の杖がおられるようです。ですから10節には、「私は、私の杖、慈愛の杖を取り上げ、それを折った。」とあります。神の恵みからリーダーも、また民も外れてしまうのです。14節には、「そして私は、結合という私のもう1本の杖も折った。これはユダとイスラエルの間の兄弟関係を破るためであった。」とあります。本来イスラエルの民が1つになって歩むべき祝福の道が折られてしまうのです。神の指導者の愚かさのゆえにです。そのようなリーダーが出て来るとゼカリヤは預言をしています。さて私たちはイエス・キリストが私たちのために十字架についてくださったこと。その十字架での贖いによって、私たちが救われたことを信じています。実は、イエスは良き羊飼いとして、慈愛と結合の杖を新たに回復してくださったのです。
ゼカリヤ書11章12節で、羊飼いが受け取る賃金が銀30シュケルであるとの啓示があります。これは奴隷一人の値段であり、驚くことに、イエスがユダによって裏切られた代金と同じです。マタイ26章14、15節と27章3節から10節を見てみましょう。「時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って 言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。」とあります。マタイ27章3節からは、お金を受け取ってユダは、イエスが罪に定められたのを知って、後悔し、銀貨30枚を神殿に投げ込んで立ち去ったと書かれています。このお金は、後に陶器師の畑の代金になり、旅人たちの墓地になったとあるのです。13節に、「主は私に仰せられた。『彼らによって、わたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。』そこで、私は銀30を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。」と書かれています。イエスの値段が羊飼いの賃金と一緒であるのです。奴隷一人の値段、それしかイエスの働きを認識できないとはとても残念です。
12章10節に、「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」とあります。愚かな牧者は、イエスの時代にイエスを十字架につけた指導者であり、また愚かな民は、キリストの大きな癒しの技を見ても、最後の最後にイエスを十字架につけろと叫び続けた群衆の姿ではなかったと思うのです。
私はこの愚かな牧者、これが誰であるのかをこれ以上詮索することはやめようと思います。今の世界を見る時に本当に愚かな指導者だなと思えるリーダーが世界にはたくさんいます。戦争を始め、多くの民が苦しんでいるのに、また自分の民が亡くなっているのに、その現実に目を閉ざして、裸の王様になっている、ある国のリーダー、私には能無しの牧者のように思えてなりません。もう一度、み言葉に教えられ、人生が変えられ、神と民を愛する、そのようなリーダーが世界に立つように祈っていこうではありませんか。
最近、アメリカのテキサス州で新たな政治家が起こったことがニュースになりました。愛を語る民主党の新星タラリコ氏です。彼は争いではなく、愛を、と語りかけています。今回の選挙に勝てるかどうかそれは分かりませんが、神を愛すること、また、自分を愛するように隣人を愛する、その価値観を人々と分かちあっています。私は、アメリカに聖書の価値観が戻ることを楽しみに祈って行こうと思っています。聖書には力があります。愚かな牧者がおられると同様に、賢い牧者もたくさんおられるのです。礼拝者として生き、み言葉に教えられ、大胆に、新たなリーダーが世界に起こるように私は祈っていこうと思っています。
ところでユダヤの民は旧約聖書の価値感をお互いに理解していると思うのです。彼らは会堂での礼拝の度にトーラーを読み、聞き、こころにそれらの言葉を蓄えます。トーラーとは律法を指し、モーセ5書のことです。今日はその言葉の一部を味わって、礼拝を終えたいと思います。み言葉に応答する者となりましょう。
レビ記19章9-16節、
「あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。 あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 あなたがたは盗んではならない。欺いてはならない。互に偽ってはならない。 わたしの名により偽り誓って、あなたがたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。 あなたの隣人をしえたげてはならない。また、かすめてはならない。日雇人の賃銀を明くる朝まで、あなたのもとにとどめておいてはならない。 耳しいを、のろってはならない。目しいの前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 さばきをするとき、不正を行ってはならない。貧しい者を片よってかばい、力ある者を曲げて助けてはならない。ただ正義をもって隣人をさばかなければならない。 民のうちを行き巡って、人の悪口を言いふらしてはならない。あなたの隣人の血にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。」
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